先々週トラフグの立体授業の開催を予告しました(左リーフレット)。予定通り12月1日(日)実施しました。
講師は谷町九丁目近くの名店「旬味柳井(やない)」の三井料理長です。「柳井」はこぢんまりしたお店で旬の魚介類や野菜、特選和牛を使った絶品の創作料理を出してくれます(ちなみにTEL06-6761-0650)。いつ行っても満員です。予約なしではほとんど入れません。
店主の柳井さんや三井料理長とはもう二十年来のつきあい。お忙しい中、今回子どもたちのために特別に協力していただきました。
なぜ「生きている魚」なのか
では、なぜ生きている魚を料理するのか?
学習しているものの「正体」・身近さと奥行きを伝えるためです。そして「環覚」の「醸成」です。知識の羅列と暗記だけで学習を終えてほしくありません。
切り身で泳いでいる魚はいません。牧草を食べたり、水を飲んでいる「ハム!」や「牛肉!」なんかいません。日常生活から「生あるものの正体」が姿を消していきつつあります。それに並行して、「自分たちと同じ生きものを食べている」というぼくたちの意識が次第に希薄になりつつあります。
食物連鎖。食べる・食べられる。林間学習や臨海学習で「魚や虫を捕るな、殺すな」と騒ぐどころではありません。実は「生命のやりとり」の展開なのに、そこに生と死の「実感」は介在しているでしょうか? 食物連鎖の頂点にいる人間にまで「思いが至る」でしょうか? 生と死の実感の介在なくして、子どもたちに「優しい心根」は育つでしょうか?
「バーチャルに腐食され崩落していく一方の、生命を思う心」。血が出ることを恐れるあまり、生物は血が出る存在であることさえ忘れてしまっている子が育ちつつあるのではないのか? 切れば血が出る、生きているものは死ぬ、人は生命あるものの生命を絶つことで生きている・・・ぼくたちは忘れていませんか? 「人は生命あるものを食べて生きていかざるを得ない」という認識があってはじめて、「人を思う心」や「心からの優しさ」が育つはずだと、ぼくは信じています。生命あるものを食べている営みを知る一端が、今回のトラフグ料理です。
なぜトラフグなのか? 「冬」と「鍋」だからです。子どもたちの環覚から「季節」を外すことはできません。
また、「貝」「カニ」を食べているからテトロドキシンが身体に蓄積されていくということ、つまり食物連鎖の格好の話題です。
こうして、団の立体授業は子どもたちの学習を積み上げていきます。
学習を手元に、環覚を生活に
あらゆる機会を利用して、「現実のもの」に触れさせること。「学んでいるものは、すべて現実の抽象から始まったものである」という「学習の近しさ」を感じさせたい。ふだんの学習指導やさまざまな取り組みも多くは、その思いから始まります。
教科書では植物プランクトンから始まる捕食者相互の関係や食物連鎖を学習します。川や海の生きもの。学習には光合成も関わります。すべて食物連鎖につながります。
ことばではわかっています。名前も聞いたことがあります。塾に通っていれば試験に出るような簡単な知識はたいていの子は覚えています。
さらに、最近の教科書はきれいな写真と的確なまとめや説明が準備され、「問いかけ」もぼくたちの頃に比べると、ずいぶん洗練されてきています。
しかし、その「比べものにならない教科書を使った授業は、体裁に見合う「比べものにならないアドバンテージ」を子どもたちにもたらしているでしょうか?
子どもたちにとっては、相変わらず「どこの誰」ともわからない、「名前さえ知らない人たちが写っている見知らぬアルバム」のままではないでしょうか?
子どもたちは「写っている人と人との関係や氏・育ち!」にまで興味をもつことができたでしょうか。相も変わらず、「写っている人の名前や年!ぐらい」を教えてもらって、「覚えときなさいね」という学習スタイルにとどまってはいないのか。
写真はきれいでも、「決して定かではない」モデルの「肌の色や髪の毛の特徴!」を実際に見たことはあるでしょうか。触ったことはどれだけあるでしょうか。
いくらよい教科書でも「生体の微妙なニュアンス」は出ないし、手にとって触ることもできません。「学習を手元に」。それを忘れることはできません。
さらに、ニュートンやファーブル・エジソンやファインマンなど、名だたる歴史に残る科学者や発明家は、教科書や参考書から天才を開花させたわけではありません。すべて「現実と実物を直視し、触れ、感じ・・・」という「五感の活用と経過観察という経験」が先行して、その才能が結実したはずです。
「環覚を生活に」。子どもたちを素晴らしく育てる秘訣です。
さて来週はトラフグ調理の現場の模様を紹介をします。