『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑨

2018年04月21日 | 学ぶ

スティーブン・キング“On Writing”の教え

備えあって、憂いなし『どこへ旅行に行くねん?!』

 団では、3・4年生のときの準備は時間割通りのテキストや筆記用具の用意だけです。が、学年が上がるにつれて子どもたちの通塾カバンが大きくなります。
 これは、「団の伝統ともいうべきスタイル」で、学習が進むにつれて、「国語の読解」の授業中に、例えば昆虫や動物や天体が現れたり、地理の内容が現れたり、歴史事項が現れたりすることもよくあります。そういうとき、ぼくは「流さず」、理科や社会のテキストで学習項目や学習内容に触れます。算数の「割合」の授業中に理科の水溶液の問題に展開することもあります。このように5~6年生になると、どの授業中にも他科目の学習内容に触れたりすることが間々あるので、その要領がわかってくると、みんな「自分から」それらのテキストも用意してくるようになります。


 もうずいぶん前になりますが、ある団員が6年生の時、ちょうど通塾時間に、家庭訪問の小学校の先生がお見えになり、玄関でバッタリ鉢合わせしたことがあったようです。大きなボストンバックを持って出るのを見た先生が、『どこかへ旅行に行くの?』と云ったと聞きました。
 お母さんとの笑い話ですが、飛鳥へ課外学習に行くときも、当時は全行程「徒歩」でした。つまり一日8~10㎞ぐらい歩きます。間に田植えや稲刈りの作業もありますから、かなりハードです。3・4年生で入団したばかりの子たちは、最初相当きつかったと思います。たいていの子が「まだ?」「まだ、着かんの?」の繰り返し。 
 しかし、年間10回以上ありますから、一年を過ぎると子どもたちは、かなり体力もついて、ペースにも慣れてきます。実は、その経験で『つく』のは「体力」だけではありません。同時に「我慢」も身についているわけです
 「勉強がおもしろくなる前」、どうしても、ある程度の「我慢」は欠かせません。「今の子どもたちに、もっとも欠けているもの」です。「学体力」の養成・定着には、一方で、日ごろのこういう指導や習慣も大切になってきます。団の子どもたちが、「ゆるぎない力をつけてくる過程」です


 ぼくは先日、「自らの学習のようす」も子どもたちに紹介すると云いましたが、読んでいる本の内容を、その都度子どもたちの指導に役立てることがよくあります。今回の「万全の準備」という意味で云えば、今読んでいるスティーブン・キングの“On Writing A Memoir of the Craft”(STEPHEN KING POCKETBOOKS 邦訳「小説作法」 池央耿訳 アーティストハウス)に、こういう一節があります。
 キングが小さいころ、おじさんが何か作業をするとき、いつもさまざまな道具が入った両手で抱えられないような道具箱を大切に持ち運ぶのを見ていました。「壊れた網戸の付け替え」がドライバー1本で済んだので、キングが、「これなら作業ズボンのポケットに、ドライバーを一本入れて来ればいいじゃん」といった時、おじさんが返答する件です
 


 「まあ。そうなんだが、スティービー」、おじさんは腰をかがめて、道具箱の持ち手をつかみながら言った。「一旦家に帰らなければならないようなものが必要になるかも、わからんだろう? だから道具はみんな一緒に持って来たほうがいいんだよ。持ってこないときに限って、予想もしなかったことに出会って、落ち込むことになることが多いんだよ」(前記“On Writing” p106より 拙訳)
 
 キングは、この比喩を使って、「作家志望者」に、「力を十分発揮するには、自分の道具箱をこしらえて、どんな場面にも対処できるように力をつけなさい」とアドバイスします。つまり、「備えあって憂いなし」を教えるわけです今どきのお父さん・お母さんはできるだけ荷物を軽くと教えます(考えます)が、いつだって「万全の備えほど頼りになるものはありません」。それが子どもたちへの正しい指導です。      この本では、他にも日ごろの子どもたちへの指導内容を補完してくれる部分がありました。ぼくが云ってるというだけではなく、「キャリー」や「ミザリー」の作者で、アメリカの世界的ベストセラー作家のスティーブン・キングの助言を得た方が説得力と真実性が増します(笑い)。
 
ぼくは、塾を始めて以来、ほとんどテレビを見ないようになりました。それは、やること・やりたいこと・考えること・考えたいことがたくさんあって、「おもしろいと思えないものを惰性で見る時間がもったいない」からです。ぼくのように「若いころからの壮大な無駄」を年をとってから後悔しても始まらないので、いつも子どもたちに、その大切さを伝えたいと思っています。
 キングは作家を志す人に、「何はさておき実践しなければならないことが二つある。それはたくさん読み、たくさん書くことだ。これ以外に近道はない」と云います。そしてあらゆる時間を有効に利用することを説いて、テレビの弊害に話が及びます。現在はスポーツジムをはじめ、あらゆるところにテレビは氾濫しているが、作家になる夢をもつものには一番必要のないものだ、と云います
 
 一旦つかの間のテレビ飢餓状態から抜け出すと、たいていの人が読書をする時間を楽しめるようになる。際限なくガアガアがなり立てる箱のスイッチを切ると、人生の質だけではなく、書くことの質も向上することが大いに期待できる。テレビを消したからといって、どれだけの犠牲が生まれるものか? (前記“On Writing”  p143より 拙訳)
 


 テレビだけではなく、ゲームの弊害を子どもたちに伝えるとき、単に「やるな!」というのと、「君たちが夢を抱いて何かに取り組もうと思えば」といって、そのアンチテーゼを出すのとでは、説得力に大きなちがいが生まれます。ぼくは、「自分が読んでいる本」や「学んでいるもの」から、こうした例を「応援歌」に、現在まで指導を続けています
 
殺人犯はタブレット⑧
 さて、ぼく宛に来た水谷の6通の手紙。最後の一通です。保護者宛てのものです。以下にそのまま掲載します。

退塾した保護者への手紙―盗聴する必要はありましたか?
 
 古田 佐知子 様
 
 新学期が始まりました。大悟君は元気に通学していますか? 
 もっと清々しく、明るい気持ちで門出のお祝いをしたかったのですが、塾開設以来24年で、もっとも憂鬱な新学期になりました。 


 大悟君が入塾してくれたのはちょうど丸4年前。あなたのお母さんの紹介でしたね。
お母さんの家からほど近いところ、大悟君が今散髪に行っている床屋さんの隣が開設時の教室でした。あなたは床屋さんとも顔なじみですね。
床屋さんは塾のことをよくご存じです。「木造建築の隣同士」でしたから、声が大きいぼくの、授業のようすもよく聞こえていたでしょう。すべて「筒抜け」だったと思います。そういう教室と授業で、コソコソしたことはない「筒抜けの授業」で毎年素晴らしいOB諸君たちが育ってくれました
 また、教室の前には広いスペースがあり、大きな道を挟んだ向こう側は、今はマンションになっていますが、以前は「お米屋さん」でした。顔見知りだった「米屋さん」のご主人は、身体を悪くされてから、よく店の前で丸椅子に腰かけ、終日こちらを眺めておいででした。


 そのころは広かった教室の前の道路で子どもたちを指導する機会もよくあり、厳しく指示や指摘をしたり、大声で叱ったり、という授業のようすも、そのままご覧になっていました。ご主人がなくなられてしばらくして、店の前で掃除をされていた奥さんに、前の道路でお会いしました。
 挨拶をすると、にこやかに
「センセ~。主人がね、亡くなる前ね、センセが前で指導をされていたのを見て、よう、ゆうてましてん・・・あんなセンセがいるなら、まだ日本はすくわれるなア・・・いつも、そう、ゆうてました・・・」。
 身に余り過ぎる「光栄」でした。感激で胸が詰まり、返す言葉もなく、ただ「ありがとうございます…」としか言えませんでした。その言葉が、今までの指導の、大きな心の支えになっていました。。


 そしてあなたのお母さんにも、「前を通るたび、指導ぶりを見聞きして、孫(大悟君)が大きくなったら通わせようと思った」とおっしゃっていただきました。あなたも、よくご存知ですね。玉川夫婦の今回のしわざ。それに対して、あなたのお母さんを含む、これらの人々との人間性のちがい。この感覚が、あなたや菅原さんに引き継いでほしい日本の感覚です。正しいものの見方です。 
 幸いなことに、ぼくはこうして周囲の心ある人たちによく理解していただいて、今まで指導を続けてきたわけです。ひとりでの指導で同じ人間ですから、当時と今と指導方針や指導方法がそんなに変わるわけではありません
 一つだけ変わったものがあるとすれば、ぼく自身はあまりうれしくないのですが、「受験指導(!)」のレベルです。相当レベルアップしたのではないでしょうか。たとえば、大悟君の「理Ⅲ合格」と隆二君の「理Ⅰ合格」は想定以上で、かなり「びっくり」でした。つまり、ぼくが考えているより、受験については一段(相当)上の力がついていた、という意味です。


 「『受験指導レベル』が良い方に変わっているのに嬉しくない」。その理由は、本来の力不足で、なお学習姿勢・日常学習習慣もきちんと整っていないのに、実力以上のレベルの学校に入ってしまうと、結果が良くない場合が多いからです。学習習慣もきちんと整わず「間に合わせの受験対応のままの学習」しか知らず進学すれば、結果は「悪い方と、明らか」だからです間に合わせではなく、真に実力を蓄えることが、第一です。
 「最近あなたのお母さんに聞いて」たいへん残念に思ったのは、「試験前、大悟君に学校を休ませてまで受験勉強させてしまったこと」です。そのあたりの、ぼくの指導に対する「信頼不足」が気になります。案内で配布している指導の歴史は、他塾とは違って「全く掛け値のないもの」です。よく見て考察していただければ一目瞭然だと思いますが、他塾に行って、果たして現在のような成長を遂げたかと云うと、おそらく今のようにはいかなかっただろうという自負があります。もう一度二十年を超える、毎年の実績に虚心に目を向けてください



 目標の理Ⅱは、今までの大悟君に対する指導経験と手ごたえから十分間に合うだろうと思っていたので、そんな必要はまったくありませんでした。また、従来から「学校を休んでの直前受験学習」は原則禁止していました。
 その理由です。
 ぼくは「大学までの受験学習」を、「『受験だけのための受験勉強』ではなく『日ごろからの学習の総合学力でクリアする』」というスタイルに育てたい。それを最大目標としています


 つまり、『付け焼刃』の「一時しのぎ」ではない「本物の学力」。同業の友人「学習探偵団」の南淵君が提唱する「『学体力』の充実と定着」の優先です。今までのOB諸君も、傍目には見えないその力、『学力以上の学力』を発揮でき、それが以降の成長にも大きく寄与しました
 仮に「一時の詰め込み」で合格できても、次もまた「詰め込み」で大丈夫という「受験から離れられない学習意識」で進学することになります。決して「一生役に立つ学力には熟成しない」と思います。「受験勉強を乗り越える勉強」にはなりません
 そうではなくて、いわば『空気のように学習する』ようになってほしい。「合格すればよい」ではなく、「『合格してあたりまえ』のように勉強がすすめられなくてはいけない」ということです。


 仮に、受験で希望の理Ⅱが理Ⅰになったとしても、それによって「本人の意識(覚悟)不足」という反省の念を喚起すべきです常に最善・最高の努力と結果を出せるように指導はしますが、人生もトータルに考えて、失敗したら、そこで奮起しなければ(させなければ)」というのが、ぼくの「こどもたちが成人するまでの指導スタンス」です
 「受験で終わる学習」ではなく「自らを向上させる学習」まで考えた場合、それが最善ではありませんか? 身近な手本は、神戸大学の医学部に進んだ金山君の成長スタイルです
 「勉強を受験勉強とイコールにしか考えられず、その意識から脱却できない人」は、結局「終生、学習がおもしろいものとはわからず、方便や手段のまま終わってしまう」結果になります。「学習によって自らが向上する喜び」という、すべての学習が成就する「たいせつな形や感覚」を手に入れられないまま・・・
 そういうことになれば、若ければ特に「自らの可能性の大きな損失」だと思うのです。大悟君には、もう少し付き合って、そこまで教えたいと思っていました。ところが、こういう結果になってしまい、とても残念に思っています。
 
 水谷は、退塾した大悟君の保護者に子どもの指導と成長について、こう考えを述べた後、疑問を呈します。

盗聴の必要はありましたか?

 さて、「お母さんを介して」という入団の経緯もあり、先日、今回の件についてお母さんの理解を得たいと思い、再度お母さんのご自宅に伺いました。以前の「事件の経緯の説明」の感想から聞きたかったので、「資料を読んで、何があったか、わかっていただけたでしょう?」と尋ねると、「ええ、まあ・・・」。
 ぼくは事件の流れは、読めばきちんとわかるはずだと思っていたので、「タブレットを使って、あの通りの推移だったでしょう?」。お母さんの態度と返事のようすから、「少し…」(だけちがう)という、微妙なニュアンスを受け取りました
 「・・・相手には話しましたか?」と尋ねられたので、「こういう行動、こういう汚いやり口の相手に、何を話せるのですか? 話したいことがありますか? まず、窃盗は犯罪ですよ。その認識も出来ていません。ぼくに対する信頼も見られません。」。そして「これまで、真実を話せるように、何度か持ち掛けたはずだし、『盗聴して内容を第三者に話すことが、さらに厳とした犯罪』ですから。タブレット盗聴も犯罪ですよ。ふつうの人がやれることですか?・・・」と云うと、お母さんは急に動揺し、落ち着きがなくなりました


 つまり、「『盗聴が犯罪であること』に対する心配」です。「あなたのことを心配された」のでしょう
 正直な方ですから(あなたもですが)、ああ『(ぼくの想像を超えていたが)これは、他にも、同じように盗聴した人がいるという意味だな・・・』」とすぐわかりました。そうですね? 古田さん。


 3年生の時から2年間、大悟君と菅原君と同じ教室で、北海道大学に進んだK君と京大に進んだM君とが、ずーと一緒に勉強していたことは覚えていますか? 菅原さんとあなたは、覚えていらっしゃるはずです。優秀な彼らが、大悟君や菅原君を指導しているぼくのようすを間近で、一挙手一投足まで、つぶさに見ていたことに想いは及びませんか? 「全部」見ていたんですよ彼らは。「2年間」も。 もう大人ですよ。ぼくの指導ぶりも、すべて分かるでしょう? あなた方が盗聴する必要はありましたか? 彼らのことは信頼できなかったのですか? よくご存じなのに・・・
 おそらく、「捏造音声で、玉川夫婦(?)に『怖いとゆう』などと教唆されて、バタバタやってしまった」というのが、きっかけだと思います。


 「心にやましさ」はなかったですか? 「やましいこと」を人はやってはいけません。人倫の基本です。それが既にわからなくなってしまっているのが、玉川夫妻です。 そういうことをしなければいけなくなった理由や原因を、どうして直接話していただけなかったのでしょうか。その間も、「信頼してもらっていると思い、ぼくは大悟君の指導に心底、力を尽くしていた」のですが・・・
 ぼくの指導は、そういうこと(盗聴)をしなければならないほど「悪質」でしたか? 信用の置けないものでしたか? 3~6年まで、3年間以上見ても、わからなかったですか? 指導の結果が子どもたちにきちんと現れていなかったですか? 大悟君の性格が正しく整ってきませんでしたか? 菅原さんも、もちろんそうですが・・・。
 あなた(方)に何か疑惑をいだかせるようなことがありましたか? 「調べられなければいけないこと」が。玉川夫妻の作り話より、子どもの成長が何よりの証拠ではないですか? 大悟君はちゃんと成長しましたね? 満足いく(以上の)合格ができましたね? 「都合のよいように、犯人たちに丸め込まれてしまった」と、まだ思えませんか? 


 彼らの今回のやり口は、当人の意識・無意識は別として、結果的に「相手を同じ犯行仲間に入れてしまうと訴追ができなくなるという「詐欺師特有」、典型的な犯罪者のやり口」です。「自分も結局仲間にみられるようなこと」をしてしまったので、「非難」も「批判」も「訴え」もできなくなる(法的にも精神的にも)というしくみです
 青二才(まだ20代でした)のころ、ぼくが新宿で騙されてしまった詐欺師のやりくちもそうでした。「お金をだまされたのに、とりもどすことができない」というスタイルです。
 やましいことに、一旦足を踏み入れると、結果的にこういうふうに「ズブズブ」になって抜け出せなくなります。「自分たちも、結局一枚かんでいるから、正しいとわかっても、正しいことに協力できない」という「パターン」です。犯人の2人が、そこまで考えたかどうかは「謎」ですが、結果的には「ぼくにはとても不都合、犯人には都合がよい」という結果になりました。 


 「あなたのお母さんや亡くなった米屋のご主人にほめていただいた指導」も、結局今回こんな方向、結果になってしまいました。それが残念で仕方がありません。人間関係でもっとも大切なものは『相互信頼』です。この上なく貴重なものです。それだけでも、玉川夫妻の仕業を「水に流す」ことはできません。流してはいけないと思います。社会の根幹が崩れます。彼らは教師なのに、そういう判断もできないわけです
 それについては、どう思われますか? まだ、その経緯と結果の正誤・善悪は判断できませんか? 音声データが捏造してあったということに得心はできましたか? 


 古田さん。今回の事件の推移を振り返っていただくとわかるように、こういうことがすべてわかるから、子どもたちがきちんと育ってくれるんですよ。大悟君もそのうちの一人ですが…。「嘘をつけなくなる」のです。「正直がいちばんだ」と悟るんです。それによって、みんなきちんと、どこに出しても恥ずかしくないように育ってくれます
 その指導の効果が、今回の一連のできごとで大悟君の中で壊れてしまわないように、と心から願っています。また、最後になりましたが、大悟君のさらなる精進と成長を心よりお祈りして、筆をおきます。
 なお、大悟君と同窓の隆二君は、すこぶる積極的な学習姿勢を見せてくれるようになりました。合格した後は、このように大きく変わってくれるのが、ぼくの指導です。そのために、小学校時代に厳しく指導するのです。 
                                                                                             水谷 豊川


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