『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑪

2018年05月05日 | 学ぶ

「『練習』という概念の意味がなくなる」 スティ―ブン・キング
 スティーブン・キングの“On Writing”に、次のような件があります。これも、作家志望者に対するアドバイスの一環として例示されたものですが・・・。どんなアドバイスか?
 人は、ほんとうに好きなことをやっていれば、「練習している・稽古している」という意識(感じ)がなくなる・・・というものです。「理想」です。

 彼の息子、オーエンが7歳くらいの時、ブルース・スプリングスティーンのでっかいサックス奏者クラレンス・クレモンズに夢中になり、「彼のような演奏をしてみたい」といいだしました。キング夫妻はその願いを聞いてとても喜びました。
 世の親の例に漏れず、「ひょっとしてすごい才能があるかも・・・」と、クリスマス・プレゼントにテナーサックスを買い与え、地元のミュージシャンのところに習いに行かせました。
 7ヶ月経ちました。それなりに上達はしていたけれど、オーエンは先生に指示された時間、週四日30分ずつと週末の一時間しか練習しなかったようです。7ヶ月間練習して「『クレモンズにあこがれても、サックスは自分に向いていない』と云うことがわかったんだ」とキングは斟酌し、子どもの意見も聞いてサックスの習いごとを辞めさせました。流れから、子どもの返事はおそらく、『どちらでもよい』ということだったのでしょう。それについてキングは次のようにつづけます。
 

 この一件が私にアドバイスしてくれたことは、息子のサックス演奏は決して日の目を見ないだろう。どこまでいっても「お稽古ごと」に過ぎない。それではよくない。もっと才能を発揮でき興味が湧く、何か他の分野に投資する方がはるかによい。
 才能があれば、「練習」という概念そのものの意味はなくなる。自分に何か才能があると分かれば、その才能がどんなものであろうと、練習で指先から血が出たり、眠くて目が落っこちそうになるまでやり続けるものだ。(“On Writing A MEMOIR OF THE CRAFT” POKET BOOKS p144~p145 拙訳)
 
 キングは「才能があれば、我を忘れて没頭するはずだ(つまり、才能がなければ、他の道を探した方がよい)」ということを云いたいのでしょう。しかし、ぼくは、この考え方は「才能にあふれ、その才能が運良く早い段階で見つかった人の考え方(言い分)」だと思います。7ヶ月やそこらで、成長期の子どもの才能は判断できません。継続することにより、何かのきっかけで才能の発現を促す、という可能性を捨て去ることはできません

 また練習する過程で、「真剣に、一生懸命やるという努力をほんとうにかさねることができたか」という疑問も残っています。見ていて「あれもやりたい、これもやりたい」というのは多くの子どもの常で(理由・以前も仮説を立てたように、子どもは自らがこの世で生きていくための方策、幅広く可能性を探るという好奇心がインプットされていて不思議はない、と思うからです)、練習をさせてもらったからといって、すべて自ら進んでやるとは限りませんすぐおもしろくてしかたがなくなる子もいれば、性格・能力や運動神経、手先の器用さ等、さまざまな条件に制限され、なかなか「おもしろさ」を感じることができない子もいます

 たとえば伝統工芸や民芸品にかかわる人たちを思い出してください。「才能にあふれていて、すぐ開花するという例」は、稀でしょう。年期で開花する方がふつうです。「半ば『義務的』に続けざるを得なかった・つづけてきたが、その継続によって、いつのまにか、周囲から見れば『とんでもない高み』にのぼって(しまって)いた」・「できるようになってからおもしろくなった」という人たちの方が一般的でしょう
 海外に住んだことがないので一概には言えませんが、日本では、そういう例の方が多いのではないでしょうか。つまり、逆に「我慢強く続けられる才能が天才を生む」というスタイルです。

 そしてここには、「『お稽古ごと』や『技術の習得』『勉強』をはじめとする、あらゆる『学習』問題」について、「ないがしろにされたままだが、くわしく追及し大いに考えるべきポイント」が含まれています。学ぶおもしろさや、学習の継続、その結果としての才能の開花等、すべての学習の原則です。
 それらの問題点、「何が必要か」「どうしなければならないか」を個別にもっと意識化し、クリアにすることによって子どもたちの学習や成長、またその指導方法とその効果に大きな変化が現れるだろうと推測します。つまり教える側や指導する側(教師や保護者)は、そういう、実は『この上ない重要事』について思い巡らす日々はほとんどなく、事態は「安易(!)」に進んでしまっているのではないか
 かいつまんで云えば、「まずは少し我慢して、まじめに一生懸命、眼前のものごとに向かう。有無を言わさず誠心誠意努力させる」という「しつけ」のたいせつさです。「習いごと」すべてに、この態度は欠かせません

 「一生懸命向かうこと」によって、「自分に向いているかどうか」、「ほんとうにやりたいのかどうか」が見えてくるのであって、キング(の息子の場合)のように、「一生懸命やれない(やらない)うちに、『才能がない』と見限ったり、『向いていない』とあきらめさせる(あきらめる)のは、『学習』指導者がいちばんやってはいけないことだ」と、ぼくは思っています。
 一度も一生懸命やったことがなければ、できなければ、何をやっても『形になることはない』『身につくはずはない』というのが、指導経験から割り出した結論です。一定期間のその努力継続を実践させるのが、保護者であり、指導者のもっともたいせつな役目でしょう。一生懸命努力もせず、「向いてない」とか「才能がない」とか云って結論づけるのは、「何ごともなしえない人の、楽ないいわけ」に過ぎません
 一生懸命やれば、人からいわれるまでもなく、自分で能力の有無や向き・不向きを判断することができます。そして自分に向いていること、自分にとってほんとうにおもしろいことも見えてきます。「一生懸命が先」です

 「そういう努力を重ねられる人が、何ごとかを成し遂げる人」ではないのか。年齢を重ねた今、その真実が当たり前に明らかになってきたような気がします。この認識は、いつも子どもにも伝えています。
 「どうせやらなければならないことをやっているのであれば、できるだけ一生懸命やらなければ結果も残らず、力も身につかず、自分の人生のたいせつな時間を無駄にしていることになる」とも、よく云います。
 好きではないこと、やらなくてもいいことがわかることが、ほんとうに人生をたいせつにすることだ、とも伝えます。一生懸命やり続けてそれらが分かることによって、キングの云う『練習という概念がなくなる瞬間に出会える』のでしょう。「無意識にやって(しまって)いる状況に入る」のだと思います。
 7カ月は短い。キングは自分の能力についてはそのことが分かっていたのだけれど、息子を教える立場には立てなかったのでしょう。教えることについては、ファインマンのお父さんやエジソンのお母さんの方が上です。子どもの有り余る可能性を信じて、自ら「子どもたちが、『おもしろく、ものごとに向かう』ようになる指導応援』に神経を使いました

「文字の勉強」と『情(こころ)の学習』 
 本は読めるけど、計算はできるけど、勉強はできるけど、「情(こころ)」は読めない、わからない。
 お母さんやお父さんの「知的レベル」がそれなりに高く(たとえば先生)、教育にも「関心(!)」がある…。そんな場合に多い、子どもたちの「いびつな」成長の「一例」です

 字は読めるから本を読むのも速いし、(表面的な)意味も分かる。漢字はできるし、(受験)問題は解ける。だけど、わがまま・自分勝手・人の「情(こころ)」は分からない。物語の『心』は分からない。感じられない。そんな子がどんどん増えてきているような気がします。
 受験勉強しかせず、まず、問題を解くこと。解ければよい。勉強はそれだけでよい。本もほとんど読まない、特に小説なんか読んだことはない。教育界にもそんな経験・考えの人が増えてきているのではないでしょうか。『情(こころ)』はどうしたのですか?
 かつての国語の先生には、本を読むのが好きで、自分が読んだすばらしい本や作家に対して一家言をもった人が数多くいました。今の四十才前後からは、本なんかそっちのけで、ゲームが爆発的に流行し始めた年代ですね。

 高校時代、ぼくが東京教育大学を目指すきっかけになったK先生のことについては以前触れました。ぼくの問いかけに対する返事、「ヘミングウェイなんて…」という一言。それによって若いときに、ぼくは「ヘミングウェイ」を読む気がしなかった、という例です。信頼する先生の一言が、「生徒、少年期の読書志向や価値観にいかに大きな影響を及ぼしてしまうか」と振り返りました。それだけ影響力が大きい。
 当時のK先生は30代の前半、その若さゆえ「ヘミングウェイの『老人と海』なんかは、先生自身が『手ごたえとともには(!)』わからなかったのだろう、ということ」、そして「『若さゆえの勢い』が余って」の、指導セリフだったのだろうということが、現在ではよくわかります。

 K先生は「シャープで感性の優れた人」でしたから、今の僕の年齢の指導なら、「老人と海」で「年をとることの寂しさ、さらに肉体の衰えから始まる自らの可能性や夢が次第に潰えていくことを直視しなければならない過酷さ」、その時期(年齢)が来たからこそよく見える真実、「若いということの純粋さや美しさ」。そこから生まれる永遠・生命や人間存在・その意味を考察する授業にも展開したはずです
 さらに、ヘミングウェイに限らず、同じノーベル賞作家の川端康成ら、「少なくはない」数の作家が年老いて自死(自殺)する理由にも、「思い(話)」は及んだでしょう。「高み」にのぼったがゆえの人生の残酷さ、年老いて分かる自らの能力の衰退や感受性の摩耗に、繊細な神経が耐えられなかった、ということも・・・。自らの年齢や実体験とともに明らかになります。

 このように、「何かを」、「ほんとうに大切な『もの』や『こと』を伝えたい」と思えば、生命(寿命)のリミットを頭から除けることはできません。これらのテーマを30代や40代に「わかりなさい」と云っても、おそらくむずかしいでしょう。それらを考えれば、「ヘミングウェイなんて・・・」という一言も「まあ、しょうがないこと」です。
 K先生がヘミングウェイを否定したからと云って、彼の指導がぼくの大きな力になってくれていることに変わりはありません。ぼくがこのように自分なりに「自分の考え」を進められるようになったのは、指導用の虎の巻ではなく、K先生が実際に自ら本を読んで「その感想や考察を基本に指導してくれたからだろう」と考えています。前後の先生、両者では「子どもたちのわかり方」がまったく異なります。「伝える心の有無・力の入り方の、比較にならない差」です。読んでもいなければ心は伝わりません。
 国語の先生には特に、中学生以下の小さい子たちには、「『本を読んで感激する情(こころ)』を、『文法の指導』より先に教える力」が、何より必要ではないのか、と思っています。「ただ字を読む」ことなら、どの科目の先生でもそれなりに教えられるが、「深く読むこと」は、感受性に富み読書経験の豊富な先生でないと無理でしょう。
 「小説や物語の読解」まで、実際に『読むことなく』、「あんちょこ」や「虎の巻」の受け売りを「配達」するのでは、情操教育にはなりません。子どもたちのお父さんやお母さんに、もし、そういう人がいれば必要ないですが、20年以上の指導経験でも、そういうお母さんやお父さんにほとんど巡り会ったことはないので、やはり国語の先生の力が必要と云うことなのです。
 先日の、「友人の水谷が災難にあった事件の犯人」のひとりも中学校の国語の教師のようですが、自分の子どもに対する指導やしつけ、また犯行の経緯を考える限りでは、「情操教育」どころか、子どもに教えるような「善悪の判断基準」「義務・責任の意味」さえ、いい年になってもわかっていないようです。

 おそらく「本に感激したり、小説に手に汗を握り涙を流し・・・という経験」など皆無で、身体は成長したが「こころ」は忘れて育ってしまったのでしょう。行動や判断から「心」は見えてきません
 涙ではなくスポーツで汗だけ流し、シミュレーションプレーを覚え、受験勉強も予備校で教えてもらって「教員」になることはできた、「元気に育った」が、人間として、そして「自らの子育て」や『子どもの指導』にもいちばん大切になる「心」を涵養することはできなかった・・・。「人の物も自分のもの」「自分さえよければいい、他人のことなど知ったことか。人は関係ない」という、今回の犯行の裏側や経緯と経過が証明しています。こうして「次の世代が再生産されていく」ことに、もっと強い危機感をぼくたちはもたなければいけないのではないでしょうか?
 報道では、数週前刑務所を脱走して逃げ回っていた犯人がつかまり、逃亡の理由を聞かれて、「刑務官との人間関係が嫌になった(いじめられた?)」と言ったようです。温泉旅行や行楽に行ってるわけではありません
 「自ら(他人に被害を与え迷惑をかけた)犯罪によって、(その罪を償うための)『刑務所』に入っているのに、『刑務官が嫌だ』などという馬鹿馬鹿しい、笑い話にもならない身勝手な理由」、その理由の「とんでもなさ」や「判断」を、一向に問題視しない報道や世間。聞いても何とも思わない人、その感覚のズレが犯罪の温床を準備する、ということが分かりますか?

 「窃盗を犯した息子をかばい、その罪を隠蔽するという『愚かな教員』の行動」は、この犯人の発想と、根源がきっちりリンクしています。少なくとも、小さな子どもたちを教える教員の間で、こういう判断や行動が蔓延することは絶対避けなければなりません。学習以前の、人間としての成長に大きく関わります。きちんとした躾や指導が、世間を不必要に停滞させずスムースに機能させる潤滑油です
 「受験までのテクニックや知識は多少教えられても、人としての成長に対する指導やしつけはまったくできない。できていない」という恐ろしさに、ぼくたちはもっと目を開かなくてはいけないのではないか。そう思います。
 子どものために、(受験)勉強だけではなく、「『こころ』を教えられる先生」をもっと育てなくてはなりません。教員養成大学や養成学部はきちんと機能しているでしょうか。その役目を十分果たしているのでしょうか。そうした環境にあるでしょうか。問題意識は存在しているでしょうか?
なお、使用したイラストは、いつもの「かわいいカット・イラスト2000 亀山利明著日本文芸社」より。


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