ウランが飛散し、4人が被ばくしたという記事があった。
第五福竜丸で被ばくした船員の、闘病を記した本を読んだ時のことが蘇った。
一見すると何ともないように見えた船員たちが、みるみる、体調を崩して、崖を転げ落ちるかのように
衰弱して行く姿を、「これが現実」という衝撃とともに、脳裏に刻まれたことを思い出した。
時折、起こる被ばく事故。
たまに報道される発電所のトラブル。
「でんでんむし」という、「発電所はいらない」というメッセージを訴えていたグループが、
新聞などの発電所の事故や、放射能にまつわる話などを、精力的にしていた。
学校時代に、原爆は戦争で使われる。
発電所は、平和利用で使われるとの説明を聞いた時は、単純に受け入れた。
「ピカドン」とか、「はだしのゲン」「平和宣言」などに触れるにつれて、平和な時代に使われる
のだからという単純なものではないということに、思いが及んだ。
日常の生活や、製造工場、商店など、今や、電力の欠かせない時代に、4割くらいは、原子力に
頼っていると聞いている。
事故はつきものなのだから、安全性はしっかり確保して欲しいと望むとともに、できれば、原子力に
頼って欲しくないという思いはある。
かつてのチェルノブイリ事故も、最初は過小評価されたし、第五福竜丸も、被爆国の日本でも放射能について正しく理解している人は少ないために、放射能にたたかれ、世間にたたかれ、筆舌につくせぬ思いを強いられた人の存在があったことも、忘れ去ることの得意な人間たちにとっては、ちょっと、
ニュースになったというだけでまた終わってしまうのかと、いう気がする。
非力を思い知る。