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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <シャロンの野花>

2015-08-23 | みことば静想

カトレヤ「われはシャロンの野花 谷の百合花(ゆり)なり」(雅歌2:1文語訳)

以前、ある方から洋ランと東洋らんを10鉢ほどもらい、育ててみたことがある。枯らしては失礼と思い、栽培書を買い求め、かなり真剣に育ててみた。しばらくして、カトレヤの名品が美しい花を咲かせたときは感動であった。▼しかし1年もすると、あまり興味がなくなってしまった。面白みを感じなくなったのである。たしかにラン、それも洋ランの花は色彩も形も千差万別、豪華でみごとである。葬儀などで、ランをふんだんに使った祭壇を見ると、「なんとすばらしい、まるで花園のようだ。故人も列席者もさぞかし満足にちがいない」と思ってしまう。▼が、まてよと思う。このような花に囲まれて1週間も過ごしたら、しまいにイヤになってしまうにちがいない。最後は苦痛をおぼえるのではないか、と。

そこへ行くと、洋ランにくらべ、東洋らんはじつに地味である。花は小さいし、形もほとんどおなじ、わずかに葉に模様がついている程度のちがいだ。しかも交配がむずかしく、ほとんどが自然のまま、いわゆる「山取り」で、株分けで増やしたものばかりだそうだ。愛好者も限られている。ちなみに葬儀の祭壇に春ランや寒ランを飾ってみたところで、「なんと貧相な」と嫌がられること請け合いであろう。▼ところが、専門書には面白いことが書いてある。「人間は最初、洋ランのような豪華美麗な花に飛びつき、しばらくは夢中になる。ところが、その世界をめぐりつくし、やりつくしてしまうと、人の手が加えられない大自然のままの花、見栄えがなく、なんの変哲もない野の花に心が向く。東洋ランの世界はこうしてランの世界を窮めつくした人に開かれる奥深い境地に咲く花なのである」と。

ここで、牧師の私はいやおうなしに聖句を思い浮かべる。「われはシャロンの野花 谷の百合花(ゆり)なり」。文語訳は「野」が入っているのがよい。もひとつ、新共同訳にも「野」が入っている。「わたしはシャロンのばら、野のゆり」。イエス・キリストが私たちを魅了するのは、たとえていえば、野の花の美しさである、と私は思う。彼は人の手により変更されていない、神の作品そのものだ。いわば、天の人が地に咲いているのである。いったんそのことに目が開かれると、誰でも夢中になる。雅歌の女性が愛する人に夢中になったように・・・。それは大衆受けする美ではなく、見栄えなき美、山頂の美ではなく、谷底の美である。▼イエス・キリストはヘロデの宮殿やアウグストスの絢爛たる王宮にいるのではなく、ガリラヤの野におられる。紫の玉衣と金の杯の幻想の中にではなく、闇の中、収税人や奴隷、まき人やゴイム(異邦人)の中にご自身を現しておられる。「ただ言葉がそのような仕方で人間であるときにだけ、言葉は現実にわれわれと出会うことができるであろう。」(カール・バルト)