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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅱ列王記2章 <水源の癒し>

2020-08-06 | Ⅱ列王記

「エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。『主はこう言われる。「わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。」』こうして水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。」(Ⅱ列王記2:21,22新改訳) 

ヨシュアはエリコの町を破壊したとき、この町を再建する者は呪われると預言した。それから五百年ほど経てヒエルがエリコを再建したが、はたせるかな、二人の息子を失った(Ⅰ列王記16:34同)。預言の厳粛さを想起させるできごとである。▼やがて人が住み始め、町は繁栄したのであろうが水源は癒やされず、病者や流産が多かった。そこにエリシャがやって来て悪い水を良い水に変えたのであった。▼だが、もっとすばらしいことは、エリシャから900年ほど後、救い主がこのエリコに来られ、ザアカイが救われたことである(ルカ19章)。彼は取税人で、町の人々は罪人のレッテルを彼に貼って差別していた(19:7)。どんなに孤独であれ荒んでいたかが想像できる。その彼が主から「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5)と声をかけられたとき、たったひと声なのに、その心がたちまち愛と喜びの泉に変わった。主イエスこそ心という水源を癒やされるお方である。この事実を認め、癒やし主イエスのみもとにひれ伏したい。▼「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。」(ヤコブ3:9~12同)