「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。」(詩篇93:1新改訳)
みいつとは「人を恐れさせ、従わせる力」と辞書にあるが、同じ語がイザヤ書では「ご威光」と訳されている。「悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。」(イザヤ26:10同)▼ガリラヤ湖で、主がペテロに魚を獲るよう命じたとき、彼は「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」(ルカ5:5同)と言いつつ網を下ろした。すると突然網を破らんばかりの大漁になったではないか。そのときペテロは、足元にひれ伏し、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と告白した(同8)。▼主は人をさばくため来られたのではない。またご聖霊も審判を下すために降って来られたのではない。しかしその御本質には絶対者としての聖と義が満ちておられる。ペテロはナザレの青年にそれを見たのだ。▼私たちがキリスト者であるということは、恵みと愛とともに、言い表せない「聖なるお方」の威厳を感じながら、日々歩むことではないだろうか。この世界はすべてが神の威光を示し、聖書はあきらかにそれを啓示しているのに、見ようともしないで悪にふける。そのままで生涯を終えるなら、あとは永遠のほろびしかないことを知るべきである。