「ああ。自分の父に『なぜ、子どもを生むのか。』と言い、母に『なぜ、産みの苦しみをするのか。』と言う者。」(10新改訳)<o:p></o:p>
神がイスラエルを愛すれば愛するほど、彼らは背き、かえってその愛を不思議がり、笑ったが、これほど悲しいことはない。 この痛みは、教会を建て上げていくとき、ご聖霊が味わっておられる悲しみに通じる。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラ4:19同)パウロはガラテヤの信徒たちが福音の恵みから落ちたとき、うめきながら日夜祈ったが、これは愛するイスラエルにうらぎられた神の悲しみと本質的に同じである。 私たちも家族や隣人に伝道するとき、どんなに語っても受け入れられず、さびしい思いをすることがある。もうやめようか、とさえ思うこともないではない。しかしそんなときこそ、神の痛みと、どこまでも愛し続けられる忍耐の深さにとらえられ、語り続け、祈り続けるべきではないだろうか。もしかすると、神は涙とともに種を蒔いた者に、喜びとともに刈り取る時を来たらせてくださるかもしれない。<o:p></o:p>