「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。」(ヘブル11:17新改訳)
アブラハムは100歳になって、奇蹟的に世継ぎを与えられた。それがイサクである。どれほどかわいく、愛する子だったか、想像するのもむずかしいことである。▼しかし神はイサクがたぶん十代になったとき、「その子をモリヤ山で犠牲にしてわたしにささげなさい」と命じたのであった。驚くべき命令、理解に苦しむ命令であった。というのは、「わたしはイサクからあなたの子孫を空の星のように多く起こす」と、神が固く約束しておられたからだ。そのひとり子を殺してしまえば、神の約束は反故(ほご)になってしまうではないか。神の二つのことばが完全に相反する内容だっただけに、アブラハムは苦しんだことだろう。▼その煩悶(はんもん)は彼とイサクが二人だけでモリヤ山に登って行くとき、頂点に達したにちがいないかった。どちらも神がお語りになったことばにまちがいはない。追いつめられたアブラハムは、とうとう一つの結論に行き着いた。私がイサクを山上で屠(ほふ)ったとき、神は何らかの方法でそれを生き返らせて下さるにちがいない。そして生き返ったイサクを連れて山を下る、そうすればどちらのおことばも実行、成立することになる。▼かくて彼は肉体の復活を期待し、信じたのだ。イサクをしばり、たきぎの上に乗せ、刀をふり上げたアブラハム、その瞬間、神のおことばがひびき、燔祭(はんさい)の式は中止を命じられ、二人はなにごともなかったようにモリヤ山を下りて行ったのである。神が望まれたのはアブラハムが死を乗り越えた復活信仰を持つことであった。イサクを殺すことではなかったのである。▼私たちも、アブラハムの抱いた復活の信仰を持つとき、真の意味で「アブラハムの子孫」となることができ、永遠の神の国を嗣業(しぎょう)として受け継ぐことになる。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9同)▼ここの「救われる」とは、キリストが再臨し、私たち信じる者たちが、復活・栄化して携挙(けいきょ)にあずかることまでを含む救いの完成を指すのはもちろんである。