顔が長かったばかりにエレベーターから脱出できなかった男の物語。
そう、そう、阿部寛じゃなくて谷啓だったら脱出できたかもしれないのに・・・って、そういう問題じゃないでしょ。
エレベーターが最寄階に停まらないオンボロだったばかりに脱出できなかった男の物語。
そう、そう。いまどき、あんな中途半端なところで停まるエレベーターなんて不良品なんじゃない・・・って、そういう問題でもないでしょ。
でもさあ、オリジナルのフランス映画を観たときは、気にならなかった、そういうディテールが気になるってどうなの?
あんな立派なビルなのに警備員がひとりっていうのもおかしいし、警察側の捜査も相当杜撰な印象だしね。
昔は疑問に思わなかったことが、いまでは「ありえないだろう」っていう感想になっちゃうってことは、時代が変わっちゃったってことかな。
現実の社会のほうが進んじゃって、犯罪映画もつくりにくくなっちゃったってことね。
しかも、フランス映画を日本映画につくりなおすっていう大きな壁。
オリジナルでジャンヌ・モローが言っていたフランス語の「ジュテーム」を吉瀬美智子が日本語で「愛してる」って言わなければならない苦しさ。
意味は一緒でも、ことばの響き、ニュアンスの違いが予想どおり際立ってしまった。
その後の展開も、一生懸命いまの日本に置き換えようと努力しているのは認めるけど、やっぱりどこか浮ついた感じが残ってしまう。
フランス語をそのまま直訳したら、妙な日本語になってしまったようなむずがゆさがあるんだよな。
それを象徴するのが、箱根の場面。やくざとその女と若者とそのガールフレンド。時代錯誤としか思えない、歯が浮くようなシチュエーション。
オリジナルではそんな不自然に感じなかったんだけどなあ。それも時代のせいかな。
若者たちをオリジナルと同じようなバカっぽいキャラクターにすれば、まだよかったかもしれない。
玉山鉄二と北川景子じゃ、分別が感じられちゃって、そのぶんバカな行動に違和感が出るんだよな。
阿部寛も、愛のための行動というより、自分の卑小さを認めたくないために行動を起こしたように見える。
あっ、そこは、スタッフ、確信して撮っていると思う。
自分の卑小さを認めたくなくて犯す殺人が?それじゃあ、「告白」の少年たちと一緒じゃない。
だから、そこが、いま日本でつくりなおす意味というか、リメイクのポイントなんだ。ささくれた時代の一断面。
私は、どうせならラストも「愛してる」のセリフで締める映画にリメイクしてほしかったな。
どうして?
この物語、女は男に愛の証明として殺人を依頼する。でも、彼が実行したかどうかわからない。疑心暗鬼。信頼と不安の間で揺れ動く女心。でも、殺人は実行されていた。私から見れば、そういう映画。
だから?
だから、最後、女が確信するのは、彼は自分を愛していたっていうこと。その前には完全犯罪が崩れたことなんてたいしたことじゃない。愛は勝ったのよ。そして、女は写真を抱き、最初と同じセリフを吐く。「愛してる」。ゆっくり暗転して映画は終わる・・・。どう、こういうリメイクは?
最後はやっぱり字幕で終わるべきだろう。「この物語はフィクションであり、実在の最新式エレベーターとは関係ありません」そして、タイトル・・・「時代遅れのエレベーター」。
やっぱりそうくるか。