逆順でたどる平安京の天皇たち 番外
北朝5代を語る
北朝4代目 後光厳天皇 「大混乱の中の即位」
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
深草北陵 |
別称 |
光融(法名)・延文聖主 |
父親 |
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母親 |
藤原秀子 |
子女 |
緒仁親王(後円融天皇)・煕永親王・堯仁法親王・堯性法親王・亮仁入道親王・覚増法親王・ |
皇居 |
歴代の天皇で、一番ご本人にとって意外な即位であったと思われる。光厳天皇の第2皇子で兄が崇光天皇になっていた。加えて世は南北朝の時代であり、自ら即位の意志はなく、その意欲を見せるだけでも命が危ない時代だ。従って、幼少期に仏門に入る事が決まった。しかし歴史の皮肉で、その後光厳の皇統が南北朝統一の時点まで続く。
妙法院 後光厳が入門するはずだった。天台宗5大門跡寺院の一つだ。
足利尊氏のもと、一時的に南朝方に京都の政権が復活し、その後2代目義詮が北朝の復活を果たす折り、南朝方は、北朝方の上皇・天皇・皇太子すべてを拉致して逃げた。仏門に入っていた後の後光厳天皇は奇跡的に逃れて幕府からの要請で即位した。
その様な経緯から、三種の神器がなく正統な天皇ではないというコンプレックがあり世間からも軽んじられた。その間、幕府の騒乱は絶えず、宗教界も争いが続く。京洛には盗賊や火付けが横行し果てしない混乱が続いていた。
そして、遂に足利3代将軍義満の登場により収束に向かう。後光厳天皇は自らの皇子の後の後円融天皇に譲ると言い、一時吉野の南朝に捕らわれていた兄の崇光上皇はその皇子(すでに皇太子を廃しされていた。)に譲るよう主張した。それを治めたのが義満で、結局、後光厳天皇の皇子後円融天皇の誕生だ。しかし、後光厳上皇は治天の君(院政)を始めるという矢先に亡くなる。
深草北陵
残念ながら政策的功績はない。そして深草北陵に葬られる。この御陵は「深草12帝陵」と呼ばれている。89代後深草天皇から伏見天皇、後伏見天皇、そして後光厳天皇とその子後円融天皇、南北朝統一時の後小松天皇、称光天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇と、持明院統の天皇の12名が葬られている。御寺泉涌寺の月輪陵の12名に並ぶ最も多くの天皇が眠る御陵である。(しかし、現在は残念ながら、北朝のお二人は除外されている。)そこまで差別するか??
実は絶倫天皇3代将軍 義満登場
因みに、後光厳天皇の功績をあえて探すと、皇室の最大の必要能力である生殖力の絶大さだった。このような混乱時でも、記録に残るだけでも18名以上の皇子・皇女を残している。
結果京都の門跡寺院の発展に大きく寄与しているのだ。