アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

360 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 74代 祖父を越えたかった天皇

2018-05-14 07:56:49 | 日記

去年の今日のブログを見ると、アキレス腱断絶後2か月が経過し、ギブスが取れて歩行訓練が始まった事が書いてある。

「たった一歩の右足が出ない(涙)」「部屋の中を一周も出来ない・・・。」

2か月の足首の固定によって硬直が酷く、筋力の低下も想像以上で絶望しかけている姿が書いてある。

当たり前のことだが、病気・けがをして健康の有難さを知る、のである。

歩きたい、京都に行きたい、せめてゴルフがしたいと、書いてあった。

今は、ゴルフのスコアの回復を願って高額な新品ドライバーを買っている。

欲はキリがない。それもまた人間か?


逆順でたどる平安京の天皇たち


74代 鳥羽天皇 祖父白河上皇を越えられなかった天皇

在位期間
嘉承2年7月19日1107年8月9日)-
保安4年正月28日1123年2月25日

元号

嘉承天仁天永永久元永保安

先代

堀河天皇

次代

崇徳天皇


誕生

康和5年1月16日1103年2月24日

崩御

保元元年7月2日1156年7月20日

陵所

安楽寿院陵

宗仁

父親

堀河天皇

母親

藤原苡子

皇后

藤原泰子(高陽院)
藤原得子(美福門院)

中宮

藤原璋子(待賢門院)

 

鳥羽天皇の不幸は、

①賢帝と言われた父堀河天皇の早い崩御。

②祖父白河上皇のあまりに長い執拗な院政。

③祖父から押し付けられた絶世の美女で最初の皇后璋子との関係。

④藤原摂関家との確執。

⑤息子であり叔父?でもある崇徳天皇との争い。

⑥後半生の愛妾美福門院得子とその子近衛天皇に先立たれた事、などである。

①   は、次回書く。②は、76歳まで生き、そして鳥羽自らの退位と曾孫の崇徳天皇の即位まで口出しされた事だ。しかもその遺伝子上の実父は、白河上皇その人である。

以下に、NHKから分かりやすい系図を拝借する。吹石扮する舞子は架空。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

日本史上最初に「院政」を確立した白河上皇については後日詳しく書くが、ともかく異常な家族関係の中であった。③璋子との関係は想像するしかないが、二人は実は崇徳以外に6人も子を作っている。祖父の寵姫と閨を共にし、むしろ鳥羽天皇が情事の作法を教わったはずだ。どんな気持ちで交わっただろうか?想像を絶する。曾祖父白河上皇からすでに女にされていた15歳の璋子が17歳の鳥羽天皇の閨の主導権を握り、いずれの時からは鳥羽天皇がリードして愛を育んだと思われる。

「藤原璋子」の画像検索結果こんな美女なら人生を狂わす?

④は、摂関家筆頭の忠実を重用しその息子忠通が白河上皇に近かった為に排除しようとしたことだ。この辺りの確執が保元の乱に関係する。⑤は、特に近衛天皇が長生きしていたら崇徳上皇との最終決戦もなかったかも知れない。勿論何より、鳥羽天皇自身がもっと生きていれば良かったのだが・・・・。

なお、皇后は最初の待賢門院璋子、後半美福門院得子、そして藤原忠実の娘泰子も迎えている。3人の皇后は異例である。ただし泰子入内は藤原氏との戦略性が強く、その時39歳の泰子との間には子はいなかった。

源氏・平氏の多くの武将たちが、御所を幾重にも警護する中での崩御であった。その死は、摂関家から政治の実権を天皇家に奪還したものの、いよいよ武家を主役に押し上げる事になった。

Anrakujuin01n3900.jpg

死後、鳥羽離宮の案楽寿院陵に愛妾美福門院得子と、そして愛息子近衛天皇と共に眠っている。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする