逆順でたどる平安京の天皇たち
75代 崇徳天皇 悲劇の天皇
崇徳天皇の生涯は、3つの期間に分けられる。
遺伝子上の父である白河上皇の崩御までの幸福期。形式上の父である鳥羽上皇の崩御までの屈辱期。そして自らの死までの破滅期と分れる。
幸福期は、5歳で即位し白河上皇崩御の10歳までと極めて短い。愛妾璋子を国母にしたい為、自らの孫である鳥羽天皇に差し渡した後妊娠させたのであるから、当然その庇護にある間は地位は安定していた。
因みに、鳥羽天皇も璋子の魅力には勝てず、自らの種?による後の後白河天皇を生ませている。璋子とは妖艶でかなりの美女であったようだ。しかも安定的に妊娠できる健康な女性であったらしい。
屈辱期は、たちまち鳥羽天皇が反撃に出る事で始まる。怖い爺さんがいなくなって寵愛も滋子(美福門院)に移り、その所生の近衛天皇に譲位を強要される。しかも近衛天皇が早々に亡くなっても自らの子には皇位を譲ってもらえなかった。そして遂に、同母の後白河天皇の即位となる。
破滅期は、遂に怨敵鳥羽上皇の崩御によって堰を切ったように崇徳院は行動する。保元の乱の勃発である。その詳細はすでに書いた。
その結果招いた、「崇徳の時代」の特徴を3つ書く。
① 保元の乱による戦後処理で、平安京初期の薬子の変以来、途絶えていた「死罪」の復活である。実に300年以上にわたり「死罪」はなかった。まさに平安な時代であったのだ。
② 武士の時代の到来だ。愚管抄の有名な「のちムサの世になりにける。」と綴られたように、まさに平氏・源氏と武士が世を握ることになる。
③ 早良親王や道真の怨霊以来、再び強い怨霊の支配が続き、飢饉・災害・世の不安が次々襲う。
因みに、崇徳院は金毘羅神社に合祀され、さらに数世紀を経て京都に新たに白峰神宮が造営されることになり、道真の天満宮同様最も恐れられた怨霊に昇格することになった。
恐ろしや骨肉の争い。元はと言えば、白河上皇の倫理にもとる行為?が起こしたことである。
次は、その父? 鳥羽天皇