逆順でたどる平安京の天皇たち
77代 後白河天皇 希代の策士
私は、白河天皇、後醍醐天皇、そして後白河天皇を、3代策士と見ている。
準策士は、後水尾天皇だろう。
在位 |
1255年~1258年 在位3年間 |
生没 |
1227年~1292年 65歳 |
御所 |
法住寺殿(三十三間堂含む) |
先代・次代 |
近衛天皇→当代→(子)二条天皇 |
御陵 |
法成寺陵 |
父・母 |
鳥羽天皇・待賢門院 |
中宮 |
藤原忻子 平滋子(建春門院) |
後白河天皇は、天皇としてはわずか3年のことで、語るべき歴史はすべて上皇としてである。従って、実は既にほぼ語り尽くしている。神皇正統記を見ても「保元の乱」の記載から始まっている。ただし、崇徳や近衛と違って正当な血統からの即位であり「天命」であると評価している。
鳥羽上皇との親子の確執から始まり、崇徳天皇との兄弟対決は保元の乱となり初めての戦乱だった。その後、平治の乱を切り抜け台頭する武士達とのつかず離れずの政治手腕は、特に信念を感じないもののしっかり生き残る。
源義朝初め、平家の残党たち、そして頼朝、義経へも追討の院宣を発した。政治的信念ではなく、都を占領する勢力に媚びる、言わば身の保全の為のものでしかないのであった。清盛とは、永遠のライバルであった。しかし崇徳天皇から始まり、息子二条天皇その子六条天皇、また同様に高倉天皇など、血族との確執は如何なる気持ちだったのだろうか。
晩年は頼朝との確執を抱えながら、武士との最終決戦は強い皇子である後鳥羽天皇に継がれていくのである。平治の乱の勝利から、平家の全盛を生き抜き、鹿ヶ谷の陰謀を陰で操り、六波羅陥落以降、次々やってくる覇者達との確執を乗り越えて35年を越える院政を行った稀代の王者が後白河天皇であった。
次回は、文化的功績を見る。