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美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ルノワール展 1/14~4/16 宮城県美術館

2017-01-25 12:56:48 | レビュー/感想
ルノアールと言うと、リビングに貼られていた銀行のカレンダーのイメージがある。昭和30年代か40年代頃、高度成長の上り調子の時代に、誰しもが抱いていたステレオタイプの幸せと欲望のコード、欧米並みの生活イメージにそれはマッチしていたのだろう。そういえばルノアールの代表的な絵の主題にもなっているが、ピアノのある生活というのが多くの家庭の夢だった。いずれにしろ、当時、フランス絵画というとまずルノワールの名前が挙がるくらい、日本人には圧倒的になじみのある画家だった。しかし、今はどうだろうか。65歳を過ぎた自分にとってさえ、今「ルノアールが好きです」というのはちょっと憚れるところがある。その意味で120周年の記念企画にルノアールを今、大真面目で取り上げる地元新聞社の行く末が、余計なこととはいえ、ちょっと心配にもなる。

さて、誰にでも愛される絵である。ルノアールは、「絵画とは何か」という探求を主軸においた結果、理屈っぽくもなっていく近代画家とはもともと無縁の感性の画家であった。それは子だくさんの仕立て屋という貧乏な家庭に生まれたことと関わっていると思う。生まれたのが、中部フランス、18世紀以来の陶業の町王室製陶所にも指定されたリモージュであったことも、少なからず関係していることだろう。家族が生活のためパリに移り、ルノアールが13歳になったとき、ルノアールは陶器工場で小僧職人として働きはじめ、陶器の絵付けの仕事を経験する。ルノアールの絵の才は、最初の段階から「稼ぐ」こと、生活と結びついて、花開いていくのだ。

やがて環境の変化がルノアールを画家にする。手仕事に依存して陶器の絵付けの仕事が機械化にともない衰退していく中で、ルノアールは「絵を描いて売る」画家になることに活路を見出していったのだろう。そのために20歳で画学生となる。2年後には職人のときに習得した技術もあって早くもサロンに入選している。その画家としての初期にはコローやクールベ、ドラクロワの影響も受ける。やがて30代にはモネ、ピサロ、セザンヌといった画家に混じって、印象派展に参加する。しかし、その背後にある理論や精神に共感し確信的に印象派グループに加わったのではないのだろう。ルノアールにとってそれは自分の感性的世界を押し広げる新しい技法に過ぎなかったのではないか。

この展示会でもモネやセザンヌといっしょに描いた絵というのがあった。モネといっしょに描いた絵は、黒を効果的に使い、構図の取り方もまさしくモネ風の風景画だった。また、縦長のセザンヌと描いた絵(泉のそばの少女、魚かごを持つ少女)は、めずらしく背景の奥行きが明瞭でセザンヌの影響を感じさせられる絵で、ルノアールの絵の中では比較的自分には好きな部類に入る。(モデルのプロポーションもすらっとしていてエレガントだ。)ところで、こうした近代画家と交わりながら彼は絵画の革新や進歩などほとんど信じていない。だから中期には印象派が否定したはずのアングルに傾倒して、絵は外向の光のもとで描くべきだという印象派のテーゼすらも捨ててしまう。

しかし、ルノアールの好みには説得力ある客観性がない。どれも同じようなふっくらした頬の豊満な田舎風の女性が、どうしていいのかは分からない。この女性がどのような人格であるかなどは全く伝わってこない。そういう意味で同じような顔の、こちらは痩身の女性ばかりを描いたイギリスのラファエロ前派の絵に似たところがある。ただ自分の好みを確信した者の自分の感性に対する強烈な自信は伝わってくる。この趣味が戦後の日本の平和ムードにあったように、個人の快楽に基礎を置いた産業ブルジョアジーの新しい暮らしと趣味にたまたま合致して、画家の生活は成立したのだろう。時代の趣味や流行を独特の感性で射抜いた画家であった。

ルノアールの好みの画家に、ワットー(アントワーヌ)がいた。この画家もルイ王朝の趣味を背景にした宮廷画家だが、そこにはモーツアルトの音楽のような移りゆく哀しみがあって、極東の無常の国の人間にも訴えるものがある。特殊な文化的な衣装の奥底には人間の普遍的な感性があった。だが、ルノアールの絵からはそうしたネガティブな影はことごとく排除されている。貧しく育った者ゆえの臆病なのだろうか。絵画が生活に使われる絵皿の絵と同じであるなら、そんな絵があってはならないのだろう。その意味で彼の本質は、生活に喜びを与えるものを作る絵皿職人なのだ。他の影響を受けなくなる晩年になるとその傾向はますます強まる。ただし、かつてロココ時代のように絵画が宮廷を飾る巨大で華やかな絵皿の絵のようなものだった時代があったと考えれば、決してそれは非難にはあたらない。ルノアールはアノニマスなポンペイの壁画を賞賛しているが、それは絵が個人のものになってやせ細っていく時代へのアンチテーゼだったのかもしれない。

時代の趣味を独特の感性で射抜いた画家であったルノアールは、ゴッホと違って多くのパトロンを得て、生活に不自由することなく家族を養い、存命中に画壇に栄光も得た。だが、展示会の末尾に飾られていたルノアールの肖像(アルベール・アンドレ作)は、なぜか陰気で不幸せそうに見えた。「絵画とは人を幸福にする者でなくてはならない」(ルノアール)ことを倫理として課した者には皮肉な結果だ。しかし、不幸な者にほんとうの喜びは与えられるだろうか。ほんとうの幸福は、ルノアールが関わった印象派の中にも糸口としてあって、モネやセザンヌが謙虚に歩んだ道でもあるが、それはどんなに魅惑的であっても才能ある者の想念のうちにあるのではなく、私たちの前にある不思議な、驚くべき実在の世界との往還の中から生まれてくるものだ。それは写真的な写実とは違う、ついにはVISIONとしか言い得ないものだが、そこにしか描く者も見る者もともにほんとうの意味で幸福にする道はないと思う。

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アイヌの工藝-衣装・木工・アイヌ絵- 9/26~20172/17 東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館

2017-01-20 17:21:47 | レビュー/感想
展示室に入った途端、背中にゾクゾクとするものがあった。これは生半可に美しいなんて言えない。むしろ怖いと言った方が適切かもしれない。典型的なアイヌ文様は心を絡め取るクモの糸、悪夢の中に出てくる渦巻きのようで(ヒッチコックの映画「めまい」から連想)、心の深層に侵入してくる何か言い表しがたい、不気味な気配が漂っている。

これを見た後に芹沢銈介の型絵染を見ると、芹沢のモダンさがことさら際立って感じられる。芹沢銈介の生命力のあるかたち、シンプルな動くかたち、そしてそこに表れた強い造形意志は、むしろ近代画家のアンリ・マチスに近似している。芹沢は、晩年、フランス政府から招聘をうけてパリで大規模な個展を開いた。自宅にパリ展示の作品配置をシュミレーションするため、実物大の模型を作ったぐらいだから相当の入れ込みようだったようだ。美と調和を求める一個の芸術家において東洋も西洋も差異はない。そのようなユニバーサルな感性を持つ芹沢にとって自分の作品をパリで見せることに、まったく違和感はなかったのだろう。当時のル・モンド紙も「この類稀な染色物の位置を、マチスの切り紙とならべておくのは、あながち間違いとは言えまい」と書く。芹沢のデザインは、自然の形態から命を引き出す一方、呪術的を要素を脱色することで、パリ市民にもすんなりと受け入れられたのだ。

ひとつ疑問だったのは、このような芹沢銈介の作風と呪術的要素が抜きがたくあるアイヌ工藝との結びつきだった。しかし、工芸館を出てこの疑問も難なく溶けた。改めてパンフレットを見ると、このコレクションは、息子で考古学者でもある芹沢長介(今でも「神の手事件」のことが思い浮かぶがそのことは書くまい)によるものであった。考古学者は、美のベクトルにこだわりを持たない。強い磁力を持った物も、自分の理論を裏付ける貴重な標本資料でしかない。それを美しいか否かとするのは二次的な趣味の問題となる。そこが美を生きる銈介との大きな違いだが、この美術館の収蔵品に図らずも幅を与える結果にもなっていると思う。

帰り際に寄った一階のワークショップコーナーで知ったのは、アイヌの衣装の文様は、文字と同じく一つひとつ明確な意味があって、悪霊除けの呪術と深く関わっているということであった。文様は悪霊の主な侵入口と思われる背中を中心に描かれている。元来懸命に悪霊を封じ込めようとして作られたものを、展示室に引き出して工藝として鑑賞の対象とする。それを言えば、博物館に飾られた仏像も同じだが、そこには怖れの感情をもはやホラー映画でしか感じられなくなった現代人の「耐え難い軽薄さ」があるかもしれない。

展覧されていた「アイヌ絵」の中に、アイヌの代表を迎えた際の藩(松前藩?)の対応の様子を描いた絵があって興味深かった。アイヌの代表たちが通る道すがら、右脇に刀剣、左脇に火縄銃を配して座した警護の侍がずらりと並ぶ。すぐに一斉射撃できるよう火縄にはすでに火がつけられている。多くの人はアイヌ人を危険な蛮族として誇張的な異形の姿に描いた絵に、差別感情を読み解くだろうが、私には江戸時代という、特異な方法で、宗教を骨抜きにした近代化システムが、呪術的な古代の生きた魂と実際に遭遇したときの、恐怖の感情が素直に描かれているもののように思える。

一階の展示では、江戸期仙台藩の力強く美しい堤焼の日用品(とりわけ、三彩火鉢に惹かれた)と信じがたいくらいモダンな切込焼の粒ぞろいの名品がまとまったかたちで見られる。

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雪舟と宮本武蔵と水墨画 9/16~10/30 仙台市博物館

2016-12-26 12:04:36 | レビュー/感想
展示が終わって大分時間が経ってしまったが、残り少なくなった今年の備忘録として書き留めておきたい。とりわけ心惹かれたのは雪舟作(拙宗等揚作)の「雪景山水図」と宮本武蔵作の「枯木翡翠図」だった。

「雪景山水図」は、渡明後に描かれた雪舟の初期作品の一つと目されているが、周文流の約束事を踏襲して書いているのだろうが、リアルな風景として迫ってくる。事物と事物の間にある空間、不思議な奥行きが感ぜられるのはどうしてだろうか。ここで絵に奥行きを与えているのは、西洋で言えば遠近法のような汎用性のある錯視技術ではない。自然をよく見続けている人にのみ開けてくる心の目というようなものなのだ。ダビンチのモナリザを見たときにも同じようなことを感じた。実際雪舟は別の山水画の自賛の中で「中国では自然が師匠であり、画家には格別学ぶべき人物はいなかった」というようなことを述べている。

隣に展示されていた拙宗等揚作「出山釈迦図」も、肥痩抑揚のある簡素な筆さばきで、衣の量感を表現している、見事な作品だった。しかし、続く数点は、新帰朝後の画人として、大名から一般の庶民までに名声が伝わり、注文で描いたものであろう。そのせいか技術的な手腕はさすがと思わせるが心に響くものがあまりなかった。最後の一点「山水図(倣玉かん)」は晩年に描かれた作品で、糊口のための気遣いがなくなり、思うままに描いたものであろう。非凡な運筆の力で風景のリアルな魂を鷲づかみにしてみせる。これを見るととても室町時代の画家とは思えない。セザンヌやモランディなどが手慰みに墨で描いたといってもおかしくないくらいのモダンな精神すら感じる。しかし、このような絵を前にしては時代が古いとか、新しいとかは意味をなさないかのようだ。

宮本武蔵の作品は、剣豪と呼ばれる人物の半生を抜きにしては語れない。例えば「枯木翡翠図」のような作品を見ると、武蔵がどのような目で対戦相手を見ていたか、よくわかる。枝先に止まった鳥が次にどのような動作をとるか、はては風の動きがどのように変化するかまで、この人物は、一瞬のうちに読み込み動作に移し替えることができたのだろう。それができたのは鳥を見るというより剣豪自身が鳥になれたからだ思う。主客の差が消滅した中から、太刀が突然襲う。このような者の姿を遠方に認めたら、逃げるに如くはない。この描かれた鳥が発する生命感は、伝承では証明し難い、剣豪が真剣勝負の明け暮れの中で身につけた野生の真実を物語っているようだ。

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ポーラ美術館コレクション モネからピカソ、シャガールへ 9月17日(土)~11月13日(日)宮城県美術館

2016-10-12 11:34:28 | レビュー/感想
見ることを再開する、そのとっかかりがモネの絵であったのは幸せだった。はじめはあまり期待していなかった。あの睡蓮の絵か、それならオランジェリーの楕円形の展示室で見たはずだ、という風に、しきりに小賢しく頭が働く。しかし、今回モネの数点の小品を見て、いかに自分が先入観だけでモネをまともに見ていなかったがよく分かった。数少ない作品展示ではあったがいずれも味わい深い名品で、光の効果という単一のフェーズだけに着目した、印象派の代表という、頭の中でステレオタイプ化していたイメージを払拭する出会いとなった。「積みわら」のサクサクとした草の感触や「睡蓮」のぬめりとした池の水の質感など、まるで実在の自然に五感で接触しながら歩き回っているような体験は他の絵では得難いものであった。ここではこの実在感のエッセンスを積み上げたような自然の風景が主役であり、モネという存在はそこで用いられた天才的な技量とともにこの風景の中に消滅しているかのようだ。

セザンヌの「プロバンスの風景」もモネの作品とまさるとも劣らない名品であったが、ここで描かれた自然はモネとは違って、「感じる」だけでなく「考える」人によって描かれたもので、その自然の実在感は頭の中で再構築される過程を加える中からでてきたもののように思える。むしろ、この展示会のイントロに展示されていたカミーユコローの「森の中の少女」の方に、時代の様式的な括りを取り払ってみれば、モネと同様のナイーブな野生の目を感じた。「モネは目だ」といったセザンヌは、モネのこの自然を見る目を充分知っていてもそこに止まりきれない近代人で、そこに構築的な論理を持ち込まざる得ない。このかってはひとつの身体性として一体だった感性と知性のわずかな亀裂が、やがてピカソの大胆な破壊を呼び、現代美術に至るまで、感性を知性に従属させ新しいコンセプト、マーケティング顔負けのカテゴリーづくりに明け暮れる歴史の端緒ともなる。

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ぐりとぐら展 7/16~9/4 宮城県美術館

2016-07-31 13:17:54 | レビュー/感想
これまで全国を巡覧してきた一番最後の展示のようである。夏休みにちょうどあたっているため子供づれが多かった。常設を見にいったときに、予告の看板が出ていて、そこに描かれていた「ぐりとぐら」の足先が鳥獣戯画の動物のそれを連想させて可愛らしかったので、のぞいてみることにした。美術の本流と言うと「泰西名画」(まだ使える?)だった時代を知っている人間からすると、このような童話のさしえやアニメなどエンタテーメントが美術館にかかること自体に多少の抵抗感と気恥ずかしさを感じ、隔世の感を覚えるのはいたし方ない。しかし、きばった「美術作品」ばかりを見ていた頭には適度ないやしとなった。

蘇ってきたのはポケモンGOどころか、まだテレビすら家庭に入っていなかった時代のことである。もちろん「ぐりとぐら」が発刊されたときには、家庭にはテレビが行き渡りテレビアニメもすっかりお馴染みになっていたが、母親の寝物語の時代によって育った世代のノスタルジーが生きている。かくいう私もテレビが登場する小学校の低学年ぐらいまで、母親の寝物語を聞いた経験を持つ最後の世代に入る。

「ぐりとぐら」の代表作、森の中でホットケーキを焼いて動物たちで分け合う話は何度も何度も聞いた気がする。ある意味でこの話は昭和20年〜30年代の貧しかったけど、戦争が終わり、母と子がやっと共同で夢を見ることができるようになった平和な時代の訪れを反映している。森の中で様々な動物たちと交わる中で食事をともにする。誰も飢え渇くことなく満たされる、我々の深層に沈んでいる楽園の風景のようだ。すべてをやさしく包む母親の愛がある。「ライオンはこないの」「夜になったらどうするのだろう」。子供の発する質問を種火にしつつ、この単純なストーリーは、母と子の対話の中でホットケーキのようにふくらみ続けた。

帰宅途中の公園にはスマートフォンを手に持ったポケモンハンターたちがあちこちに立っていた。画面の上の記号を見つめ指を動かすだけの擬似狩猟。彼らの足元には、名も知らぬ多様な植物が繁茂し、きっとその中には爬虫類や昆虫や目に見えない微生物などがひしめき、めくるめく世界が展開されているに違いない。しかし、彼らが関心があるのは頭脳の限られたフレームの中を右往左往する記号なのだ。命がないものから、生きるエネルギーは生まれない。

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宮城県美術館コレクション展示 7/5~9/4

2016-07-13 19:02:20 | レビュー/感想
宮城県美術館のコレクション展示はときどき入れ替えられるが、庄司福が2ヶ月ほどの期間、特集展示となるというので久しぶりに足を運ぶことにした。庄司福は、東北地方をテーマにした作品を多数描いている仙台にもゆかりが深い作家で、92歳で亡くなるまで画壇の重鎮として現役で活躍し、「戦後の日本画の質の高い到達点の一つを示す」と賞賛している展覧会評もあって、かなり期待していた。庄司福は、ときどき通る青葉通り地下道で、陶板で創られた作品を目にしており、この作品を絶賛する方もいて、「雄渾」な作品という言葉も浮かんだのだが、自分には今ひとつピンとこなかった。そこで、これは陶芸家の力倆が加わって別の作品になっている面があるので、庄司福の完全な自作を見たら違うのではと思っていた。しかし、正直のところ、どの作品も自分には響かなかった。少し残念。テーマといい、構図といい、画壇の流行を意識しながら、そこで喝采を浴びる要素を巧みに落とし込んで造形されているように感じた。つまりは出来上がった日本画のカテゴリーの中で、大画面を使って、力強く見せられる非凡な、持続的な力量に恵まれていた、しかし、優等生なのである。晩年はさすがに「石」「風景」「海峡」といったそっけないタイトルが語るように、意図的な造形はやめて、自然とシンプルに向き合った作風になっている。しかし、変な衣装がなくなっただけで、やはりつまらない。画壇の枠に従って作り上げたスタイルは、そこで大成した人だけになかなか壊すのは難しかったのだろう。

つまらないのはなぜなのだろうと考えながら、次のコーナーに行くと長谷川潾二郎の小品「道(パリ郊外)」があった。1年ほどの短いパリ生活の間に描いた数少ない作品の一つだ。画面真ん中にまっすぐに続く、パリではおそらくありふれた道なのだろう。脇の赤い煙突の建物、道にそって端正に切りそろえられたような雑草、モコモコと葉を茂らせた樹木、そして道の果てには門柱があり、どこに通じているのか黒い暗渠が異界への入り口のようにポッカリと口を開けている。(この部分を拡大した別の絵(上掲)には黒い鉄製の門扉がはまっているがこの絵では暗渠になっている)この全体が醸し出すなんとも「怖〜い」感じは何だろう。潾二郎は、パリの風景を題材に何かを上手に造形してやろうなどとは微塵も思わない。この風景の不思議さを探求し強調するかのように絵筆をとっているだけなのである。
だが、もっと上手がいた。岸田劉生の「早春?日」という作品。これを見ていると、潾二郎は謎に直面して描いているが、岸田劉生という存在そのもののが謎であるかのようだ。構図などはどうでもいいかのように大きく画面を占める鈍調な空。梅原龍三郎の数々の風景画のように、お得意の色彩とタッチで華やかな空の表情を見せようなんて気持ちはさらさらないようだ。下の方に固まるように、木々の間に点々ばらばらに建った家々、そして道とそこを通る二人の子供の姿。それを連関させまとめ上げる手法がまったくもって見えない。しかし、もちろん素人絵ではない。これがあなたが本当に見ているものなのだよ、と心の芯の記憶庫に入ってくる、このリアリティの確かさはどこから生まれてくるのだろう。何度でも見ていたくなる絵だ。でも、さてこれを「絵」と言っていいものだろうか。少なくても本人は「絵」を意図的に描こうなんて毛頭思っていなかっただろう。

この絵の存在感を前にしては、松本竣介のまるで欧州映画を見てるような、ポエジーに満ちた、当時としては最高にお洒落だったであろう風景画も、決して凡庸ではないのだが、すっかり霞んで見えた。いずれにしろ、どのようなかたちであれ、残った絵は、良し悪しの評価は別にして、それぞれの人となりや生き方を正直に反映しているようで面白い。
(掲載の絵は「マロニエと門」1931)

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出口王仁三郎とその一門の作品展 4/6~10 宮城県美術館県民ギャラリー

2016-06-08 06:25:14 | レビュー/感想
宗教家の作品(作品と言ったらいいかも疑問なのだが他に言葉がないのでこうする)を面白いと思う。日本で言えば仙崖や白隠の禅画がそうだ。先に宮城県美術館の県民ギャラリーで見た大本教の教主出口王仁三郎の作品にもぶっとんでしまった。岡本太郎ならまさしく「これはなんだ」の世界だ。とりわけ「みちのくの滝」と題する作品には技巧を超えて奇跡的になりたった趣きがある。(今杜の未来舎ぎゃらりいで展示中の野中光正氏の抽象作品にも同質の感銘を受ける「滝」の作品があるので見に来て欲しい)俵屋宗達と同じ魂を持っている、こういう人物がほんの一昔前昭和の時代とクロスしていたなんてちょっと信じがたい。

私は王仁三郎が仙厓や白隠の作品を見たかどうかなど(「至誠」という書軸は白隠の作品に匹敵する。いや伸びやかな分それ以上だ)考証するつもりはないが、なぜそうなのか考えてみた。おそらく、彼らには往々にして画家が何かを表現するときどうしようもなく働いてしまう自己顕示欲がないのだと思う。もっとも修行や伝道の目的で描いているわけでそれが出たら「生臭なんとか」になってしまう。
最近大流行りの若冲にしてもどこかに「どうだこんなに描けるんだ。すごいだろう」というのが感じられていやな感じを受けるときがある。円山応挙に大変な対抗心を持っていたというのは最近知ったところだが。大体そういう作品はくどくどしいが世間は感心する。形はパターン化し、その同じパターンをデザイン感覚でハンコで繰り返し押したような作品になる。デザイン思考が行き渡り、デジタル時代の今ならそれはもっと容易になって、誰にも慣れ親しんだ表現となっているがゆえに評価も高く人気も出るわけだ。
それじゃ宗教家ではなく画家としての自覚を持って生きていかざる得ない人はどうするのだ、ということになるが、変人奇人に徹するしかないということかもしれない。もっともそれを意識して行うともっといやらしいことになる。ルネ・マグリットはそのいやらしさを知っていたから表向きはシルクハットの紳士の仮面をかぶった。表向きは絵を描くのをやめてチェスに没頭していた人もいた。だが韜晦というのも最高にいやらしい技術だ。

しかし、ほんとうの変人奇人は無意識の人だ。先に書いたボローニャから出ることなく同じモチーフの静物画を生涯書き続けたモランディもある意味でとてつもない真性の奇人だと思う。ゴッホなぞはほんとに涙ぐましい。一生懸命、世間と融和し、画家として大成して弟家族を楽にしてあげたいと考えている。でも世間の目からすれば奇人どころか危険な狂人なのだから、精神病院に隔離されてしまう。それでないとあんな別世界から飛び出てきたような、化け物じみた怖いひまわりの絵なぞ描けないだろう。危険な領域にまで踏み込んでそのリアリティを描いてくれたゴッホは、その意味で稀有の人であり、「聖ゴッホ」とでも言わざる得ない。
(写真は「みちのくの滝」水墨画 軸 155×70cm)

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大白隠展  4/16~6/26  東北歴史博物館

2016-05-27 14:31:13 | レビュー/感想
たまたま仙台の隣り、多賀城市の東北歴史博物館で「大白隠展」が開かれていることを知って急遽訪れた。五月晴れの平日だったが、男性が一人熱心に見ているだけで会場はガラガラ、まさしく独り占め状態で、何度も出たり入ったりしゆっくり見ることができた。一見、単純に筆の勢いに任せて描いたような墨絵なのだが、それだけ時間をかけて何度見ても見飽きないのは、作品が秘めた深い精神世界のゆえであろうか。傍に添えられた解説も実行委員のお坊さんが書かれたのか、ときに禅の公案の内容まで深く入った中身の濃いものもあった。

入ってすぐのところには達磨像が11枚ずらりと並ぶ。白隠の筆頭弟子、遂翁元盧が描いた「白隠慧鶴像」と、眇(すがめ)といい、頭や鼻の形がそっくりだから、これら達磨像は自画像に近いのではないだろうか。もっとも達磨のイコノグラフィーがあって、遂翁の「白隠像」は、尊敬する師をそれに擬して描いているのだとしたら、実像は分からない。いずれ達磨像であれ、白隠像であれ、ひたすら厳しい修行と座禅を重ねて眼光鋭い異形の人となった僧の姿と見えなくもない。じっくり見てると、まるで岩に浮き上がった人の顔のようでもある。しかし、筆跡の強弱とスピード、墨痕の明暗、緊張感あふれ、ときに意表をつくレイアウトの妙など、とても真似の出来るものではない。

これらの達磨像はいつ頃の年代のものか分からないのだが、私はまだ若い時の作品と思いたい。臨済禅中興の祖といわれる白隠は若い時からずばぬけて優秀なお坊さんであったようだが、達磨や聖徳たちを模範としつつ、その悟りの境地に近づこうと研鑽努力していた時代の作のように見える。

しかし、凡夫であろうとも、長生きの功徳は、努力で実現しようとするものではなく、もともとあるものに気付かせる自然過程をともなう。それを仏道では知恵の目では見えない心の根源=仏性への目覚めとして「本覚論」のうちに語るが、この自己中=「空」の気づきから他者愛への大転換が、白隠にもあったように思われる。その姿は実在した中国禅宗史上の愛すべき人物、布袋の一連の姿に描かれている。カタログの説明によると、布袋和尚の禅は、「深山の仏法ではない。庶民が生活する場所に出向いて法を説く、十字街頭の仏法である」という。空っぽの袋しか持たぬ、優しくユーモラスな布袋の姿は、巷間に慈悲の目で法を説く、白隠の姿でもあったのだろう。

この東北歴史博物館は、幾つかの小展示用の部屋があるが、お奨めしたいのはアイヌの刀剣を展示した杉山コレクションの部屋。それまではアイヌの工芸文化というと、木彫りや刺し子の衣服しか思い浮かばなかったのだが、刀剣を飾る金工細工にこれほどの繊細精緻な技術とセンスを持っていたとは驚きで、アイヌ人に対する従来の見方が変わった。とりわけ奥の正面に飾られている、邪を祓うために作られたという一振りの刀剣は、純粋な信仰に基づく、作為性が全く感じられない奇跡的な産物だと思う。これを見れただけでも儲けものというものだ。

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鈴木照雄展 5/3~5 栗駒陣ヶ森窯

2016-05-09 16:40:54 | レビュー/感想
遅まきながらのレポートになるが、5月5日、鈴木照雄展(栗駒陣ヶ森窯)に行ってきた。展示会も最終日とあって、藁葺き屋根の母屋に並んでいた作品は大分少なくなっていた。それでも渋いすばらしい抹茶茶碗を購入できたのはラッキーだった。抹茶茶碗である程度名の通った作家ものでいいものとなると、うん十万というのが相場だが、鈴木さんの抹茶碗は、私でも購入できるくらいだから高くない。いや、「ほんとにこれでいいのか」という値付けである。

もっとも鈴木さんはこれが抹茶碗だとは一言も言ってない。高価なお茶の器として売ってしまったら、民藝の美の背景となっているかっての陶工の生活と労働を、ここまで徹底して実践している彼の生きかたと矛盾する結果になってしまう。だからこれは飯碗であっていいものだし、この値付けで正解なのだ。その結果、初期の茶人が朝鮮の飯碗を茶器としたと同じ、価値付けの自由さが今時の選び手にも少しばかり与えられることにもなる。

年に一回の展示会に足を向けさせるのは、鈴木さんの新作に出会う喜びだけでなく、鈴木さんの作品の背景となってる環境が懐かしくも魅力的だからだ。もちろんこの環境はすみずみまで鈴木さんの美に対するこだわりと、春夏秋冬、身を削る日々の労働の積み重ねによって高度に整えられたものだ。工人組合によって守られた純粋な陶工の生活ははるか昔のこと。柳宗悦を感嘆させた用の美は、もはやたった一人の並外れた意志と努力による、ある意味、超作為的な道を経てしか生まれない。

母屋に至る農道の脇には数台の車が止まっていたが、ふだん無機質なビルの立ち並ぶ都会に暮らし、高速に乗りナビに頼って山間の田舎屋を訪れる者にとっては、東北の田舎と工人の生活に憧れる大人の物語を具現した高度なテーマパークでしかないのが、仕様がないことと分かってはいるのだが、なんだか寂しい。せめて求めた器でお茶を立てて、自然と作家が吹き入れた貴い命のおすそ分けをいただくことにしよう。
(写真は納屋の二階を会場とした作陶生活40年の回顧展から)

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ジョルジョ・モランディ続き  2/20~4/10  東京ステーションギャラリー

2016-04-30 12:37:53 | レビュー/感想
展示会のカタログの中で、ジュージ・ベッキ(学芸員)は、晩年の暗黒色の色彩とシンプルなストロークで描かれたモランディの水彩を、禅画(具体的には狩野仙厓のような作品を指すと思われる)との類似性によって語っている。さらには、モランディを「表現しがたいものを表現し、伝達できないものを伝達することを可能にする’思索にふける’性質において、禅の師と類似している」とまで述べる。
確かに表面的には類似点がある。俗世間や流行から隔離された、ボローニャの小さなアトリエと禅僧の杣屋。しかし、思索にふけるところからは、仙のような禅画は生まれない。それは、思索も含む現象世界へのこだわりから脱却し、いわゆる「無」と呼ばれる悟達の境地にあり、融通無碍となったキャラクターが、表現に直裁に結びついたときに生まれたものだろう。だから、禅画においては、白紙に世界を出現させる墨の「勢い」が鑑賞の要となったりする。

一方、モランディの水彩画は、抽象になる一歩手前まで行きながらも、対象と切れることはない。禅画と同様、瞬間のうちに描かれたかたちであっても、画家が長い間見続けてきた末に浮かび上がって来た永遠の影が宿っている。「わたしたちが人間として対象世界についてみることのできるあらゆるものは、わたしたちが見て理解するようには実際には存在していないということをわたしたちは知っています」。このモランディの言葉は、実在する具体的なモノの世界を見つめつつも、形而上的な世界の反映としてそれらを見、思惟を続けていたことを示している。それは仮説立証という目標なきまま、科学者の反復的な営為へと誘う。この展示会のキャッチフレーズともなっている「終わりなき変奏」とならざるえない。

その表現の有り様は「たゆたい」とでも表したらよいだろうか。ブラウン運動を続ける分子のように、人間の視覚認識という不確かな観測手段によりそれはたえず揺らいでいるかのように見える。しかし、それは幻影ではなく、画家のうちにある美の基軸によって、確かな実在を確証させる。これは言葉では言い表しがたい不思議な有り様だ。

この展示会で、最も心惹かれ新鮮な思いで見た一点は風景作品の中にあった。その1921年の作品は、凡庸な目には奇跡的に成立したもののように見えるかもしれない。だが、さらっと描いたようで軽い「オシャレ」なものには絶対ならないのは、モノの世界を見続けた目が、風景画にあっても存在の本質を確実に射抜いているからだ。モランディが生涯に亘って興味を持ち続けた初期ルネサンスの画家、ピエロ・デッラ・フランチェスカのまさに「魂の写し」のようなこの作品を見れただけでも、大変幸せな思いであった。(4/16~6/5は岩手県立美術館で開催中)中世の画家のように彼は「心の目」で描く方法を、近代という名の不信仰の時代に、ただひとり体現した画家であった。
「神秘的なのは、世界が「いかに」あるかではなく、世界がある「ということ」である。」 ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

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日々の邂逅 野中光正新作展 5/31(火)~6/12(月)

2016-04-28 11:11:59 | レビュー/感想

例年初夏に開催している野中光正新作展(5月31日~6月12日、10・11・12画家在廊)のポストカードのコピーを書いた。心で受け止める色とかたちとテクスチャーの世界。頭から入らずに抽象を音楽のように楽しむ人がもっと増えてほしい。

日々の邂逅
使い込んだ道具類や顔料が整然と置かれた野中氏のアトリエはラボラトリーのようだ。東京、元浅草、ビルの谷間から漏れる淡い自然光をたよりに、朝のいつもの時間、画家は支持体の和紙に対面し、毎日一枚のペースで作品を仕あげていく。永遠のようでありながら、確実に終局に向かう時間の中、その時々の感情の波立ちが微妙な色調や形の差異となる。しかし、時々向こうからやってくる何かが、自己を超えたところで奇跡のように働き、画家の手を通して、自然な美の痕跡を残す。 心地よい音楽を聴いた時に与えられる、偶さかの静かな幸福な時を見る人と共有したい。(5月11・12日 画家在廊)

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いつか見たモランディ、今度見たモランディ  ジョルジョモランディ 2/20~4/10 東京ステーションギャラリー

2016-04-05 12:36:42 | レビュー/感想
いつのことなのか不分明なのだが、何十年か前、上京した折、何かの用事があって銀座のデパートー松坂屋だったろうか、それとも大丸だったろうかーに入った。そこでたまさか開催していたのがモランディ展だった。どんな画家なのか皆目知らなかった(このような先入見のない出会いは理想的)のだが、ガラガラの会場がこの画家の日本での知名度の低さを物語っていたのは確かだ。しかし、すっと通り過ぎるつもりで入ったのが、見るほどに引き込まれる。

中でも確か四角い器(?)が本来ありえないようなただ一線に並べられた構図で描かれた1点を見たときには、その前で2人のご婦人が四方山噺に夢中だったが、しばし立ち尽くすほどの強い印象を受けた。かといって心をかき乱すようなものではない。静かな幸福な体験であった。この絵の不思議な実在感というのはどこから来るのだろう、その疑問に答えられるべくもなく、ただ画集と複製画を買って帰った。小首をかしげ、メガネを額にずり上げたモランディの有名な肖像写真が表紙となった画集で、暇なときに繰り返し眺める宝物だったが、なんとどこで間違ったか、まとめて他の駄本とともに廃品回収に出してしまった。悔やんでも悔やみきれない思いであった。(この出会いは、展覧会のカタログの文献案内から1990年大丸デパートでの展示と判明)

モランディとの二度目の出会いはロンドンのテート・ギャラリーであった。これも偶然の出会いで、モランディのエッチング展をやっていた。正直言ってこのエッチングについてはそのときにはピンとこなかった。作品として自立したものではなくおそらく習作的な意図で作られたものだろう、という程度の認識でいたが、帰って来て画集を見ていて次第に引き込まれた。とりわけこの風景画のマッスは何なのだろう?草木や建物や坂道がうねるように押し迫ってくるが騒々しくはない。作為で曲げられない自然の本質的な生命がシンプルな描線の重なりによって描き出されている。ここにはエッチングという伝統的な技法の制約を超えた何かがあった。

東京ステーションギャラリーでの今度の展示会は、静かに作品に見いる人で溢れかえっており、かってよりはるかにモランディが高い関心と賞賛を得、極東のこの国でも受け入れられていることを感じた。アルコーブ状の一室にまとめられた作品群にまず目がいった。心の中に強烈に残るモランディの印象を探していたからであろう。

そのときと同じ絵ではなかったが、あの同じ四角い器を横に並べた作品が中心にあった。ここにはモランディのそれまでの試行錯誤が熟成された1950年代半ばの最も安定した時代と思しき作品が集められていた。それまでの建物が密集する都市の風景を思わせる、いささかゴチャゴチャした感を受ける器群は数点までに整理され、この絞られた器を用いて、光や位置の微妙な差異によって生まれる変化の探求が日々行われた。一線上に置かれた器は遠近法の約束事を封印して、光が作る影と色彩だけでモノの実在感が認知される、まさしく我々がモノを見てそこにモノがあると身体的に認知する、そのことの秘密を繰り返し探求したものであろう。彼が習作時代に画集を通してだが大きな影響を受けたセザンヌが試みたと同じ探求を、イタリアの地方都市ボローニャのアトリエを生涯ほとんど出ることがないまま続けていたことになる。

やがて光が作る影と思しきものはときにモノを縁取る黒い輪郭となる。1960年代の作品となると、かって遠近を際立たせるために描かれていた上背のあるブリキのピッチャーは、厚みのある実在の姿をほとんど喪失して、背後の壁に移る影のように処理される。まるで大鴉のように大きく写り込んだその姿は、モランディという存在の解き得ない謎のようだ。しかし、彼の中で色や遠近を引き立たせる存在でしかなかった黒という色彩がここで大きな意味を持つようになった、そのことの表れのようにも見える。この時代、暗黒色の水彩で輪郭を滲ませるようにこの個性的な形のピッチャーをはじめとした器の数々が描かれたこととも符合するようにも思える。(続く)

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黄金伝説展 1/22~3/6 宮城県美術館

2016-02-03 17:07:19 | レビュー/感想
むしろ、グスタフ・クリムトの1作品(人生は戦いなり「黄金の騎士」)を見たくて会場に赴いた。会場に陳列された古代地中海の黄金製品は、年代を遡るほどかえって洗練されたもののように感じられる。1点1点、豪奢な輝きと細工の美事さに驚かされつつも、ワビサビ生活の自分とはほど遠く、夢を見ているようで何を見てもあまり心に残らない。このジャンルの技術的歴史的な知識が皆目ないうえに、丁寧に見なかったせいもあるが、黄金製品には、結局は、所有した者でなければ、良きにつけ悪しきにつけ分からない、魔力があるのだろうなとの感想しか浮かばない。

クリムトの作品は、芸術家の理想の姿を黄金の鎧、兜とに身を包んだ騎士の姿になぞらえたものだという。そういう図像解釈はさて置き、工芸品の名品を見ているような、装飾的な絵柄とそれを成り立たせている金箔を混じえたマチエールの美しさに、まず心惹かれる。さらにそれは、極度に単純化され、引き絞った弓のような運動感を与える図像と相まって、象徴的イメージに存在感を加え、絵画全体に力強い印象を与えている。構想力に加えて、作品を現前させるマチエールとそれを生かす技術の三位一体、ここに熟練した彫金師であった父の多大な影響があることは明らかだ。

思わぬ拾いものもあった。ギュスタブ・モローの作品「ヘラクレスと青銅の蹄をもつ鹿」は、金製品の輝きの間に展示されたゆえもあってか、一筆一筆、鈍い光を放つ、様々な色彩の宝玉を象嵌するかのように重ねたブラシタッチの魅力が、これまでになくきわだって感じられる美事な作品だった。J・K・ユイスマンス作の「さかしま」の中で、主人公のデゼッサントがギュスタブ・モローの作品を偏愛した理由が、初めてわかったような気がした。

両作品共、絵画というジャンルの成立以前から受け継がれて来た工芸家の魂と、画家の美に対する偏執狂的なこだわりが幸福な融合を遂げた作品のように思える。観念過多な近代絵画の中では無視されがちな絵画の工芸的な要素とそれが喚起する物質的な想像力の意味について考える良い機会となった。

1階の常設展の入り口には、経歴から青森、岩手、宮城を渡り歩いて、その意味で東北の画家と言える村上善男氏の作品をまとめて見ることができた。亡くなった年上の友人を介してその存在は知っていた(今自分の書棚には村上氏著「仙台屋台誌」という本がある。友人への献辞付だ。生前お会いできる機会を逸したのが悔やまれる)が、改めてその作品をじっくり見る機会を得て、もっと世に知られていい作家であると正直思った。

偶然の一致か、それともキュレーターの隠された意図かどうかは分からないが、クリムトやモローとも通底する、絵画の存在感を際立たせるマチエールの強さというテーマがここにはあると思う。もっともマチエールには現代美術らしく、従来のユニバーサルな材料ではなく、東北の風土や自らの生活環境に密接に結びついた材料、ピンや筆文字が書かれた古紙や紐などが執拗に使われている。しかし、マチエールを通した美への偏執狂的なこだわりは、クリムトやモローに負けないものがある。こういう画家が同時代の東北にいたことに誇らしさすら感じた。戦後美術史の流れの中では、西洋美術史(モノマネであった)の終わりのすきまに出現した日本オリジナルの様式、「モノ派」に属するのだが、観念的で、普通の人には補足説明がないと皆目分からないような、モノ派の作品の中ではそれ自体で心にストレートに入ってくる美しさが成立している数少ない成功事例といえるのではないか。

ルオーの版画が常設の最後にあった。前に評した作品シリーズ(「ミセーレ」)だ。これまで見てきた作品はいづれもマテリアルの物質的な力に多くを負っている。それに対し、ルオーは白と黒のエッチングによるぎりぎりのシンプルなつくりながら、これだけの魂に響く力はどこから出てくるのだろう。何度見ても不思議な、そして清い喜びにあふれた絵だ。

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「今あるところからはじめる」佐立るり子展 1/26~31 SARP

2016-01-19 15:01:31 | レビュー/感想
1月になって今年初めての雪が降った。白っぽく乾いていた路上が舞い落ちてくる雪片で見る間に見えなくなった。佐立るり子さんからいただいていた展示会の案内カードを引き出してみる。雪が降り積む様を見ていると、何度読んでも分からなかったカードの文章の意味がなんとなく分かるような気がしてきた。

彼女の今回の作品は支持体の上に「色」を次々乗せていくことで出来上がっていく。色の素材は様々だがふだんわれわれが目に触れるものだ。陶器のかけら、ボタンなど落ちていたものの色、炭とロウの色、糸の色。そして画家の日常の身近なところにある油絵のために作り出された油絵の具という色。「それを積み重ねることによって浮かび上がって来る過程」と彼女は書くのみで、「完成ではない」と補足する。なぜならすでに「全部が備わっている」からという。

われわれは自分の肉体も含めて自然の中に生きている。多様な色とかたちの中、しかもそれらが変化し続ける中に生きている。それだけで十分大変な事実で、素晴らしく感動的なことのはずなのだが。しかし、知恵の実を食べてしまい楽園を追い出されたわれわれには、このリアルな現実をそのまま喜んで受け入れがたいようだ。実は何々なんだと、囁き続ける声に促されて、次々ずれた思考を続けていると、自分にも他人にも喜びを与えるものはできなくなる。

とりわけ多くの画家がベースとしている近代以降の芸術の歴史は、リアルから離れたバーチャル世界を作っていくための技術や理論の集積であり、宗教やイデオロギーがそれと密接な関係を持ってきた。それはそれで時代時代の様式を形作って十分魅力的な文化の華を開かせてきた面もあるのだか、行き着く先、個人にすべて収斂する現代では、その膨大なカテゴリーは飽和状態で、新たなカテゴリーをつくるのはほとんど難しい状態になっている。一方で、そうした隙間を狙ったマーケティングはますます盛んで、その中で盗用という問題も起こる。

日本が閉じていた時代には「洋行」帰りや外国の受け売りが芸術稼業を成り立たせるために幅を利かせたが、今はインターネットを通してグローバル世界に簡単につながってしまうから、すぐに真似をしてもネタが割れてしまう。かって大学や高等教育機関だけが独占していた情報の非対称も実はもはや存在しない。だから、それらがあるかのように見せ続けるために、宗教的なアプローチ、ブランディングが盛んなのも納得出来るというものだ。

では、どこからスタートを切ればいいのだろう。ほんとうにオリジナルなものを創るには、われわれが生きているこの場所から始めなければならない。佐立さんもおそらくそのことを考えているのだろう。彼女のこれまでの作品も、何かをつくるのでなく、降り落ちていく雪のように自然が形づくる何かに極めて近い営為を求めてきた、そこから出てきたものではないかと思う。何だかわからないけど彼女の作品を初めて見た瞬間にすっと心に入って来る感じがしたのはこのためであろう。

陶芸家はこのことを一に土、二に焼き、三に細工という言葉で表している。造形というのは土がなりたいものをつくることだと言った陶芸家もいた。 そういう器は生活で使える(=仕える)。画家も、今の閉塞感を打破するには謙虚な探求者の心を持って素材という名で自分が描くことに従属させている自然から始める必要があるが、そのためには今持っている嘘(生活に深く結びついているかもしれない)を捨てなければならないとなると、そう簡単ではない。また、それをし続けるのには、われわれの脳内で作られたものではない自然に常に感動している、心がなければならない。佐立さんは郊外で農業をしていると聞いたが、コンクリートとプラステイックで作られ、緑の自然も箱庭のようになっている都会であっても、光があり、色があり、自然はそういう意味で完全に脳化できない。

この正月は陶芸家が持ってきた地鶏を堪能した。スーパーで買ったものと違い、スープがたっぷり出て、3日間楽しんだ。天然昆布だけで調味料も必要がない。絵もこのようなものであったらと思う。今年も少数のそうした道を本能を通して自然に選択している画家や陶芸家とつきあっていきたい。感心するものより感動するものにより多く出会いたい。今回は新年の抱負のようなオチになってしまった。

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ルートヴィヒ・コレクション ピカソ展 続き

2015-11-14 19:06:34 | レビュー/感想
1960年代以降の晩年の作品は、美といってよいか分からないが、圧倒的なパワーと磁力を持っている。伝統的な絵画空間の革新者として脚光を浴びた時代の作品は、可視的世界を絵画空間に今までと違ったやり方で顕在化させるための、いわば認識論的な実証研究のようなもので、そのため従来の絵画様式を下敷きに、構築、脱構築を繰り返して、脳の神経細胞のネットワークをすべて使い尽くしていくような営為であったと思う。その意味でピカソは、対象を目が捉え、脳が分析総合し、手が応える営為を確実に、すばやく、独創的に行える能力と繊細な美的センスに誰よりもたけて、イーゼル絵画のフレームの中で、新ジャンルを次々創り出していく天才であった。しかし、それでは近代絵画の歴史にピカソをどう位置づけるかで終わってしまう。

もうひとつこれらの絵画上の営為を推し進めるためのモチベーションともなったであろう、生得的な血に由来するような流れが伏在する。アフリカ彫刻にインスパイアされて生まれたと言われる『アビニヨンの娘たち』にも噴出しそうになっている理性を超えるもの。これを造形的に整え、新スタイルとしていく「ゲルニカ」の時代が、おとなしく見えるくらい、この本能的な部分が隠しようもなく沸騰的に出てくるのが晩年の作品だ。かって青の時代に見られたセンチメントの片鱗もない、ピカソという人間の欲望そのままの世界。おおらかと言えばおおらか、残酷といえば残酷なエネルギーは、ある種の先住民族の世界や今注目されている知的障がい児の絵の世界とも通じる。この晩年の新たな領域は、この欲望を闘牛士のようにときに刺激し、ときにいなす中で切り拓かれていく、「あぶない」領域でもある。「ゲルニカ」をヒューマニステックな観点から称揚する視点があるが、ピカソが感応しているのは、正反対の思想にしろこの無慈悲な爆撃者と同質のものではないか。あのトレードマークの見開いた眼の表情に、独裁者ヒットラーの眼にあるものと似かよった狂気を感じる。

その時代の頂点を示しているのが、<アトリエにて>。あのかってのキュービズムの分析的な手法の蓄積的な成果が、ここでは本能に仕えている。脳の中に作り出されたリゾームが食指を伸ばし、それが自由に様々なプリズム世界を創り出していく、そしてその総合としての建築物のような世界。それがこのアトリエという狭い空間の中で展開されていったことの、生々しい格闘の痕跡。ところでそのプリズムのかけらのひとつに、岡本太郎を見つけたのはなんとも驚きだった。ある意味でピカソを崇拝していた岡本太郎だからピカソのコピーをしててもおかしくない。この小さなパーツを拡大し、無限ループ化したのではないか、とすら思える。しかも、ピカソのようには奥行きが感ぜられない、よって深みのない絵巻物風な世界を、ずっとオプテミステックに展開したもののように。

小林秀雄は、「近代絵画」のピカソ論の中でヴォリンガーの「抽象と感情移入」の話を唐突に入れる。しかし、ピカソの絵が抽象と言えるのかどうか、明確に指摘しないまま、最後はピカソの即物的な表現に近代の行き着くところを見る。このイーゼル絵画の廃墟から再び歩み出し、絵画の世界を甦らすひとつの道が、抽象の道であっただろう。しかし、エゴチストたるピカソは、そこには入れなかった。ここに入るのはピカソにないもの、信仰か、あるいはポエジーが必要なのだろう。人間の罪の世界を、自己の脳内でつぶやく人々を持って描き尽くしたドスエフトスキーが、新しい人間「アリョーシャ」を造形できないまま、「カラマーゾフ」の筆を置いたのと近似した結果に思える。

最晩年の作品にはピカソの本質がさらにあからさまに出ている。<銃士とアモール>は、遠くから見てステンドグラスの壮観のように見えた。一見、抽象の先駆的な表現と言われるギュスタブモローの下絵を思わせるのは、ここには近似した色彩や筆致と明らかに垂直の空間があるからであろう。しかし、それは無限へと突き抜けるものではなく、単なる縦の「奥行き」にすぎない。ピカソの女性遍歴はよく知られているところだ。その中で2人の女性を自殺に追い込んでいる。世間的な成功とは裏腹に、あるいはそれゆえかどうかは分からないが、ギャンブル狂で生活破綻者であったドスエフスキーと似かよった錯誤に満ちた生涯だ。ピカソは、この絵で「聖母子」の図像の意味を逆転させ、擁護者であるより抑圧者であった自己を無意識に示唆しているように見える。銃士=ドンジュアンとしてのピカソ、そしてアモールの矢は、幾多の女性たちを射て、ピカソの欲望と感情の生贄とした。旧来の美の破壊者は、人間関係においても破壊者の側面を持っていたと言えるかもしれない。

しかし、現実の肉体的な衰えは、精力的なミーノータウルス、ピカソにも無縁ではない。最晩年の「パイプを持っている男」は、仙の禅画を思わせるが、作品は自在の境地を表すものではないだろう。むしろ精緻さをまったく失ったゆるい筆致は、ピカソの能力の衰えを如実に物語るものではないか。最盛期の作品の劣化コピーのような作品群にさえマーケットは高額な値段をつけるようになった。このブランディングの大成功を見て、彼は幸せだったのだろうか。それらは蓄財の目的でもなければ(もちろん大金持ちならばだが)、あまり持っていたくない絵である。本人がそのことを誰よりも知っていたかもしれない。死ぬ2年前の自画像「帽子をかぶった男の胸像」では、これまで幾多の名作を生み出してきたトレードマークの眼は真っ黒に塗りつぶされている。その黒々とした空虚がとりわけ印象深かった。

写真 銃士とアモール

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