美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

「今あるところからはじめる」佐立るり子展 1/26~31 SARP

2016-01-19 15:01:31 | レビュー/感想
1月になって今年初めての雪が降った。白っぽく乾いていた路上が舞い落ちてくる雪片で見る間に見えなくなった。佐立るり子さんからいただいていた展示会の案内カードを引き出してみる。雪が降り積む様を見ていると、何度読んでも分からなかったカードの文章の意味がなんとなく分かるような気がしてきた。

彼女の今回の作品は支持体の上に「色」を次々乗せていくことで出来上がっていく。色の素材は様々だがふだんわれわれが目に触れるものだ。陶器のかけら、ボタンなど落ちていたものの色、炭とロウの色、糸の色。そして画家の日常の身近なところにある油絵のために作り出された油絵の具という色。「それを積み重ねることによって浮かび上がって来る過程」と彼女は書くのみで、「完成ではない」と補足する。なぜならすでに「全部が備わっている」からという。

われわれは自分の肉体も含めて自然の中に生きている。多様な色とかたちの中、しかもそれらが変化し続ける中に生きている。それだけで十分大変な事実で、素晴らしく感動的なことのはずなのだが。しかし、知恵の実を食べてしまい楽園を追い出されたわれわれには、このリアルな現実をそのまま喜んで受け入れがたいようだ。実は何々なんだと、囁き続ける声に促されて、次々ずれた思考を続けていると、自分にも他人にも喜びを与えるものはできなくなる。

とりわけ多くの画家がベースとしている近代以降の芸術の歴史は、リアルから離れたバーチャル世界を作っていくための技術や理論の集積であり、宗教やイデオロギーがそれと密接な関係を持ってきた。それはそれで時代時代の様式を形作って十分魅力的な文化の華を開かせてきた面もあるのだか、行き着く先、個人にすべて収斂する現代では、その膨大なカテゴリーは飽和状態で、新たなカテゴリーをつくるのはほとんど難しい状態になっている。一方で、そうした隙間を狙ったマーケティングはますます盛んで、その中で盗用という問題も起こる。

日本が閉じていた時代には「洋行」帰りや外国の受け売りが芸術稼業を成り立たせるために幅を利かせたが、今はインターネットを通してグローバル世界に簡単につながってしまうから、すぐに真似をしてもネタが割れてしまう。かって大学や高等教育機関だけが独占していた情報の非対称も実はもはや存在しない。だから、それらがあるかのように見せ続けるために、宗教的なアプローチ、ブランディングが盛んなのも納得出来るというものだ。

では、どこからスタートを切ればいいのだろう。ほんとうにオリジナルなものを創るには、われわれが生きているこの場所から始めなければならない。佐立さんもおそらくそのことを考えているのだろう。彼女のこれまでの作品も、何かをつくるのでなく、降り落ちていく雪のように自然が形づくる何かに極めて近い営為を求めてきた、そこから出てきたものではないかと思う。何だかわからないけど彼女の作品を初めて見た瞬間にすっと心に入って来る感じがしたのはこのためであろう。

陶芸家はこのことを一に土、二に焼き、三に細工という言葉で表している。造形というのは土がなりたいものをつくることだと言った陶芸家もいた。 そういう器は生活で使える(=仕える)。画家も、今の閉塞感を打破するには謙虚な探求者の心を持って素材という名で自分が描くことに従属させている自然から始める必要があるが、そのためには今持っている嘘(生活に深く結びついているかもしれない)を捨てなければならないとなると、そう簡単ではない。また、それをし続けるのには、われわれの脳内で作られたものではない自然に常に感動している、心がなければならない。佐立さんは郊外で農業をしていると聞いたが、コンクリートとプラステイックで作られ、緑の自然も箱庭のようになっている都会であっても、光があり、色があり、自然はそういう意味で完全に脳化できない。

この正月は陶芸家が持ってきた地鶏を堪能した。スーパーで買ったものと違い、スープがたっぷり出て、3日間楽しんだ。天然昆布だけで調味料も必要がない。絵もこのようなものであったらと思う。今年も少数のそうした道を本能を通して自然に選択している画家や陶芸家とつきあっていきたい。感心するものより感動するものにより多く出会いたい。今回は新年の抱負のようなオチになってしまった。

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