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美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

野中光正 昭和45年東京下町素描集II 序文

2018-12-16 20:51:26 | レビュー/感想

1971年、当時西新宿に超高層ビル群を次々出現させつつあった、急激な社会変化の波は、戦後の強烈な生活の匂いが漂よう下町の風景をも、かろうじて余命を保っていた江戸の面影もろともに、一気に消し去ろうとしていた。
同じ頃、野中が描いた東京下町の姿は、まるで幻の生き物のようで、建物は喘ぎ揺らいで見える。ためらいのない筆の運びで、大胆に省略が施された風景描写は、一瞬の若い魂のエッセンスと陰影を映しつつ、誰もが逃れ得ない無常の真実を浮き上がらせている。
これらの風景が、包装紙やレコードの宣伝帯、薬の袋、書店の注文票など、生活の中で出会う雑紙の切れっ端に描かれているのに驚きつつ、一層の興味を引かれる。現場にそれら多様な肌合い、色合いの紙を持参して、その場で風景にふさわしい材料を選んで描く。その独特な手法に心に働きかけてくるものに即応しようとする純粋な意志を感じる。スケッチブックを用いることが、構えて「絵」を作り上げてしまう小賢しさにつながる。そのことを強く厭う気持ちがあったのだろう。
後年、写実を離れ、画室において独自の「抽象」を描くようになっても、この製作流儀は根本的に変わらない。「絵を描くことに具象も抽象もない」という日頃の彼の言葉に、改めて得心が行った。

以上は来年1月発刊を予定されている野中光正の若き日の東京下町の風景素描集に寄せた序文である。

関連して時代はもう少し後になるが、1974年の自分自身の記憶を記しておこう。この年の夏、わたしは東京を去ることになり、何か用事があってのことなのか今や判然としないのだが、久しぶりに新宿の西口に降り立った。そこで見たものはかつての風景ではなかった。空を映して広がっているはずののどかな浄水場(淀橋浄水場)の風景は跡形もなく消え去り、広い道路とそそり立つ高層ビル群の重なりがかつての風景をいっぺんさせていた。そこには今も加速される一方の近未来的な風景が出現していたのだ。政治と情念の季節を葬り去った、そのあけっら感として明る過ぎる風景の前で、浦島太郎のように唖然とするばかりの自分がいたことを今も思い出す。

野中光正展 2019.2.1(金)〜10(日) ギャラリーアビアント 墨田区吾妻橋1-23-30-101

 


野中光正&村山耕二展 生成と変容 9月21日〜26日 東北工業大学ロビー 企画/杜の未来舎ぎゃらりい

2018-09-02 21:49:25 | レビュー/感想
少しでも多くの方に見てもらいたい、との思いで、今回は皆さんにも立ち寄りやすい一番町の東北工業大学ギャラリーで以下展示を企画いたしました。野中さんについては人物と画家としての生き方も含めて惚れ込んで10年近く毎年のように展示会を開いています。少しでも流行や西洋の借り物ではない彼独自の抽象を理解し評価してくれる人が増えてほしいと願っています。村山さんとも付き合いが長いですが、そのオリジナルを作り出す勇気とユニークな才能にはいつも感服させられています。

1970年、20歳前後、野中は東京下町の風景を憑かれたように描いた時期があった。この今なお見る者に迫ってくるリアリティの質は、30歳前後から手がける版画の技法を駆使した「抽象」(ミクストメディア)においても変わらない。野中が自分にとって「具象」と「抽象」の区別はない、と言うこととも繋がるところだ。野中の「抽象」とは、絵画史の紋切型と化した1ジャンルではなく、心と魂の旋律を純粋状態で記述するための、彼なりのぎりぎりの本質還元への手法なのだ。顔料、ブラシ、馬連、定規、布、版木、そして門出和紙。最良の音楽家が楽器を綿密に吟味、調整するに似て、これら道具は身体に馴染むものとして、ときには自作される。何十年も日々淡々と制作を続けてきた。そのうちに、意識的営為を超え、手が滑らかに動き出し、作品が自ずから生まれていく「生成」の奇跡にも遭遇する。制作日だけを記す彼の作品は、作品がついには「名づけ得ぬもの」としてしか成立し難い、こういう事情を物語っている。

地球内部で起こっている生成と衰滅。その見えざるメタモルフォーゼを可視化する作業。砂に命を吹き込むガラス作家村山の営為は魅惑的な色とかたちの日用の器を生み出してきたが、一方で彼のうちには、太古に錬金術師が抱いた夢を思わせるより原理的な志向があった。それが炉から取り出したばかりの溶けたガラスに石を入れるという無謀な試みをも唐突に誘発させたのだろう。石は彼の手の内で爆発の危険を帯びながらも、水を注ぎ入れた瞬間、まるで生命ある物質であるかのように変容を開始したのである。それは彼にしか分からない驚きの瞬間であった。錬金術には2つの方向がある。1つは世界を追創造し、至高の価値「黄金」を作ろうとする道、自然科学の先行者となった道である。そしてもう1つは究極の奇跡「賢者の石」を極める道、人間自身の変身と変容の道である。この2つは芸術と言われる営為の本質を言い当ててはいないか。彼のうちにこの2つの芽がどのように内包され、花開いていくかこれからも注目して行きたい。

古代アンデス文明展 7/29~9/30 仙台市博物館

2018-08-02 14:32:43 | レビュー/感想
娘がいささか興奮気味に帰って来た。「おとうさん、すぐ見に行って。美術なんてものがぜ〜んぶぶっとんでしまうよ」。というわけで翌々日には世界中を覆う殺人的なヒートウェーブの最中、自転車をこいで3つ橋を渡り博物館に行ってきた。そこで展開されているのは、人類の夢の世界であった。しかし、それは女性が思い描くようなアワアワとしたメルヘンの世界ではない。動物と人間が接続し、生首が飛び、恐ろしい神が幼児の捧げ物を所望するような、想像を絶する悪夢の世界であった。先週見たばかりの「ディズニー展」とはえらい違いだ。しかし、この「蒼古的な」(この言葉久しぶりに使う。大学の学部時代ユング派の心理学者の講義で聞いて以来のこと。)夢は、人類に通底する原初にあった夢なのであり、怖い世界であるが、どこか脳神経系が発達しすぎて窒息しそうな頭を、曇天のあとの青空のように一時的にすっきりさせる働きもあるのである。

展示会評の主題を離れるが、これはかなり怖いことで、マスコミが「心の闇」という言葉で取り上げ、最終的にはいつも理由が分からないと言って終わる諸々の事件は、全部この世界とつながっているように思える。それをドスエフトスキーは「悪霊」の名で呼んだし、最も新しいところではデビット・リンチのような作家が映画の中で繰り返し描く世界でもある。近現代の作品をあげなくても、ギリシャ神話から古事記まで、神話の世界もこの世界と無関係ではない。そこには人類の進歩も文明の発展もない。ときにそれは夢をぶちぎって破壊の果てに無の青空に達しようとする。おそらくたびたび戦争が起こるのも言葉は悪いが、この「すっきり感」を求めてのことなのだろう。例えば、破滅的な結果をもたらした日米開戦さえ、当時の経験を持つ人の言葉によると、始まりは決して暗くはないのである。しかし、戦争はすべての人がつながりを持っている罪の姿をあからさまに開示する。そう考えると、今の鬱々とした気分が漂いそれを昇華するところをなくして、表層的な平和を享受し続ける今の時代は、どこか不気味でほんとうに怖い。

一方で、最近パラパラと読んで頭に残っていたキルケゴール(ゼーレン)の著作「不安の概念」の内容が呼び覚まされた。エデンの園にあってアダムとイブは無垢であった、だが、不安であったとキルケゴールは述べる。神のふところ(マトリックス)にあって本来安堵すべき無垢は、生き物で一番賢いものである蛇の誘いをたやすく受けて意識の世界に入る。無垢と同時にあった原初的な不安が、誘惑を呼び寄せるのである。赤ん坊が理由も分からずときどき火のついたように泣くのもこれに起因するのであろう。

この無垢と不安が同居する無意識の世界が、アンデスのもっとも古い宗教的文化であるチャビン文化や地方文化のひとつモチェ文化の中に現れる。そこには動物と人間の不分明を受け入れる無垢の姿がある。幻覚剤を用いてジャガーに変容しようとするテノンヘッド、壺や鉢など土器や土製品に付けられた様々な動物や人間の顔。ティワナク文化の象形土器のカリカチュア化された顔の表現は現代のコミックマンガ(例えば、その造形は我々世代には馴染みが深い「ガキデカ」ー山上たつひこーのこっけいさと類似する。そういえば作家は「光る風」のようなシリアスで怖い世界も描いている。)を見るようだ。これらはまさに、何にでも変身し合体をとげられる幼児の世界である。ぬいぐるみやキャラクターに夢中になる我々もこの原初的な幼児の世界を色濃く残しているに違いない。

しかし、意識の獲得とともに神との関係は断たれる。それを人間の側から回復したいというアプローチが宗教的祭儀とその精密化につながっていくのだろう。怖るべき神に無垢である動物や幼児をささげる儀礼は、オリエントの古代宗教でも普通に行われていたことである。その中で世界宗教となったヘブライの宗教(ユダヤ・キリスト教)は仕える神を持つところに特異性があった。宗教的指導者たる祭祀の自死行為を描いてた「自身の首を切る人物の象形鐙型土器」は、その究極の姿だ。我々にも近年まで馴染みが深い腹切、断首行為がある。(三島由紀夫や神戸須磨の事件なども思い浮かぶ)。その行為のおどろおどろしさと対照的に、この胴体から皮一枚を残して垂れ落ちた人物の顔は穏やかに見える。共同体のために自ら犠牲となり、役割(祭祀としての)を果たした者の安寧の姿なのかもしれない。(これは私の妄想のたぐいだが、例えばこの後降った恵みの雨は彼のお陰とされ、顕彰の意味でこの像が作られる。後世の人々は、この器になみなみと水を注ぎつつ、彼の事績を思った?)キリスト教は、神が人間となり十字架に掛かることにおいて、これとは正反対のベクトルにおいて仕える神の究極の姿を完成している。

古代アンデスの人々は文字を持たなかった。その代わり紐に結び目を作るキープと呼ばれる情報の記録伝達手段を持つ。会場に展示されていたインカ帝国のキープは、高度な知性を感じさせて現代のコンセプチュアルアートを凌駕する美しさを持っている。キープの目的は公的な要件に限られていたようだ。ゆえに共同体の集団感情は祭儀のうちに、個々の感情は、土器や土製品のうちに読み取らなければならない。宗教意識をあからさまに表していない土器や染物は、存在感にあふれ、まるで柳宗悦の収集した民芸品のようだ。

宗教儀礼の洗練化やシステマチックな確立は、王権を頂点とする階層化と結びつく。かつて生活と密接なつながりを持ち具象的な表現となっていた無垢の思い(感情移入的表現)を消し去って、エジプト文明と似通った記号や幾何学模様に象徴化される高度なイデオロギー化、抽象化の過程をたどる。しかし、共同幻想に基づく文明の完成は、打ち続く干ばつやスペインの侵略など、ブラックスワン(硬直化した組織制度に唐突に襲いかかる外部性)の出現の前にあっけないほどの脆弱さを露呈することなった。ナスカの地上絵は、彼らの結局は虚しく終わった天への切なる願い(雨は降らず帝国は滅びた)を、時を超えた壮大な遺跡の姿で示している。

東アジアからの大陸のコーストラインを経て南米までに至る壮大な民族拡散は、南米の人々と我々とのDNAの染色体配列によっても証明されつつある。とりわけ東北に住む我々は、安土桃山時代の宣教師(ジョアン・ロドリゲス)がバチカン宛の報告書(日本教会史)においてすでに分析しているように、当時彼らが言っていたタタールの種族の影響が色濃い。この時に世界史を撹乱する移動性の民族は奥深い心性においては同じ刻印を持つ。謎多き縄文文化はその証であろう。そのようなことまで感じさせる近年稀な興味深い展示であった。さて、ボリビアの約2500メートルの高地に広がる都市コチャバンバから仙台にやってきた女性研究者を知っているが、その出自がまだ分からなかったときにも同族のような親近感を覚えた彼女と話すよい話題ができた。

ディズニーアート展 6/16-9/13 宮城県美術館

2018-07-31 10:13:51 | レビュー/感想
地方の美術館は特別の企画がない平日にいくと、どこもガラガラでゆったりじっくり作品を見れる至福を味わうことができる。もともと集客なんて自分たち研究者の仕事とは毛頭考えていない学芸員にとっては天国であろう。だが、そうはいかなくなっている最近の厳しい財政事情がある。美術のことなんてまったく興味のない納税者にすれば、なぜこんなところ(とりわけチンプンカンプンで説明抜きでは成り立たない現代美術、説明すらできない抽象画など)に税金を投入するの、ということになる。

だからすべて出展交渉等お膳立てをして、協賛協力企業もはりつけて、マスコミ各社も両手をあげて応援します、何しろあの膨大な既存マーケットを持つディズニーアニメの世界ですから、子供たちはもちろん家族ともども熱心なファンが夏休みのこの時期に大挙押し寄せ成功間違いなしですよと、持ち込んだテレビ局に太鼓判を押されれば押しとどめる理由など誰にもないだろう。それでは美術館なのだから「アート」展示という観点は外さずにと抑制しつつ、さらにここで稼いだ分を地味な美術品収集や保存に使うと皮算用すれば、何かとうるさいだけのアート界の周辺にも立派な言い訳が立つというもの、と当然考えるに違いない。「鳩のごとく素直に、蛇のように賢く」というではないか。ポピュリズムの時代、取り澄ましたところと思われている芸術の殿堂も商売の論理をはずしては生きられない。

こんなことを暑い中ぐだぐだ妄想しながら、私もディズニー展の観客の一人となった。駐車場は平日に関わらずいっぱいで確かに子供づれの家族、そして若いカップルが多い。そっくりそのままディズニーランドの客層を持って来たといってよいだろう。確かに「ミッキーがいないよ!」と騒いでいる子供はいた。ちゃんと会場のはじめの方に初期のコンテやらアニメのプロトタイプとしてのミッキーは展示されていたのが、彼に言わせれば「これはミッキーではない」ということになる。監視員や受付の人までミッキーやミニーやグーフィーなぞディズニーキャラクターの着ぐるみをつけて、会場に流れるディズニー音楽(音楽が流れる美術館は初体験だ)に合わせて突然踊り出しでもしたら、彼も満足の笑顔を見せたかもしれない。若いカップルはカップルで、ディズニーそっちのけで「かわいいを連発する」お相手の気をひく男性が目についた。

かといっても、私自身そういう姿を気むづかしい顔をして見ていたわけではない。美術スノッブばかりでないそういう正直な反応が見れたことも含めて、なかなか勉強になりました、ということも多かったのである。

ディズニーのキャラクターが出来ていく初期の歴史を見ていくと、それらが、移民の子である才能溢れた画家たちの存在があって、彼らのうちに蓄積された西洋絵画の膨大な歴史的土壌から出てきたものということがよくわかった。「白雪姫」の7人の小人たちの下絵にはドーミエのカリカチュアの辛辣なタッチを明らかに感じる。近代以降の様々なジャンルの西洋絵画のみならず、中国移民の手になるものだが東洋の水墨画の影響すらも受けている(バンビ)。そして近代以降、子供の世界の発見とともに、主に英仏の子供向け出版文化の中で花開いた無数無名の膨大なイラストレーション(挿絵)作家の存在も背景としてあるのだろう。

立体的な背景に馴染んでキャラクターが動く。キャラクターのタッチと背景との有機的なつながりがこの自然さを実現している。日本漫画の浮世絵譲りの平面性と違って、彼らには遠近法の伝統と世界観が身体的に受け継がれているに違いない。しかし、画家とアニメの牧歌的な関係は続かない。ディズニーのキャラクターは、生産性をあげ産業として成立していく中で商業文化の象徴的なアイコンとなっていく。スタッフの集合写真が残されている。最後に掲げられた写真を見ると創成期の写真から比べると5倍ぐらいの人数となっているのが分かる。限られた個人の手によることの多かった制作スタジオは、数え切れない人が分業で請け負う工場となっていく。もはや個人の夢や思いでは成り立たなくなっていく過程がそこにはあったのだろう。

だがその中で絵は生命感を失いパターン化していく。技術革新があって初めの画家のタッチを残せるようになった。しかし、確立された集団による工程の中で、あの初期の無意識から出た夢のように柔らかいタッチは消えていかざるえない。セル画の一つ一つに乗せられた「思い」は薄れて、脳が作り出す、計算された、客観的な線や感情をことさらに呼び起こす強い色だけになっていく。それにデジタル技術の進化が拍車をかける。「美女と野獣」の稠密でやたらくっきりした背景とキャラクターの分離を見よ。どんなにストーリーが面白くても、身体の自然を離れ、脳内現実、バーチャルリアリティとなったアニメが好きになれない理由だ。

かってのアニメはなんと夢の世界であったことだろう。しかし、近代以降、絵画史の中で起こった脳内化(抽象からコンセプチュアルアートまで)と同じ道筋を、アニメションの歴史も産業社会のメカニズムに呑み込まれながら加速度的にたどっていく。キャラクターはパターン化し、子どもの頭にもときに商品を媒介する強力なアイコン(偶像)として植えつけられていく過程であった。

いつものように企画展を見終えた後は、常設展を見る。ほとんどの客はディズニー展だけで帰ってしまうので、室内はまったく閑散としていた。鑑賞者は2-3人しかいない。定期的に変わる展示品目は、たまたま評判の悪い「現代美術」であった。しかし、ここには大衆の欲望の喚起装置「エンタテーメント」でしかなくなったディズニーアニメには、存在すべくもない「美術」があった。ついには絵画というある時代までの西洋文化の中で成立した総合的な様式をバラバラに要素分解することでしか存立しえない現代美術ではある。美術の最先端を走っているというプライドと狭い業界でポストを得るための売名があるかもしれない。だからそこに人としての優劣はないが、美術の意味を問い続けている、個々の人間の声は聞こえてくるような気がして少しくホッとしている自分がいた。

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第5回とうほく陶芸家展inせんだい開催にあたって 手の人が作る小さな器が巻き起こす生活の微風

2018-05-15 21:02:53 | レビュー/感想
昔ながらの器がなかなか売れないのは、和の生活が消えてしまったことにあると誰もがいう。確かにめったに膝を折って食事をすることはなくなった。しかし、だからといってそこで長い間積み上げてきた器のかたちや厚みや重さや色彩の感覚を捨てていいということにはならないと思う。伝統の窯を交えて、この展示会を続けて行く意味のひとつは、そこにある。これまでの器に受け継がれてきた蓄積を大事にしつつ、流行に流される器でなくて、現代の生活に根ざした「使える器」を作り続けて行く、その道筋と環境がこの展示会でのお客様との対面、そして作家同士の交流の中から生まれて来てほしいと願っている。
ここに集まっている作家は、いずれも器を作って売ることを生業として、またそうありたい(正直厳しい世の中だから必ずしもそういかない現実がある)と思っている作家たちである。そうした生活の座が成り立たなくなるとき、東北の風土の特徴を帯びた手づくりの「使える器」も消えてしまう。モダニズムの究極的な姿を呈して、都市的環境はますます均一化の方向を加速している現実。器の世界もすべて頭の人のデザインに基づいて設計された工業製品、ユニフォームになってしまうだろう。そのことの寂しさ。
手づくりの小さな器に込められた特徴ある風土の匂いと作り手の思いが、使うものの心にも微風のようなものを巻き起こし、ささやかながら、命にあふれたほんとうに豊かな生活をしていくための入り口になればと思う。

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予告 野中光正&村山耕二展  2018 6月14日(木)〜23日(土)杜の未来舎ぎゃらりい 

2018-05-10 13:01:27 | レビュー/感想
創るもの、生まれるもの。このふたつがうまくミックスされ、バランスされたところに作品が生まれる。創り込みすぎてもだめ、生まれたままでもだめ。作品として成り立つには、分かたれないひとつのもの=美として成立していなければならない。このふたつを絶妙にバランスさせるものは何か。神というか、自然というか、それは人間の知恵においては、永遠の謎なのだが、作家のモチベーションの大元にあるのものに違いない。個性も年齢も出自もすべてが違うふたりが年に一度の展示会で出会い続けられるとしたら、この共通点においてだと思っている。
村山の作品は、日本からモロッコまで、世界を巡る幅広い行動力から生まれてきている。無辺の大地から抽出されたエキスが感界で捉えられ、美とつながる野生の思考に育まれ、手の内でいのちあるかたちとなって吹き出している姿を見る感動。もちろんこの錬金的変容は稀有な個性のうちだけでは生まれない。真っ先に砂や炎や光や自然の計り知れない力、そして同じ魂を持って器を日常に引き入れてくれる人々、このふたつの強力な坩堝を持つ作家の幸せ。
野中の立体作品には、地方人には真似のできない、東京下町浅草の生活に根づいた昭和モダニズムと、彼の中核にある部分、戦時中、中島飛行機の部品を作る町工場主であったという、父のDNAを受け継ぐ堅固な職人魂が見て取れる。綿密に構築する美的設計がないと、彼の「零戦」は飛翔しない。一方、従来の平面作品(木版画モノタイプ・ミックストメディア)が繊細な調和を見せるのは、それが音楽のように軽やかに優雅に舞い降りた瞬間であったのだろう。このふたつの美を成り立たせる複合的な人格の不思議さ。

2018第5回とうほく陶芸家展in せんだい(AGF協賛)開催

2018-04-27 14:14:41 | レビュー/感想
震災後に始めた「とうほく陶芸家展inせんだい」(5/25,26,27)は今年で5回目。最初の30人から比べると少なくなったが、19人の陶芸家がいつもの場所、ここが仙台中心とは信じがたい、緑濃い八幡の森に集まります。陶芸家という括りについて、いつも悩みます。マーケットインを露骨にねらったアーティストでもない、徒弟制のないところで陶工でもない、かといってデザイン色の強いクラフトという名称にすると、ローカルな生活の座や自然とのつながりを失って味気ないものになってしまう。世界が求めている進歩とはそういう都市的Unityなのか?しかし、経済合理性を求めるunityは必然的に手の技から離れ工業的なuniformになってしまう。無味乾燥なプラステック素材、記号化したかたちではない、命のあるものを本当はみな求めているはず。誰かいい名称の提案ないですか。理屈はともかく、みなさん人生と生活を賭けて器を創っている人たちです。見て、触って、対話する楽しみとともに気に入りの土の器を選んで、彼らの営みを支えるとともに、あなたの生活にも小さな器を通して、いのちの気配を持ち込んでください。

展覧会カタログ「東北のやきもの」ーヘールコレクションー 序文 

2018-04-27 14:10:33 | レビュー/感想
東北の焼物について、デヴィッド&アン、ヘール夫妻のコレクションを基にして、震災後の2012年春、英国のルシン・クラフトセンター(ギャラリー3)で開催された展示会のカタログを、堤焼さんから借り受けた。先に東北滞在の置き土産としてデビッド・ヘール氏が日本語で上梓した「とうほくの焼物」(昭和47年、雄山閣)には書かれてない窯場とのプライベートな交流や懐かしい工人の暮らしぶり、美しいコレクションの鮮明なカラー写真が載せられた貴重な資料だと思う。英国人の東北陶器への熱い思いを伝えることで、うたかたの東京トレンドに相変わらず夢中で、身近な地元にある東北のいのちとも言えるユニークな価値に無関心であるわたしたちの不明をはじるとともに、震災後いっそうの衰退に見舞われている東北の窯場を再活性化するためにささやかであれ役立ってばと思い拙い翻訳を試みることにした。「とうほく陶芸家展」開催を一つの目標点にどこまでできるか分からないが続けていきたいと思っている。



ジェーン・ウィルキンソンは、1990年、ダラム市(イングランド北東部)にあるラフカディオ・ハーンセンターでデヴィッド&アン、ヘール夫妻と初めて出会った。そこには数点の東北の壺が展示されていた。ジェーンの脇にあったそれらの美しいかたちの壺は、ぼてっとした暗黒色の釉薬をベースに斑点上にかけらた碧色の釉薬がことさら印象的だった。20年後、ルシン・クラフトセンターでの日本陶器の展示会を企画する機会が舞い込んだときにも、そのときの鮮明で圧倒的な印象が残っていた。今こそ、これらのあまり知られていない陶器をより多くの人々に知ってもらうべきがときが来たと思う。
デヴィッド&アン、ヘール夫妻は、1966年に日本を訪れ72年まで滞在した。仙台をベースにデヴィッドは東北大学で英文学を教えていたが、彼の関心は東北の陶器の歴史と技術についての広範な調査結果を日本語で初めて出版することに向けられていた。
わたしたちはしばし彼が語るにまかせて、東北を回る旅に彼を巻き込み、終わりのない茶飲み話と幾つかの異なった方言と沢山の疑問との格闘をしいたところの、探求と情熱の物語に耳を傾けることになる。この類例のない本は、残念なことには英語では未だ出版されていない。
2011年3月11日、地震と津波が東北地方を襲ったとき、わたしが最初に思ったのは日本にいる友人や仲間、そして東日本で奪い去られた多くの命と暮らしだった。わたしが上記の展覧会で何をなすべきかと考え始めたのは大分あとのことだった。しかし、展示会で取り上げられる幾つかの窯場は廃墟となり、そして12代続いた福島の大堀相馬焼の窯場は今は閉鎖されていた。わたしたちはそのときに沢山の言葉で有意義な助言と励ましを与えてくださった日本の方々と日本に心から感謝したい。それらの人々との間で一致を見たのは、それらの器をとにかくウェールズに持ってきて、それらの温もりのある、そして生命感にあふれた姿を展示するということであった。
この目的を実現するために協力してくださった、ウェールズアーツカウンシル、英国カウンシル、大和日英基金、英国笹川財団、日本大使館、 日本国際交流基金に感謝したい。
わたしはまた「日本スタイルー受け継がれているデザインー」のプロジェクトディレクター、マイケル・ニクソンにも感謝したい。彼はヘールコレクションをそのプロジェクトの重要な部分として位置付けてくれた。わたしたちはこの展示会の企画とこの本の出版、そしてヘールコレクションをより多くの人々に知らしめてくださったジェーン・ウィルキンソンの知識と寛大さに対してとりわけ感謝したい。この展示会はデヴィッドとアンのこのユニークなコレクションを可能ならしめた先見性と情熱なくしては成り立たなかったことだろう。

わたしたちの思いは東北の地ですばらしい器を作り続けてきた陶芸家たちとともにある。幾世代にもわたって東北に住み続けてきた家族たちに、手づくりの美しさとともに生きる喜びがこれからも与えれんことを!

         フィリプ・ヒューズ (ルシン・クラフトセンター ディレクター) 

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求道の画家 岸田劉生と椿貞雄 1月27日(土)〜3月25日(日) 宮城県美術館

2018-02-23 13:27:15 | レビュー/感想
劉生が逃げた(?)場所

 確かにこの二人の比較対峙から、見えてくることは多いかもしれない。企画した学芸員には美術史的な観点から新視点(椿を媒介に劉生を天才性で見るだけでなく画壇という集団的営為の中に位置付ける)を提示した満足感があっただろう。しかし、自分にとって、そうした学芸員の意図とは別に、無闇にそして粗雑に神秘化されていた劉生の別のストーリーを見せてくれた点においてこの展示は興味深いものだった。とりわけ劉生の真摯な探求結果の「日本回帰」として一般に意味を深く問うことなく括られているところにおいて。それは劉生が実は副題に言う「求道の画家」(優れた行為や結果に倫理的意志的な意味合いを持たせてしまうこの言葉はあまり好きではない。まして劉生にこの言葉はふさわしくない)であり続けるのではなく、逃げてしまった場所でもある。そこを明確にしておかないと、椿にも仄見える凡庸さによって画壇というお仲間中心に価値観が形成されていった結果、ドメスティックな閉塞状況から今もって脱却できないでいる日本絵画の現状を安易に認めて、油絵という西洋生まれの衣装の浅薄な模倣と理解からいつまでも進展しないことになる。一方で、近代の終わり、結局は絵がエンターテーメントやサブカルになってしまった現在、この日本という風土に根を下ろしつつ、絵を描くことの意味と根源を問う一つの糸口にもなると思う。劉生は問題点も含めて近代日本絵画史においてそれに耐えうる数少ない画家の一人だ。

デューラーの写実が意味するもの

 カタログの解説には、「劉生は、ゴッホやセザンヌの表現にも満足できず、デューラーなどを知って写実に転じた」とある。満足できずという表現は、ゴッホやセザンヌを否定しているのでなく、当時「白樺」を通して入ってきていた欧州流行の表現に、他の画家のように表面的な技法だけ小器用に真似することで満足しなかったという意味であろう。彼は写実絵画というジャンルを真似しようとしたわけではない。彼は「写実」に絞り込むことで、デューラーと同じ信仰の目で世界を見ようとした。それは彼にとってキリスト教信仰の根を探る道でもあったかもしれない。
 さて、この劉生の探求の成果の極点は「静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)」であろう。1916年、劉生は肺結核と診断され戸外での写生ができなくなった。それで仕方なく取り組んだ静物画が「自分を生かすにこれほどぴったりしたもの」と言わしめるほどのものになったという。まさしく彼はこの一点において、デューラーやセザンヌ、ゴッホと同じ目が、レンズが自分に備わっていることを発見した。しかし、その奇跡的な瞬間は続かない。翌年この作品を発展させるべく造形的意図を加えて描いたと思われる「静物(林檎と葡萄)」は見事なほどの失敗作であったことからも、この作品がいかに再現不可能な作品か分かる。
 たまたまパラパラ読んでいたマルティン・ブーバーの「人間とその形像」(ブーバー著作集4哲学的人間学所収)に、デューラーの次の言葉が取り上げられていた。「なぜなら、真実に芸術は自然の中に隠されている。芸術をそこから引き裂く(reiβen)ことができる者が、芸術を持つ」。
 美学者のコンラッド・フィドラーと哲学者マルティン・ハイデッガーは、ともに芸術作品の根元を探求する中でこの言葉に出会っている。しかし、前者は本来全人的(ブーバーの表記では「全ー身体的ー精神的ー人」)な営為である芸術行為をカント以降の観念論の範疇で論じることで、さらに後者は「引き裂く」という言葉に拘泥することでかえって煩雑な言語連想にとらわれて、デューラーの端的素朴な語りかけの本来的な意味をそこなっているとブーバーは指摘する。
 止まれ。ブーバーを論じることに本筋はない。ここにはその内に生き信頼すべき、人間によって生きられ得る生の世界としての「自然」と全人格的に対面してるデューラーがいる。彼はいささかも疑うことなく神が創造したもう自然という統一的世界にゆだねて生きていた。ブーバーが述べるごとく、科学的知見がそこに分裂を持ち込んだ。二つに引き裂かれた我々が描く自然は、おのずと非現実的な、不気味なものにならざる得ない。まさしく美術史家ハンス・ゼードルマイヤーが18世紀以降の絵画や建築にその兆候を挙げながら診断を下した「中心の喪失」が現実化した世界である。サルトルが描く、名前を取り去られたマロニエの根に嘔吐するロカタンのように、神を、そしてその創造になる自然を失った我々は得体の知れないものにとりまかれて生きていくことになる。
 劉生の生きた近代という時代、デューラーの写実画は西洋においても、わずかな天才を除きもはや再現不可能なものとなっていた。

「野童女」の歪み

 「失敗」からどのような変化を経てなのか、この展示会ではその点と点をつなぐストーリーはつまびらかでないが、劉生の重要な変節点として現れてきたのが「野童女」(1922年)であったと思う。ここでは「静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)」で彼が獲得したデューラーの目はまさに溶解しかかっている。デューラーの写実の技術は深く生きているが、東洋画の世界観がまるで感染症のように侵入してきてモデルの顔や肢体を歪ませる。浮世絵や錦絵を見つつ、なぜこんなに日本画と西洋画の世界とは違ってるのだろうか、とつぶやく劉生がいるようだ。しかし、彼はまだこの二つの世界に足をかけている。一方、この劉生のアンビバレントな心情、内なる葛藤が全く飲み込めずに劉生の模倣をしている椿の絵(「菊子遊戯の図」1922年)は、劉生より技倆的に上回っているとしても、そして残した言葉(「微笑のミステイックとそこに坐せる生物の神秘を出したい」)の的外れを見ても、ただ滑稽な印象しかない。やがて劉生は、西洋と日本との間のきしみから発生したような「でろり」の世界に入っていく。それは、奇矯な遊びのように見えて、劉生の写実の根にあった、肉化した思想の深刻なゆらぎを正直に反映したものであったろう。

抽象作品になってる紙本彩色画

 しかし、この道をどこまでも下降することはできない。劉生は、憑きが落ちたように、一見健康的に見える快楽主義的な道、東洋の文人画的、高踏趣味的な世界に立ち戻ってしまう。劉生は、西洋の目と東洋の目の間に生じた葛藤の中で「写実」を続けることを捨てて、慣れ親しんだ文化的様式に帰っていった。そこは東京=江戸の中心、銀座生まれの劉生にとっては、懐かしくもほっとする場所であっただろう。もともと「The Midday」(1913年)に見る、描かれた文字が変化して人物になるような、モダンな着想の世界をさらっとかけるような洗練されたセンスを持っている劉生でもあった。折しも関東大震災後の京都住まいがそれを加速した。鎌倉に戻ってもそのときの酒と遊びの生活は変わらない。何か谷崎潤一郎のような結末に思えてならないが、若い時に入信したプロティスタンティズムとはそれはどういう関係にあるのだろうか。文献あさりは全くしない自分であるから、そこまで論じたものがあれば教えてほしい。
 彼の東洋画はそれなりに彼の天与の才能を表している。ただの筆法の模倣ではない。ときに宗元の元絵を写真を見て描いても形態模写に終わらない。すっかり古人の心に入ってしまう。「村嬢愛果」(年代不詳)のいきいき感は、当代ものと言われれば骨董に素人の私なぞすっかりだまされてしまうレベルだろう。これら一連の紙本彩色画を会場の真ん中の椅子に座り、離れて一堂に見渡した。具体的な像や文字はボケて形態と色彩だけが目に入ってくる。そこには押し付けがましい意図的構図はない。その自然さの心地よいこと。喜びや屈託ない心が穏やかな色彩と生きた形に変じて踊っている最高の抽象作品を見ているようだった。

椿貞夫の限界

 一方の椿貞夫は、劉生の死まで、その道程を模倣するように画家人生を生きて来た。しかし、劉生の絵は、いづれも深いところで彼の思想が形になっていったものだが、椿は劉生を若い出会いの時からカリスマとして仰いで絵画技術としてそれを模倣したに過ぎないように思える。それがいかに表層的なエピゴーネンの理解でしかなかったかは、残された生真面目だが常識的で的外れの言葉とともに、決定的なのは奥行きや空間が描けていないことに現れている。結果は、例えば劉生に触発されて書いた「静物画(りんご)」(1921)に見るように、横にスクロールしていく屏風絵の構図を借りるしかない。その固定した構図の中で果物たちは死んでしまう。あるいは劉生ばりの紙本彩色を真似ても、意図が透けて見える教科書的なデザイン、レイアウトにしかならない。残された道は素材としてのモノを成熟した技法で精密に描くしかない。それがどーんと対象を真ん中に置いただけの「冬瓜図」(製作年代不詳)など一連の果物を描いた作品だと思う。微細に見ていくと劉生同様、北画(宗元写生画)の古法に学んだ質感といい、「修行だと思っている」と本人も言っているように一意洗心の大変な修練の結果到達した、舌をまくような旨さがあるが、その写実には不思議さはない。結局は様式の技法修練に終わっている。
 展示の後半は、日本画も油絵も、今の画壇展の最高峰と褒めそやされるような、ある意味椿作品の独壇場だ。より長く描き続けた者が勝ちとでもいいたげな展示だ。見るうちに椿は今の戦後のステレオタイプの画壇絵画の基礎を作った作家の一人であることを納得させられる。劉生の死だけでなく、船橋時代に教師の職を得たということとも関係するのだろう。「画家の家」(1935年)「早春図」は教師と画家の二足のわらじ生活を満喫して、いかにも楽しげな作品だ。しかし、絵画としての深みはなくイラストに近い。精進の甲斐あって日本画の伝統の樹形の描き分けが自家薬籠中なものになりました、とまるで獲得した技術を誇っているようにしか見えない。家庭的にも恵まれ可愛い孫も得て、一見幸せな画家人生を全うしたように見えるが、唐突にこの世を去ってしまった劉生の衣鉢を継いで、その後を歩むことを期待された写実の本道からは外れてしまった。若い時売れないことを理由に日本画へ転向しようとした椿を、油彩画に専心するよう叱った武者小路実篤の気持ちが推し量れるところでもある。
 ところで椿と劉生との出会いのきっかけとなった「道」(1915)は、ゴッホに共感する若い画家の素直な情熱をストレートに感じる好感の持てる作品だ。この劉生とは明らかに違う力量を持った個性は劉生を仰いでその後に従っていくことになる。だが、その違いは同じように鵠沼の風景を描く中にはっきり出てしまう。劉生の「鵠沼のある道」(1921)は、遠近法のような錯視技法を使わずとも自然の奥行きがあり、季節の空気を五感で感じて絵の中に入っていけそうな感じを抱かせるが、椿の風景画にはこれほどのいのちの輝きはない。どこか焦点のあってない写真を見ているような感覚の鈍さを感じる。上記と同名の椿の作品(「鵠沼のある道」1922)を見ると、むしろアンリルソーのような無意識の歪みをともなったファンタジックな素朴画にもっと自覚的に自然な才を開かせるべきではなかったのか。その意味で劉生亡き後に描いた、壺を描いたのと同じ筆致の、生命感のない人形のような変な立体感を持った人物像(「家族」、「晴子像」、「彩子立像」など)が、椿が持つ個性により正直なようで、それなりに面白味がある。

絶筆「椿花図」

 絶筆となる「椿花図」(1957)は、見舞いにもらった椿の花を病床で小さい板に描いたものである。ここには「夜の自画像」(1949)に描かれたような、精進を続けるものがおのずからまとってしまう厳しく頑固な顔の椿貞雄はいない。画家としての名声を虚しくしてしまう死に際して、肩の力を抜いて描いた自然な趣きが心を惹きつける。画面右端にはかって劉生があの「静物」で彫刻刀で抉るように引き、それがマジックのように不思議な奥行きを作った縦の描線が見える。ガラスの瓶には、今までにない透明感が感じられる。椿はこの最後の一点においてだが、あの時の劉生の啓示に、自分の画法においてようやく結びついたように思う。この一本の線にかけがえのない友でもあった劉生へのオマージュ=愛を感じる。彼がここから始めていたら‥‥しかし、それは語っても仕方がないことだ。椿の没年は1957年。優れた才覚や並外れた努力があっても、戦後的な価値に抗して安心立命の道をあえて否定し、自分の資質に基づいて安定的なスタイルを確立する以上のことをできうるとは到底思えない。それは我々凡庸な人間にとっての共通な運命といえるかもしれない。その結果が今の画壇になってしまったとしても、それは彼の責任とは言えないだろう。

劉生の衣鉢を継ぐもの

 劉生が日本回帰へ舵を切ったことのむしろ損失を思う。この現実の物象の不思議さを描き通す狭き道を、途中パリ留学を挟んでも切れ目なく一貫性を持って歩み通したのは、私の出会った狭い範囲ではあるが、今のところ長谷川潾二郎以外にはない。たいていは、とりわけパリ留学なぞをすると、本質的な影響は受けずに安易な日本回帰に転ぶのが画家の常である。椿がパリ遊学中描いた心のない西洋人形のような「アンドレ(黒服)(赤服)」(1932)も、レンブラントをはじめ西洋の古典作品に感銘を受けたと語るにしろ、表層的な影響しか受けなかったことを物語っている。
 一方、潾二郎はパリの裏道を書いた同じ目で日本の風土、田舎の道や庭の木々、存在の神秘を描いた。彼が求めていたのは西洋、東洋という浅はかな二分法とはまったく次元が違うひとつの普遍性であり、それを見極めるためのゆるがないひとつの目を持っていた。だからパリ留学を挟んでも彼の描く絵にぶれはない。ひとつの目、それを個人的には人間に本源的に備わっているものとして「心の目」と呼んでいる。これは時空を超えて、ダビンチにもフェルメールにも雪舟にもモネにもゴッホにも、そして潾二郎にもっとも近い画家としてはモランディにも与えられた存在の本質を見極めようとする目であった。この目が潾二郎にも淡々と見続け、「写実」することを強いたのだと思う。この潾二郎にこそ「孤高」などという、ある意味世間的なやっかいばらいの冠ではなく、今もっと正当な光があたっていいと思う。残念ながら洲之内徹経由で紹介されていて一般に人気が高く代表作と思われているのは「猫」の絵になってしまうアイロニカルな現実がある。彼も日記で言っているところだが、この絵は彼にしては珍しい観念的な操作(その意味では劉生の「静物(林檎と葡萄)」と近似している)がじゃまをして、生きた猫の動きが感じられない失敗作であることを申しそえておきたい。
(3月4日、文章が粗雑だったので一部修正。潾二郎についてはだいぶ以前2010年に次のような文章を書いている。長谷川潾二郎展 宮城県美術館 https://blog.goo.ne.jp/emaus95/e/9e702c9f0507c4818bc066aa9c81c30c)

ルオーのまなざし 表現の情熱 8/12~10/9 宮城県美術館

2017-08-19 19:07:56 | レビュー/感想
セザンヌの人生は視覚の真実を探る旅であったが、ルオーの人生は心の真実を探る旅であった。その意味で対極的な二人であったが、いづれも芸術が文化史的な背景から切り離されて久しい、近代という名の魂の荒野の時代を孤独ではあるが誠実に生きぬいた芸術家の典型ではあった。セザンヌの場合、「純粋な視覚」のために人生は絵画の背後にまったく封印されている。彼のカソリックへの信仰がどうであったかは、彼の絵画表現とは関係ない。一方ルオーの場合、彼の人生は彼の絵画と抜き差しならない関係を持っている。カソリシズムと絵画という二つの柱は切り離せないものとしてあった。画家の目は信仰者の目でもあった。この彼が、同じように画家であり信仰者であったゴッホが亡くなったその年に国立美術学校に入り画家としてのスタートを切っているのは、偶然とは思えない意味合いを持っているよう思える。ルオーは、ゴッホの精神的な嫡子として、その二つを一つとして生きる困難な狭き門を歩み通した、近代の画家の中ではほとんど唯一と言ったら良い存在だったかもしれない。

国立美術学校ではギュスターブモローのアトリエに入る。そのとき描いた作品「人物のいる風景」(1897。かってパナソニック汐留ミュジアムの展示会で見た作品の中でも最も印象深いもののひとつとして記憶に残る)はルオーの並々ならない力量を示している。単調な暗い色調ながら平板にならない奥行きと空間のリアリティを持っている。これはアカデミーの古典技法を器用に身につけただけでは、生まれ得ないものだと思う。モローの出題に応えた作品「ヨブ」(1892)も、ダ・ビンチの作品と同じく宗教画の様式に収まらないマチエールの深みを持っている。一見雑に見える細部のブラシタッチはモロー流でもあるが、表現の深みでは師を凌駕する資質を証ししている。

モローの死後、アカデミーを離れ、レオン・ブロア、ユイスマンスといったカソリックの作家と交わり、しばらく宗教的な主題に基づく作品を描く時期が続いたが、自分の資質にあった描き方を求めつつ、娼婦たちの姿を描くようになる。ルオーは激しい筆致で、闇の世界に生きる者たちの醜怪な姿を描き出す。レンブラントのような穏やかな宗教画を望むブロアの酷評を受けても、かつてゴヤやドーミエがそうであったように、ルオーの筆は彼の心が捉えたリアリティを描いて、イデオロギーに迎合するような嘘をつけない。ルオーの述懐を読むと、醜怪な姿は嘲笑するために描いたのではない。むしろそこには福音書のキリストのまなざしと同じ、罪を知っていても生きるために罪を犯さざる得ない者たちへの愛がある。

一方で、レンブラント時代のオランダ絵画のような構図と色彩を持った「法廷」(1909)という作品がある。そこに居並ぶ裁判官たちは、法衣に身を包み娼婦のように醜く歪んだ裸はさらしていない。しかし、その顔は悪鬼そのもの。自らの罪に無自覚なまま、特権的な地位から正義をかざして人を裁く者たちの真実の姿を鋭く暴いて、ルオーの筆は情け容赦がない。だが、ここでは展示されていなかったが、25年を経て描かれた「法廷でのキリスト」(1935)では、判事たちが寄り集まった悪霊の巣の真中、涼しげな瞳のキリストの姿が描かれている。この判事たちもキリストの救いの外側にいるのではない、究極においてはそのようにルオーは語りたかったのかもしれない。

ルオーの筆が描き出すのは、人間の心という名の底なしの奥行きである。そこに見えてくるのは娼婦や裁判官だけでなく、どんな人間にも備わっている深い罪の世界であった。モノクロの版画というメティエは、幾重にも重なった罪の姿の一つ一つを描くには適していたのだろう。ルオーは、油絵の制作を忘れるほどこの版画の制作に打ちこんだというが、タイトルと一体となって、レイアーに分けるように罪の諸相を表現できる手段であったのだと思う。版画で描かれる仮面や衣装をつけた旅芸人の姿は、罪あるゆえの悲しみを押し隠したわれわれ自身の、したたかで哀れな実存の姿でもある。(この版画については、前に「ミセーレ」をテーマに書いているのでそちらを見て欲しい。)

女の顔を真正面から描いた絵(「女曲馬師」1929)に目が止まった。じっと見つめているとまだうら若いこの女の素顔の下にも未だ発現しない罪が渦巻いているように思えてくる。女はまだ見ぬ罪、そしてこれまで犯した罪におののいているかのようだ。その隣にそっと真正面から見たキリストの顔(「聖顔」1939)を描いた絵を置いてみる。その顔は、むろんこの女のうちにも、そして娼婦、旅芸人、裁判官、すべてのルオーの絵の登場人物、いやすべての人の心の奥底にもあるものだ。「聖顔」を囲んで、本物の額の内側には描かれた額がある。そこまで強調された額は、心を宿した器たるわれわれの隠喩であろうか。罪あり、しかしすべての人はすでに救われてあり。ルオーの信仰的確信を受け入れるかどうかは別として、キリストの贖罪と復活、それは創造の神が司る永遠の相での完了の出来事であった。

ルオーはどこに行き着いたのだろうか。中心を失い分解していく近代絵画史にあって、一人中世の画工のように生きた一生。その反時代的な生き方はボードレールのような孤立と苦悩のうちにではなく穏やかに終末を迎える。ルオーが激しく罪の姿を描くことは信仰の深まりとともにだんだん少なくなっていく。代わりに現れたのはわれわれに親しまれている典型的なルオーの絵。弟子とともに路を歩む、あるいは立ち止まるキリストの姿を描いた魂の風景画(「聖書の風景」1935~)である。そこには単純な描線と色彩のヴァルールで描かれながら、あの奥行きがしっかりと表現されている。その卓越した技量の到達点は「古びた町外れにて、または台所」(1937)に見て取れるものだ。ドアの奥の部屋で光を浴びながら仕事をする人物。その前面にいる白い衣を着た人物。そして最前面のコンロと鍋など日常の道具。空間を引き締めているかまどの黒。見た途端、これはルオー流に描いたフェルメールであると思った。奥行きは遠近法のような技法ではない。奥行きが描けるかどうかは、心や魂の中心がどこにあるのか知っている信仰と関わることだ。レオナルドの奥行きの不思議さもそこから出ている。この絵はそのことを証ししているように思える。

ルオーのキリストは、人生という決して平坦ではない道を歩むすべての人の間近にいるインマニュエルの神である。数多くの路上のキリストを描いてルオーはさらに先へと歩む。その終局の表現は、神の愛のうちに「花」となった人の顔となる。豊かな色彩で花のように描かれた「アルルカン」、「ロサルバ」、「マドレーヌ」。人の顔は花瓶の花(「飾りの花」)とももはや区別がつかない。万物は照応しあい神への賛美を歌う。人も自然も神によって喜びのうちに創造された「花」である。神学や教義ではなく、感性の論理に基づいて彼が到達したところは、カソリシズムの教義とは疎遠な日本人にも奥底で響き合うもの。それは柳宗悦も繰り返しいうところ(参照「南無阿弥陀仏」)の、始まりの時からすべての人の心に宿り、万有に宿るひとつの神、愛の神であった。

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42回目の藤沢縄文野焼祭 一関市藤沢町 8/12~13

2017-08-18 10:26:51 | レビュー/感想
梅雨の季節が舞い戻ったようなあいにくの天候(その雨がこの記事を書いている18日の今もまだ続いている異常)で、開催できるのだろうか、中止になるのだろうか、初めから終わり近くまで危ぶみ続ける中で、今年の野焼祭は開催された。しかし、篠突く雨ならまだしも勢いを増した炎は少々の雨なぞ吹き飛ばすパワーを持っている。火災も炎が力を増すとちょっとやそっとの放水ぐらいではどうにもならないことを実感。江戸の火消しが今のような水道設備がなかったことにもよるが、もっぱら建物の解体屋だったわけが実感的によくわかる。
困難があると燃えるたちなのかいつもよりドーパミンがよく出て、雨に抗ってバタ材をくべ続け、炎に煽られるうちに忘我の状態に近くなっていく。作品を持ち込むことのない私(初期の頃はなんだか変なものを短時間に作って火に入れたが)だがこの非日常体験があるから、もっとじいさんになって体が動かなくなるまで参加したいと思っている。
今回は、この祭りについてちょっと批判めかしたことを述べるが、どうして大会役員やなんだかわからないけど毎年特別席のテントに陣取ったお歴々の方々は、自らこの祭りに参加しようとしないのだろう。作品を作れないにしても火に近づいてマキの一本でもくべたら、関わりの仕方ももっと心の籠ったものになるのにと思う。本筋は縄文にテーマを置いた火の祭りなのだから、いずこも同じの「村の習慣」はさておき、それとまず向き合って盛り上がる素朴な振る舞いがほしい。
そう思ってたら毎年作品を作って同道してくださるかつての職場の元上司が一言ビシッと言ってくれた。怒声に近くなった声質に「こういう時は怒ったふりをしないとな」と照れくさげに言う彼の言葉に「いやよく言ってくれました」と心の中で共感する。
翌日は6時過ぎに窯出しをした。雨は夜じゅう降り続いていたが、窯の中は乾いていた。最後は雨の力に打ち勝ったのだろう。大量に積み上げたバタ材もすっかり燃え尽きて灰となって降り積もっていた。残念ながら先輩の作品はさわるともろくも崩れ落ちて、付随する小物は別にして跡形もなくなっていたが。一方で長年参加している女流彫刻家K氏の作品はほぼ形成時の状態のままで焼きあがっていた。技術的なことを言えば、急ごしらえで板作りでつくったものとよく練り固めて紐作りで作ったものではこれだけ違う。しかし、ものの見事に壊れるのも良し。それが分かっている彼は、来年も一年がかりで作品を作って参加すると思う。

コレクション再発見東北の作家たち・速水御舟と人物画の名品 〜7/17 宮城県美術館

2017-07-12 10:21:35 | レビュー/感想
 この展示会のタイトルにもなっているところだが、どうして東北の作家はこんなにモダニズムが好きなのだろう、会場を回って一番最初に浮かんだのがそういう疑問だった。ネガティブな言い方をすれば、東北には、近世の京都や江戸のような分厚い文化的な遺産がないからと言えるかもしれない。そこが節操なく次々と時代の影響を受けて新しい流行に乗ってしまう、伊達というのが反語になるような、カッコ良さを気取る野暮ったさから抜けきれない理由かもしれない。良くも悪しくも坂口安吾が揶揄する伊達政宗の嫡子なのだ。しかし、そのモダニズムも東京のコピーで終わらずに、風土に沈潜して、近世以前の魂に結びつくとき極めて、オリジナリティの高いものになり得るかもしれない。私の中でそこまで行ってるなあと思わせる画家は、萬鉄五郎であり、杉村淳であり、宮城輝夫であり、村上善男であり、棟方志功であった。杉村淳の「春近き河岸」、いかに東北人として誇るべき画家であったかを物語る、ケレン味のない現代ではもはや見られなくなった骨格の確かな名品だと思う。この前に立つと現実の岸辺に佇むように五感が総動員される。

高山登の場合は、枕木の物質的力にバランスするアノニマスな内部的なパワーがないとできえない表現となっていた。物質とも交換経路を持つ日本的な魂に基づいた現代禅画が浮かび上がってくる。他に展示されていた現代美術についても言えるが、それらは海外では了解不能なのではないか。欧米現代美術の潮流や歴史に引き寄せて解釈することはまるで困難な、意外にもドメスチックななにかがある。高山登のこの質実剛健な禁欲性はむしろ曹洞宗の影響が強い東北の侍文化の流れかもしれないなどと思って、なんとなく腑に落ちている自分がいる。

ところで東北の風土を縄文の魂と単純に結びつけてしまうのは、躊躇するところもある。戦後間もなく岡本太郎が出会った具体的なモノに即した衝撃から離れて、縄文という言葉自体がコマーシャリズムの中で薄っぺらな手垢のついたイデオロギーになって一人歩きしてしまっているからだ。観光振興の道具ならそれでいい。しかし東北に住んで創作に携わる者であるならば、カテゴリー思考から離れて縄文とはなんだという疑問をいつまでも持ち続けている必要があるだろう。縄文という名の説明不能なヌミノーゼは、創作の持続的エネルギー足り得る。

最後に一階の展示場を覗いた。いつもの作品が並んでいると思ってざっと見るつもりが、すごい拾いものをした。速水御舟である。岡倉天心のイデオロギーの感化から生まれた優等生、菱田春草以来、明治以降意図的に作られた日本画には私は正直なじめない。綺麗だなあ、上手だなあと思うだけでそれ以上心の深いところには落ちない。それであまり熱心に見ないのが習い性になっていたのだが、速水御舟の未完の大作のコンテ(婦女群像下図)にまず「あれっ」と思った。久しぶりに向こうから心を動かすものがやってきた。和服を着た女性のデッサンなのだが、着物の下の肉体の存在感が一気にではなくじわじわ迫ってくる。これはわれわれが現実にモノを見て感じるときの感覚と同じだ。これは頭の中で作られた立体感を高度な技術で置き換えたようなものではない。不思議なのである。どうしてこんな風に描けるのかわからない。単なるコンテなのに確かに重量を持った女性が今ここにに存在している。掛け軸の「寒鳩寒雀」も驚きの一枚だった。表面は日本画の体裁であり材料だが、デューラーのリアリズムや中国の南画の本質を岸田劉生も羨む天才的力量で会得して、それ以前の日本画では見たことのない存在感の表現となっている。

故坂崎乙郎氏が確か速水御舟について書いてたという記憶があって、帰宅してから早速探して見た。氏の日本画論をまとめた「絵を読む」の中に取り上げられていた。私は、そこで語られる「炎舞」を描き神秘・象徴主義の画家としてポピュラーな御舟はあまり好まない。すなわち劉生の「美が多少概念的」になっているというひかえめな批評に同意したい。そういう理想に捉われない段階の、むしろ上記のような下図や小品のようなさりげない作品に、日本でもない西洋でもないリアリズムを天性の力量で実現した御舟の方が好きだ。しかし、「炎舞」を実際に見ずしてそう言えるのか。この作品は御舟の「ひまわり」(ゴッホ)ではないかという読みもある。昨年開催の「速水御舟記念特別展」は見逃したが、その作品の多くを収める山種美術館には機会があったらぜひ行って確かめてみたいものだ。(上のコンテは今回の御舟の展示品ではない。写真が撮れなかったので代わりに入れた。しかしそのデッサンの非凡さは感じていただけるだろう。)

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第4回とうほく陶芸家展(5月26日〜28日)開催に際して、そして東北最古の窯「相馬駒焼」の現在

2017-05-24 16:43:55 | レビュー/感想
昨年度は会場の駐車場が土砂に埋まり中止を余儀なくされた「とうほく陶芸家展」を再開することとなった。会場で配るパンフレットの冒頭にこの展示会の目的を述べたので、以下に再録しておこう。

4回目の展示会となりますが、震災からの復興支援の意味合いが強くあったこれまでとは開催の意味が微妙に違って来ています。端的に言えば、東北らしい陶芸の姿をどう残していくか、という点にウェイトを置いた展示会にこれまで以上にしていきたいと思います。マーケッテイングをベースに使い手のニーズに基づき頭でデザインするという一見スマートなやり方からは、同じようなテクスチャやかたちのものしか生まれないというのは巷に見るところです。そういう中で、東北の陶芸を他と差別化していくには、これまで受け継がれてきた伝統、東北の風土が育てた感性という2つのものを自覚的に出していく必要があるでしょう。その意味で、長い歴史を経て風土の感性を染み込ませ、多様な試みの集積を財産として持っている伝統窯と、東北の地でリアルタイムで使い手の反応を見ながら個性を磨いている個人窯が交流する場としての存在意義は大きいと思います。生活環境の東京化=ステレオタイプ化の中で、暮らしの変化にあるところでは合わせつつも、時代に流されず、「東北の魂、心はここにあり」といういのちあふれる器の魅力を、新鮮なものとして若い世代にもアピールしていければと願っています。

今回は会場のスペースの都合もあって、参加の窯は20窯に絞った。なかでも第1回以来ずっとご参加いただいていた相馬駒焼が今回は見られない。残念だが故15代の作品で買い求めやすいものは残り少なくなって貴重品ばかりとなった現状で、故15代の奥様に神経を使う出品を依頼するのは憚れた。
相馬駒焼の元禄の初期形態を残す窯については、県の文化財課の尽力で窯の保存処置がなされることが決まった由を前に書いたが、その結果窯を囲む立派な鞘堂ができた。ただし、あまり立派過ぎて、煙が内部に滞留してしまい、これで昔のように窯を焚くのは難しくなった。奥様の話では来年春には一般公開されるという。
かくして震災前まで稼働していた東北最古の相馬駒焼は文化財になってしまった。あとは窯のまわりに散らばっていた古い窯焚きの道具まで含めて、研究者や陶芸家の視点を入れた適切な保存を望むのみだ。
古い窯は使えなくても、いつか相馬駒焼に後継者が現れ再興される日が来ることを祈りたいが、その時はもはやかつての趣は再現できないかもしれない。大きな障害は土の問題。かつて代々陶土を採集してた場所は除染が進んでいない。それを見透かすかのように、太陽光発電の業者が土地使用を願い出てきたがそれは断った由、奥様から伺ったが、ここの土を使えないとしたら相馬駒焼を名乗ることができるか疑問だ。東北の伝統窯はいずれもその土地土地の土を使ってこそ意味があるからだ。この土の特性に縛られる中で他にないユニークな造形がなりたっていたからだ。これは今他地域から仕入れた土でかろうじてなりたっている大堀相馬焼が抱える問題でもある。再興の手助けは出来ないが、せめてその貴重な歴史を事実に即して残し、一般に知らしめる役割は微力ながらこれからも果たしていきたいと思う。

野中光正・村山耕二展  4/22-30  ギャラリー絵屋

2017-05-08 14:17:23 | レビュー/感想
新潟の町屋を再生した趣あるギャラリー「絵屋」での「野中光正・村山耕二展」。3年前初めて2人の展示会を「絵屋」代表の大倉宏さんに持ちかけた経緯もあって、私もラスト2日間会場に赴いた。今回も2人の作品が出会って心地よい協和音を奏でていた。
絵(木版を用いた混合技法)とガラスとジャンルは違うが、2人には似通った点がある。野中は、自らの創作に毎日午前中の同じ時間に始めその日のうちに終えるリズムを課している。それは日記を書くのと同じようなものだから、タイトル代わりにそっけなく日付が入っているのみだ。一方の村山の創作は、野中と違って物理的な制約に基づくものだが、炉から取り出した高熱で溶けたガラスが固まるまでの時間に限られている。
2人とも油絵や陶芸のようにかたちや色をいつまでも持て遊ぶことを避けた、あるいはできない中で創作を続けている。それは彼らの執着しない、まっすぐな性格にもあっているのだろう。そんな中でどこで手が止まるかは創作のもっとも深い秘密に属することであろう。2人とも頭で考え思いを膨らましながらではなく、手が勝手に動いてかたちができていく時があって、そういう時が気持ち良く自分が好きな作品ができていく時だと語っている。雑念を去って素の心が働く瞬間とでも言ったらよいのだろうか。
そういうとき、野中の作品であれば、もう一筆も加えられない感じで絵は絶妙なバランスで止まっているし、村山の作品であればこれ以上かたちを変えると崩れてしまいそうな繊細を極めたぎりぎりのところでかたちが止まっているように見える。止まっているというのは、そこで終わっている、ちんまりまとまっているということではない。それは次の瞬間には動き出すように生きているように止まっているのである。
そこはこの世界の向こうの美の領域の瀬戸際でもあるのだろうか。創り続けることに究極のモチベーションがあるとしたら、ヤコブの梯子のように突然降りてきた美(あるいは永遠)への階梯が垣間見られるこのめったにない瞬間を体験すること以外にはないように思う。天性の才能に加えて、当然この瞬間を呼び込むためには長い間の単調な技術的な修練も必要とされるのだろう。才能や修練の度合いでは到底及び難い単なる鑑賞者も、作品をただ見るだけで、この瞬間を盗み見ることできるとしたらなんとも幸いなことだ。
(この作品展は6/5〜18杜の未来舎ぎゃらりいでも開催予定。)

第80回河北美術展 4/27~5/9 仙台市藤崎デパート

2017-05-05 16:26:34 | レビュー/感想
地元新聞社主催で80年も続いている展覧会だが、自分の評価とはだいぶ違う結果でいつもがっかりするので、今年は行くまいかと思っていたのだが、友人から招待券をもらった手前、いそいそと出かけて行った。会場は例年どおりデパートの催事場をうねうねと仕切った壁に作品が目一杯飾られている。ゴールデンウィーク期間中ということもあって通路には人がいっぱいで、正直とても一点一点静かに鑑賞する雰囲気ではない。展示環境のせいだけでなく疲れを覚えるのは、河北展に限らずどの公募展も一般的にそうなのだが、ほとんどの作品が下心満載で人に見せる顔を最初から作ってしまっているからなのだろう。ちょっときつい言葉で言えばほとんどが「嘘つき」の絵で、だからその公募展は「嘘比べ」となってしまう。実際目を引くよう意図的に作った顔が独創的な表現だと評価されている現実が入選作を見るとあるようだ。最近個展で見て力量を評価していた彫刻家なぞも正攻法ではだめだと思ったのだろうか、へんちくりんな台座をつけて作品本体の魅力を台なしにしている。
その一方で、相変わらずこれぞ絵だと思われている一般受けする題材とタッチ、色彩で描いたような作品が並ぶ。よくある題材を選んでも本当にそれが心から好きなものであれば、他の人も魅了するものになったかもしれない。また、一般的な観念に流されずに対象を見続けていれば、リアリティとともに不思議さが滲み出てくるものになるはずだ。当たり前のことだが、アイデアや細工に長けていても嘘があるところに他の人を感動させる独創性や個性は生まれない、と思うのだが。さて、生活や人格もさっぱり伝わってこない絵を描き続ける意味とは何なのだろうか、そんなことまで考えさせられる。クレヨンでかたちもタッチもなく無茶苦茶に描いた絵が入賞していたのは、精神的空虚を示すアイロニカルな表現として選ばれたのだろうか。他にも新奇性だけで選ばれたのではと思うような作品が何点かあった。審査員は、それぞれ習熟したスタイルを持っている画家の方々であろうが、必ずしも作品を見る目と心を持っているとは言えないようだ。
唯一心に残った作品は、入賞も何もしていなかったのだが「光の道」という日本画であった。暗い沼の横を走っているコケに覆われた道が光に向けて走っている。日本画でありながらドイツロマン派の絵のテーストがある。確かに沼の水の表現などに稚拙なところはあるかもしれない。でも流行とは関係なく先人の絵や自然にまっすぐに向かい合って精進している作家を評価してやらなければ、このような地方の公募展の意味はどこにあるのだろう。