美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ルートヴィヒ・コレクション ピカソ展 続き

2015-11-14 19:06:34 | レビュー/感想
1960年代以降の晩年の作品は、美といってよいか分からないが、圧倒的なパワーと磁力を持っている。伝統的な絵画空間の革新者として脚光を浴びた時代の作品は、可視的世界を絵画空間に今までと違ったやり方で顕在化させるための、いわば認識論的な実証研究のようなもので、そのため従来の絵画様式を下敷きに、構築、脱構築を繰り返して、脳の神経細胞のネットワークをすべて使い尽くしていくような営為であったと思う。その意味でピカソは、対象を目が捉え、脳が分析総合し、手が応える営為を確実に、すばやく、独創的に行える能力と繊細な美的センスに誰よりもたけて、イーゼル絵画のフレームの中で、新ジャンルを次々創り出していく天才であった。しかし、それでは近代絵画の歴史にピカソをどう位置づけるかで終わってしまう。

もうひとつこれらの絵画上の営為を推し進めるためのモチベーションともなったであろう、生得的な血に由来するような流れが伏在する。アフリカ彫刻にインスパイアされて生まれたと言われる『アビニヨンの娘たち』にも噴出しそうになっている理性を超えるもの。これを造形的に整え、新スタイルとしていく「ゲルニカ」の時代が、おとなしく見えるくらい、この本能的な部分が隠しようもなく沸騰的に出てくるのが晩年の作品だ。かって青の時代に見られたセンチメントの片鱗もない、ピカソという人間の欲望そのままの世界。おおらかと言えばおおらか、残酷といえば残酷なエネルギーは、ある種の先住民族の世界や今注目されている知的障がい児の絵の世界とも通じる。この晩年の新たな領域は、この欲望を闘牛士のようにときに刺激し、ときにいなす中で切り拓かれていく、「あぶない」領域でもある。「ゲルニカ」をヒューマニステックな観点から称揚する視点があるが、ピカソが感応しているのは、正反対の思想にしろこの無慈悲な爆撃者と同質のものではないか。あのトレードマークの見開いた眼の表情に、独裁者ヒットラーの眼にあるものと似かよった狂気を感じる。

その時代の頂点を示しているのが、<アトリエにて>。あのかってのキュービズムの分析的な手法の蓄積的な成果が、ここでは本能に仕えている。脳の中に作り出されたリゾームが食指を伸ばし、それが自由に様々なプリズム世界を創り出していく、そしてその総合としての建築物のような世界。それがこのアトリエという狭い空間の中で展開されていったことの、生々しい格闘の痕跡。ところでそのプリズムのかけらのひとつに、岡本太郎を見つけたのはなんとも驚きだった。ある意味でピカソを崇拝していた岡本太郎だからピカソのコピーをしててもおかしくない。この小さなパーツを拡大し、無限ループ化したのではないか、とすら思える。しかも、ピカソのようには奥行きが感ぜられない、よって深みのない絵巻物風な世界を、ずっとオプテミステックに展開したもののように。

小林秀雄は、「近代絵画」のピカソ論の中でヴォリンガーの「抽象と感情移入」の話を唐突に入れる。しかし、ピカソの絵が抽象と言えるのかどうか、明確に指摘しないまま、最後はピカソの即物的な表現に近代の行き着くところを見る。このイーゼル絵画の廃墟から再び歩み出し、絵画の世界を甦らすひとつの道が、抽象の道であっただろう。しかし、エゴチストたるピカソは、そこには入れなかった。ここに入るのはピカソにないもの、信仰か、あるいはポエジーが必要なのだろう。人間の罪の世界を、自己の脳内でつぶやく人々を持って描き尽くしたドスエフトスキーが、新しい人間「アリョーシャ」を造形できないまま、「カラマーゾフ」の筆を置いたのと近似した結果に思える。

最晩年の作品にはピカソの本質がさらにあからさまに出ている。<銃士とアモール>は、遠くから見てステンドグラスの壮観のように見えた。一見、抽象の先駆的な表現と言われるギュスタブモローの下絵を思わせるのは、ここには近似した色彩や筆致と明らかに垂直の空間があるからであろう。しかし、それは無限へと突き抜けるものではなく、単なる縦の「奥行き」にすぎない。ピカソの女性遍歴はよく知られているところだ。その中で2人の女性を自殺に追い込んでいる。世間的な成功とは裏腹に、あるいはそれゆえかどうかは分からないが、ギャンブル狂で生活破綻者であったドスエフスキーと似かよった錯誤に満ちた生涯だ。ピカソは、この絵で「聖母子」の図像の意味を逆転させ、擁護者であるより抑圧者であった自己を無意識に示唆しているように見える。銃士=ドンジュアンとしてのピカソ、そしてアモールの矢は、幾多の女性たちを射て、ピカソの欲望と感情の生贄とした。旧来の美の破壊者は、人間関係においても破壊者の側面を持っていたと言えるかもしれない。

しかし、現実の肉体的な衰えは、精力的なミーノータウルス、ピカソにも無縁ではない。最晩年の「パイプを持っている男」は、仙の禅画を思わせるが、作品は自在の境地を表すものではないだろう。むしろ精緻さをまったく失ったゆるい筆致は、ピカソの能力の衰えを如実に物語るものではないか。最盛期の作品の劣化コピーのような作品群にさえマーケットは高額な値段をつけるようになった。このブランディングの大成功を見て、彼は幸せだったのだろうか。それらは蓄財の目的でもなければ(もちろん大金持ちならばだが)、あまり持っていたくない絵である。本人がそのことを誰よりも知っていたかもしれない。死ぬ2年前の自画像「帽子をかぶった男の胸像」では、これまで幾多の名作を生み出してきたトレードマークの眼は真っ黒に塗りつぶされている。その黒々とした空虚がとりわけ印象深かった。

写真 銃士とアモール

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
時折拝見しております (Fs)
2015-11-27 18:59:36
素敵なコメント、卓見、とても参考になります。
これからもご活躍を。
私は本当に素人ですが、美術展の感想を掲載しています。間違いや頓珍漢がありましたら教えていただければ嬉しいです。

1970~75迄仙台にいました。今でも年に1~2回は仙台に行きます。
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Unknown (くろねこ・おはぎ)
2016-02-21 17:43:42
初めまして。丁度今日本橋高島屋で開催しているルードヴィヒコレクションを観に行き、1960年代からの絵は私の理解を超えてしまっており、他の方の感想など見たいなと思い検索してたどり着きました。日記に刺激受けましたので、コメントさせていただきました。
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