昼下がりのコーヒー豆のあくび アーリーアフタヌーンコーヒー日記

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コーヒー豆屋のちょっとだけゆっくり流れる時間

理想の結婚

2024-10-30 08:11:36 | 日記
現在では禁忌ワードと化した「結婚なさらないのですか?」と口を滑らせたところ、「イケメンで性格良くて、何でも買ってくれて何でも言う事聞いてくれて、死ぬまでワタシだけを愛してくれる人が見つからないから、まだしない」そうで。

最初のワードを除けば、ドラえもんが脳裏を掠めたのですが、容姿、性格?財力を持ち合わせた方とだったら、ひょっとしてお互いwinwinの関係になるかも。最後の条件を除けば。

相手を自分に最大限奉仕させるよう使役する手段の1つは、徹底的に依存させること。それは巨大な「力」を持つことを意味します。
財、権力、暴力、ルックス、知識、甘言、情報、法、常識、規則、愛、友情、絆、宗教、麻薬等々・・・どれが有効かは相手によって変わりますが、金、暴力辺りは適用範囲が広いでしょう。

「私が悪いから、殴られても当然」。冷静時には何を馬鹿なと思うことが、思えなくなる。
現在継続中の人類史を振り返れば、今更言うまでもありませんけど。

ならば彼女の要求は、伴侶となる方の希望と合致するケースも意外に多いかと。前から某国がアフリカ諸国等にコツコツやってきた古典的手法。この国も似た様な事やってますが、こちらはどうも足元を見られがちで、投資の割に成果はあまり期待できそうもない、キャバクラにプレゼント持ってせっせと通う紳士面して悦に入る、実はカモにされているオヤジのイメージ・・・言い過ぎですね、失礼しました。

相手を刺さなきゃいいんですが・・・そんな度胸は無いか。閑話休題。

そして、用済みになったら捨てられる。依存しきっていれば、そこから抜け出すのはかなりの困難が伴います。
その辺りをご理解でしたら何の問題も無いですから、理想の結婚が叶うようお祈り申し上げます。



正弦(sin)

2024-10-29 07:38:27 | 日記
ビミョーな小雨に、傘を差すか差さないか躊躇していると、禅寺門前の柿たちが、当たり前の如く水滴を身に纏わせています。
門前の前の小僧・・・か。ちょっと尊敬した後、凡人は傘を差します。
「達磨は何故来たか」「庭の柏の樹ぢゃ」

地球平面説。米大統領選の話から陰謀論を経由して辿り着いた話。
否定証明として、水平線に船が消えゆく定番を思いつけば、ISS(国際宇宙ステーション)が、地球上に描く地図上の軌道が正弦であることが、地軸の傾きと、地球の球状、軌道の円形を示すとお客様。

地軸が傾いた地球を大きな紙で円柱状に覆い(正距円筒図法)、宇宙ステーションの軌道円周を真下の地図に描いて広げれば、あらs時(正弦)グラフ。へ~。そういや、火星なんか惑星もよく逆行とかしてました。こちらは公転系ですが。
空間認識力に難があるのを改めて実感。

あれ?宇宙ステーションからこの柿を眺めれば、ナ〇キのロゴを描いたように見える?
思いましたが、一寸めんどくさくなって、スルーすることにします。



唐獅子牡丹とベニスの商人

2024-10-28 08:25:19 | 日記
♪義理と人情を秤に掛けりゃ 義理が重たい男の世界
最近アニメ化された作品の影響で、若い方にも知名度が拡がったかもしれない「高倉健」さんの「唐獅子牡丹」。

立憲と国民民主党の推薦で無所属の静岡県知事が、応援演説に出張った神奈川2区、岡山1区、兵庫9区の自民党候補も当選したようです。
今更ですが「貸し借り」は現在までの政治の中で、大きな意味を持ち続けています。

一方、個人的に、契約主義に基づく構造的「論理」を重視するように感じる国民民主党が躍進しました。若い方を中心とする規則や法といった視覚化できる規律に準ずる今時の考え方に、比較的親和性があったのかもしれません。

逆風の中、議席減を余儀なくされた与党は、国民民主党に秋波を送るプランもあるようですが、「人情」を無視するのは共通項として、同じ理でも、「義理」と「論理」では結構違うよなあと。

まあ海千山千の政治家の方ですから、腹芸は必修科目、大した差ではないんでしょうけど。

いずれにせよ、1つだけ当選された政治家の方々にお伝えしたいのは、「進んで選んだ」訳ではない、消去法による選択だった国民が、おそらく大多数だったのかもしれないということ。

お気づきだとは思いますが、国民に承認されたという理由で、相変わらず無茶な法案通しを連発されるのは本当に迷惑ですから。
あ、物価上昇率の策定は、国会を通さないでいい増税手段であることも、国民は知っています。

選挙日の夜想曲

2024-10-27 08:02:15 | 日記

夜明け前の一面雲に覆われた空は、先の見通せないこの国のよう。低くクラリネットが聴こえます。
それでもよくよく目を凝らせば、やや薄い雲の向こうに僅かな星の明滅。

ホイッスラーのノクターン系を思わせるその様は、微かな希望の象徴か。

祭り
無投票は多数派に有利、つまり現状承認。白紙投票は総ての政党に対する不信任の意思表明ではありますが、現実的には自己満足の域を出ず、多数派承認と変わりません。悩ましい処ではありますが、僅かでも納得し得る部分を持つか、絶対承服できない部分があるか・・・そこを基準に、どれか記するほかないと思います。投票所に向かう足取りは、勇壮な3連符のリズムに乗って。

シレーヌ(セイレーン)
開票。期待と不安、そして歓喜と落胆は希望と後悔に・・・
既に始まる思惑の交差。裏約定はあるのでしょうが、さてどうなることか。

セイレーンの甘い歌声は、船を沈めるためのもの。

1901.10.27。ドビュッシー「夜想曲」初演。


野狐禅未満

2024-10-26 07:50:00 | 日記
「言葉にできない御仏の教えを顕す深遠さを持つのが禅。その果てなき深淵に対し、日夜真摯に取り組む求道者の一部にとって大切な『身心脱落』という言葉を、軽々しく使うのは如何なものか」というお𠮟りをいただきました。

修業は勿論、まともに学んだことも無く、素人でしかない僕には、凡そ思いもつかない深い意味があるのでしょう。お気に障られたのなら申し訳ございませんでした。師もいない勝手な解釈は危険な野狐禅、いや仏教さえよく解らない僕などは、それ未満であるのは間違いなく。

ただ、「釈迦も弥勒もそいつの僕(しもべ)に過ぎん!そいつとは誰か、言ってみろ!」

以前は、常に変化する全ての相互依存相互限定関係(意訳)である「空」であると考えていました。今でも真諦的にはそう答えるつもりですが、別側面、世俗諦的には、少しでも教えや伝説に触れたことのある全ての者、詰まり「僕」も含みます。僕というより道具ですが。

仏も菩薩も神も、その指導者や開祖も勿論、言うまでもない尊いものですから、崇め奉るのもいいでしょう。
但し仏教が実践の宗教であるなら、個々人自らが主となり、生きるための道具として、「教え」は従として使うものではないかと考えます。

よく引き合いに出す芥川の「蜘蛛の糸」からの、自分は自分でなければ救えないとか。

お金や権力、スマホ(情報)など、力あるものにはいつの間にか依存しがちで、気が付かぬうちに「使うものに使われる」主従関係の逆転が、頻繫に起こっているように見受けます。

僕が「いい道具」と思ってしまった不運を、笑って許していただければ幸いです。