ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

「得した感」の散髪屋さん

2008-02-09 22:22:18 | 
夕方になり会社から戻り、最寄の駅に着くと、外は小雨が降っていた。雪が降るとは聞いていたが雨かよ。傘も持ってなかったから、雨宿りもかねて駅前の散髪屋さんに行くことにした。いつも行くところが休みだったので、初めてのところに飛び込んだ。
店員は若い女の子ばかり。多少高そうだったが、たまにはいいか。
タオルやシートなどを首に巻くたびに、「きつくありませんか」「痛くないですか」とうざいくらいに聞かれた。そのたび「大丈夫です」と、答えるのさえ億劫になるほど。女性だと、心配りが細やかだ。のっけから洗髪をされ、カットに入る。その後も、ああだこうだと、本当に「親切」にされた。再び洗髪され、5~6分ほど毛が抜けるかと思うほどゴシゴシ頭を洗われ、「かゆいところはございませんか」とは、笑いそうになった。確かに摩擦が過ぎて、痛痒い感じもしないではなかったが・・。
マッサージも手でやるだけでなく、強烈な手持ちバイブレータまで取り出し、尾てい骨から首や頭まで、これまた念入りにされた。
こんな髪の毛を懇切丁寧に1時間ほど。しかも、4千円足らず。やす。
おまけに帰りにビニール傘まで貸してくれた。これって貰っていいんだろうか。

驚いたことに1時間足らずの間に外は雪となっていた。大粒のボタン雪が勢いよく降っていた。天気予報がやっぱり当たった。道路は既に真っ白になっていた。
「ありがとうございます」
「気をつけてお帰りください。またのお越しをお待ちしております」
外に出てきて雪の中、ずっと頭を下げていた。
次も、来るしかないな、と思った。

駅前には確かに床屋さんやビューティサロンが乱立している。競争が厳しいんだな。競争は、消費する側には低価格化やサービスの向上となってありがたいことだ。けれども会社の方は、本当に大変である。そうでもしないと生き残れないのだろう。その気持ちは実によくわかる。

北川景子風のお姉さんだったが、まさか、そういう人らを選別してそろえているわけでもなかろう。たまたま空いてた子がその子で、多少、美少女系だったということなのだろう。とても得した感があった。金銭で言えば1万円位までならオッケーだったかもね。

さて、それはそうと明日もまたマラソンが待っている。先週に続き、今週も雪中行軍の憂き目となるのだろうか。

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母親と子供の頃

2008-02-09 11:03:30 | 
僕の家系は複雑で、祖父母や父母の系図を理解したのはだいぶ後のことだった。
祖母は子供が出来ない性質だった。だから祖父母には子供がいない。養子に入ったのが現在の父だ。その父は、祖父の一番下の弟だった。祖父の兄弟は、10人もいて、祖父は兄弟の2番目か3番目だった。その事実が長らくわからなかった。

おばあちゃん(ここからはそう呼ぼう)だけは、僕とは何の血のつながりもない。
じいちゃんとばあちゃんは、その昔、結婚を反対され駆け落ちしたらしい。そして戦時中は、南方(パラオ)に赴任しじいちゃんは郵便局員をしていた。その地では結構、はいからな生活をしていたようで、特にばあちゃんは僕の田舎の町でも南方での生活の様式が抜けず、多少贅沢者のきらいがあった。
母は、同じ町の農家の家から嫁に来た。どちらかというと貧しい家柄で、当時の典型的な田舎娘であった。そんな、ばあちゃんと母は、文化的にも性格的にもしっくりいくはずがなかった。

そこに初めて僕が生まれた。子供のいないおばあちゃんは、それこそ目に入れても痛くないほど、僕を愛で可愛がった。母から、僕を取り上げて、離さなかった。
当時あった地元の映画館に僕を背負って通ったり、おばあちゃんの実家に連れて行ったり、日常的な買い物や、どこに行くにしても僕を離さない。チョコレートやバナナやカステラや、その頃に贅沢とされたお菓子を買ってきては食べさせてもらった。そして、おばあちゃんの苦労話やどんなに僕に期待しているか、どんなに僕のことが大好きかを、常に聞かされた覚えがある。逆に言うと、普通に母と子とで過ごした思い出が、僕には皆目ない。

子供の頃からそう、高校を卒業するくらいまで、僕は母のことを誤解していた。母は、とてもだらしなく、教育もろくに受けておらない、駄目な人間だと思っていた。というか、そう洗脳されていた。おばあちゃんは、僕の心や気持ちを自分に惹くため、母のことをよくは言わなかった。おばあちゃんが、こんなに苦労し僕を育てたのに、母は駄目な人間であることを、事あるごとに聞かされていたからだ。
いつもおばあちゃんのそばに置かれ、母のところに居たり、母と会話をした記憶の一切ない子供の頃の僕の環境からして、母の抗弁など聞く由もなかった。だから僕の母に対するイメージは、ずっと最悪の人だった。

父は、年のほとんどを出稼ぎに出ていて家にいなかった。農繁期である夏や秋の一時期だけ手伝いに戻ってくることがあった。母は、1時間くらいかかる地方都市の鮮魚の加工場に働きに行き、帰りはいつも夕方の7時とか8時であり、帰ってくると魚の生臭い匂いをさせていた。おじいちゃんは、毎日勤勉に田畑の手入れに勤しんでいた。うちの中にいるのはいつもおばあちゃんだけであり、花壇を手入れしたり、料理をしたり、豆を挽きコーヒーを入れたりと、優雅な生活をしていた。そして、僕や、後に生まれてきた妹、弟の面倒を見ていた。

役割分担だったのだろうから、だれがどうと今更、言うつもりはないし、現に僕はおばあちゃんにはとても感謝している。ただし、母に対する誤解は、とても申し訳なく思っている。母は、働き者であった。自分の初めての子供を取り上げられ、手元で可愛がることもできず、どんな思いだったろうと思う。しかも、あることないことを吹き込まれ、僕に悪態をつかれ、悔しい思いをしたことだろう。
母は学問もろくな教育も受けてはおらないけれど、心根はとても優しく人のふみ行わねばならぬことをしっかりわきまえている立派な人だと今は思っている。

おばあちゃんが、呆けたのは僕が大学で好き放題をしていたころ。2~3年闘病生活をして、自宅で寝込みご飯やお風呂の世話から下の世話まで、全部してたのは母親であった。もうほとんど人間としての意識もなくなっているおばあちゃんに対し、まるで赤ちゃんにでも接するがごとく、優しく大切に相対していた。過去のことは一切、語らず水に流し、最期まで面倒を見切ったのは誰あろう母であった。
そんな母親を、今はとても尊敬している。

母親も、おばあちゃんが亡くなった年をもうとうに過ぎている。遠い田舎でいまは親父と2人きりで過ごしている。まだ元気であるが、僕の帰りを切に願っている。
僕は、一番世話になったおばあちゃんの死に目にも会えず、ろくなお返しも出来ず、人としては仁も義も欠いている。また、同じことを繰り返しそうで、嫌になる。けれど、その時が来るまで、この状態が続く気がする。その中で僕はいったい父や母に何をしてあげられるのだろうか。放蕩息子である。

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