ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

純愛小説

2008-02-04 22:37:54 | 
「まあ政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まあ綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれったら、私ほんとうに野菊が好き」

「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」

「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」

「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」

 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。

「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」

「さあどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」

「それで政夫さんは野菊が好きだって……」

「僕大好きさ」

 民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事はその素振りで解る。ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。


伊藤左千夫「野菊の墓」の一場面である。こんな恋心に、いまさらながらあこがれる。人は、ないものねだりをするものだが、僕にはこんな気持ちを持てることが、ないものねだりなのだろう。
そしてこの恋の物語は、儚くも一途な民子の死でもって終焉を迎える。

「民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙(はる)けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。」


こんな「野菊の墓」を子供の頃に読んで泣いた人は多いと思う。忘れたが、僕もその一人だったかも知れない。
こんな気持ちを、大人になった今に至っても、みな持ちえていたなら、世の中はもう少し生きやすいだろう。
そんなメルヘンは、現実の世界にはもうない。現実世界とは・・・、。やめよう。

ベタな純愛小説の古典が読みたくなった。谷崎潤一郎の「春琴抄」これもある意味純愛小説であったか。

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