「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」――この一節は、太宰治が引用したヴェルレーヌの詩である。いかにも太宰が好みそうな言い回しにして、太宰の胸のうちをこれほど如実に表す言葉もなかろう。
上の写真は太宰の自画像である。この引用と妙に重なる自画像である。
長らく太宰治を、僕は封印してきた。太宰気取りで「恍惚と不安」などと自惚れるつもりもないが、妙に太宰の精神世界とシンクロする傾向が僕の中にあることを、若い頃から、僕は感じていた。
その行き着く先は、「玉川上水」か。そこまで深刻になるつもりもないけれど、自分の心の中の、人間であるが故の弱くて醜い根底へと、静かに堕ちていく居心地のよさに、溺れてしまいそうになる。
太宰は、大学時代に無産運動に嵌り挫折し作家になった。僕はまた、同じ地方の出自でもある。
太宰とは、遠い昔に訣別したつもりであった。
太宰の自画像が公開されたのは、つい最近のことらしい。太宰に限らず、多くの作家は自画像を残している。画家であれば、必ずといって良いほど。心の目で見た己の姿を絵筆で表現する。
そうした芸術家ではない普通の人々も、ポートレートで自らを写す。
自分を見ることは自分を確認する作業である。
どんな精神の巨人も、自分の存在の儚さや、移ろいやすさに対し、どれだけ対抗する術を持っているだろうか。
自分の顔、自分の手、自分の肉体という事実を、確認すること。みな生きるために生きている己を確認したいのである。
体を鍛えよう。隆々とした足腰、太い腕、逞しい体躯、引き締まった顔筋。身嗜みもさっぱりし、鏡に映った自分の姿に誇りを持とう。絵を描く才能もなく、写真の趣味もない僕にしてみれば、出来ることと言えばそんなこと。鏡に己の姿を確認するのが関の山。ナルシシズムかも知れないが、そんな要素は、生きるための方便として必要なのかも知れない。
しかし、鏡を見ると年年歳歳しわも深くなり頭髪には白髪が増え、肌の色艶も芳しくない。これで自画像描いたらいったい僕の顔はどう表現されるのだろう。
自分さえ支えきれずに右往左往している今の僕に、人の人生にどうこう言う資格はあるのだろうか。
無責任な助言など、ご都合主義もいいところだ。よかれと思い言う言葉も、本当に相手のことを考えての言葉か。
もっと人に責任を持てる顔に、僕はなりたい。
いい年こいて、依然、僕は半人前で青臭い学生みたいなことばかり言ってるね。(自嘲)
上の写真は太宰の自画像である。この引用と妙に重なる自画像である。
長らく太宰治を、僕は封印してきた。太宰気取りで「恍惚と不安」などと自惚れるつもりもないが、妙に太宰の精神世界とシンクロする傾向が僕の中にあることを、若い頃から、僕は感じていた。
その行き着く先は、「玉川上水」か。そこまで深刻になるつもりもないけれど、自分の心の中の、人間であるが故の弱くて醜い根底へと、静かに堕ちていく居心地のよさに、溺れてしまいそうになる。
太宰は、大学時代に無産運動に嵌り挫折し作家になった。僕はまた、同じ地方の出自でもある。
太宰とは、遠い昔に訣別したつもりであった。
太宰の自画像が公開されたのは、つい最近のことらしい。太宰に限らず、多くの作家は自画像を残している。画家であれば、必ずといって良いほど。心の目で見た己の姿を絵筆で表現する。
そうした芸術家ではない普通の人々も、ポートレートで自らを写す。
自分を見ることは自分を確認する作業である。
どんな精神の巨人も、自分の存在の儚さや、移ろいやすさに対し、どれだけ対抗する術を持っているだろうか。
自分の顔、自分の手、自分の肉体という事実を、確認すること。みな生きるために生きている己を確認したいのである。
体を鍛えよう。隆々とした足腰、太い腕、逞しい体躯、引き締まった顔筋。身嗜みもさっぱりし、鏡に映った自分の姿に誇りを持とう。絵を描く才能もなく、写真の趣味もない僕にしてみれば、出来ることと言えばそんなこと。鏡に己の姿を確認するのが関の山。ナルシシズムかも知れないが、そんな要素は、生きるための方便として必要なのかも知れない。
しかし、鏡を見ると年年歳歳しわも深くなり頭髪には白髪が増え、肌の色艶も芳しくない。これで自画像描いたらいったい僕の顔はどう表現されるのだろう。
自分さえ支えきれずに右往左往している今の僕に、人の人生にどうこう言う資格はあるのだろうか。
無責任な助言など、ご都合主義もいいところだ。よかれと思い言う言葉も、本当に相手のことを考えての言葉か。
もっと人に責任を持てる顔に、僕はなりたい。
いい年こいて、依然、僕は半人前で青臭い学生みたいなことばかり言ってるね。(自嘲)