ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

母からの電話

2008-07-20 21:50:03 | 
たいした地震ではありませんでしたが昨日、宮城県沖で地震がありました。
沿岸部には一時津波警報も出ていましたが、すぐ解除されたようです。

どうしているかなあ・・・と思っていた矢先、実家の母親から電話がかかってきました。

夕食をとったかの確認から始まり、米や野菜の有無の確認。
あと1週間もすればとうもろこしが仕上がるから送るという話。


「今年はお盆帰ってこないのか・・」

「もう父ちゃんも母ちゃんも何年生きられるかわかんないんだから・・・」


この辺は、本当に辛い話です。
仕事柄帰れないんです。どうしても、どうしても・・・・


ああぁぁ・・・、こんなことなら官公庁にでも勤めてりゃあ良かった。

祝祭日はきっちり休み、残業は所定の時間を越えず、有給休暇の消化を促され、
賃金はほぼ年功序列。個人の生活が最優先され、仕事は従でいい。
労働者や労働条件は、比較的強い労働組合が保証してくれます。
ボーナスや退職金もほぼ懸念はありません。

民間はそうはいきません。競争原理、効率主義、業績第一主義の中、
厳しい会社運営が迫られます。
幹部クラスは、会社のためにいろんなものを犠牲しないとそれらは達成できません。

例に漏れず僕もそんな「呪縛」にすっかり囚われてしまっているようです。


どうしたもんだろうか。ここ数年、お盆に実家に戻ったことはありません。
年末年始に数日戻るくらいです。
僕が年齢を重ねるように、父も母も同じく老いて行きます。
まだ両方とも元気ですが、いつ何があってもおかしくない年齢に差し掛かっています。

みんなそれじゃあいけないとわかっているのに、事が起こらないと何も始まらない日本の慣習。
生きてる内に何かしてあげないと、事が起こる前に何かしてあげられるシステムを作り上げないと。


 「ちゃんとご飯食べて、休みはちゃんと休んで、体きをつけてな・・・」



最近、42インチの液晶テレビを年金のローンで買ったと言っていた。
大画面でびっくりするほど映りがよく自慢げだった。


 「みせてやりたかったんだけど・・・」



すみません、親不孝の息子で。阿呆な人生を歩んできたばっかりに・・・


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銀杏とって以来~夏の東工大キャンパスへ

2008-07-20 14:28:46 | 
今日は、洗足から大岡山そして碑文谷あたりを1周してきました
目標は、大岡山の東京工業大学キャンパス。去年の秋以来です。
(昨年はビニール袋いっぱいに銀杏を戴いてきました)





洗足駅前まで走ってかなり暑さにバテバテでしたが、もうひとふん張りと、
一気に大岡山駅前まで。
駅ビルやその周辺が昨年からずっと工事中だったのですが、
今はすっかり完成し、駅前は広々としています。
また、駅ビルには「東急病院」が入り、すっかり模様替えしています
写真では良くわかりませんが、ビルの周りには植物が這わされています。




その目の前には東工大のキャンパスがあります。
春は満開の桜、秋は黄色い銀杏並木、そして夏は濃い緑に覆われます
キャンパスは人通りも少なく、閑散としておりましたが、サークル棟では、
Jazz研、ロック研など軽音楽系の学生が、ガンガン音を響かせていました。


そして「大岡山商店街」の入り口からの全貌です。



駅前から写した風景です。
この商店街も結構元気印で、お店はなかなか充実しています。
商店街もしばらく続きます。日常生活や一人暮らしでも全然困らない店揃い
入り口向かって左側の不二家さんも、長らくお休みしてましたが、復活し頑張っています。
覗いて見ましたがお客さんの戻りは芳しくない様子。
1度失った信頼の回復は時間がかかるんでしょうかね・・・・


それで、ここきたら必修の「清風堂」さんです。



このくそ暑い中、ここの「白玉金時」を戴くのを大きな楽しみに汗だくで走って来たのですから。
ここの小豆と白玉は本当に美味しいです。お餅も当然、美味しい。
お父さんお母さん二人でやっています。主に厨房はお母さんが担当、店頭はお父さん。
他にも、和菓子やお団子など、お土産にも品揃えが豊富なので、お近くの方いらっしゃればお奨めです




あまり美味しそうに撮れていませんがこれを戴きました。
外は猛暑で汗だくでしたが、冷たい氷と美味しい小豆&白玉に、心身ともに癒やされました 


碑文谷にある「すずめのお宿」とサルジオ教会を横目に、とことこジョギングしながら帰途につきました。
そうは言ってもやはり日差しが強いので、いつまでも炎天下に身を晒すのもいかがなものかと思い。

お勤めも果たしいまは多少睡魔に襲われながら気持ちよくこれを綴っております 

ちと、お昼寝をしようかな 


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荒行(かんかん照りでもマラソン・・・)

2008-07-20 10:01:07 | 
宗教家とは胡散臭い人たちの総称と思ってきました。
(いまもその気持ちはあまり変わりません)

宗教家、教祖、大僧正、教皇、聖人、、、


それぞれの集団の中では偉い人たちなんでしょう。
けど、どうしても胡散臭く感じます。
なぜなんでしょうか・・・


答えは簡単。僕に「信心」がないから。。。。


宗教は、多くの民を救うためにあるのでしょうか。それは政治の役割。
政治に宗教が関与するのは「政教分離」で日本国憲法で禁じられています。

それでは宗教とはいったい・・・


「宗教」という集団、実体を作るから本質が見えなくなるのではないでしょうか。
宗教家たらんとする人は、その信心の対象が何であれ、
人々に自身の生き様を見せることにより、人々に自省を促し、謙虚さ誠実さを思い起こさせる。
自分の行いの愚かさや、つまらなさに気づかせる。
そんな存在ではないだろうかと、僕なりに思っています。


集団になると商業主義に侵されるし、組織というのは必然、上下関係(ヒエラルキー)を生み出します。
そこに地位や名誉などという人間特有の欲が生じます。
宗教も例外ではありません。どんどん醜く変質していきます。


だから宗教を説く人、宗教を自認する人は、自分自らがやっていればいい。
己が体現しているだけで十分ではないかなと思います。
それなら僕にもできるかもしれません。


あらゆる物欲を捨てます。出世欲、金銭欲、色恋欲、性欲、贅沢欲、・・・
なかば捨ててるものも多いんですけれども。
そしてそうした欲にまみれた自分を戒めるために修行、荒行の日々。
自分を救う、それが他人を救うことにもつながります。
自分を律する(救う)こともできない人間が、他人を救うことなどできません。


などと、信心のかけらもない僕が語ることもまた、傲慢に過ぎません。


暑い日のマラソン。これも僕にとっては「荒行」のひとつなのかも・・・
(意識はしていませんが)

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