ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

三軒茶屋方面を走った

2008-04-20 20:08:57 | 
気分転換には、やはり運動がいい。先週は雨で出来なかったマラソンを今日は再開。
区長選挙の日だったので、適当に一票入れた後、さてどっち行くか。
迷いつつも、なにげに足が三軒茶屋方面に向かった。

三軒茶屋は、とてもにぎやかで活気のある街だ。田園都市線で、渋谷もすぐ近く。
キャロットタワーは遠くからもよく見えて、ここの象徴となっている。

ご興味ある方は、 「三軒茶屋どっと混む!」をご覧になってください。
この街は時節ごとにいろんな地域行事を行っている。特に秋に行われる大道芸の企画は、この辺一帯が、“小芸”と“アート”一色となる。これは一見の価値ありです。
ただ10月なのでまだずっと先です。
( 「三茶de大道芸」 参照 )



本来なら多少この辺で油を売るのだが、今日は三茶の町内をぐるり大きく一周するにとどまり、通り過ぎるだけでした。

昭和女子大では、ファイナンシャル関係のセミナーの看板が立っていた。
そういやあ新聞かなんかで見た覚えがあった。
三宿通りに進路を変えて、あとはまっしぐら。
かつてキムタクが「カオリン」なる女性と深夜よく通っていたというレストランがあったりする。
一説によると、キムタクは下馬-青葉台 三宿-下馬-東山-上目黒に生息、よく三宿通りで見かけるというが、見たためしは無い。
この通りのお店は、何かと通好みのよう。
世田谷公園は、5月も近いのか公園の池の上に20体を超える「鯉のぼり」が一足先につるされていた。子供たちで賑っていた。

「くじら軒」で今日は塩ラーメンを食べた。ここのラーメンは美味い。


マラソンをして気持ちも体もすっきりした。
ここのところ僕を襲っている「無気力感」「けだるさ」「知的堕落」「虚無」、
・・・そんな一連の感覚から、未だに脱却できていない。
自分の存在の確かさを、どこかで感じ取ることが必要だ。

虚無のブラックホールほど危険なものは無い。

何度も何度も僕は、こうした内なる心の闇と闘って来たつもりだし、乗り越えてもきたのだが、忘れた頃にゾンビのようにもくもくと復活してきやがる。

誰も助けてくれやしない。自分で克服するのみ。自分しかいない。

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母の日がやってくる

2008-04-20 10:03:14 | 
毎年かかさずに母の日にはプレゼントを贈っている。もう20年ほどになる。
小物の類から、観葉植物、健康食品、そのたびごとに、今年はどうするかと悩んできた。
最近は、ネタも尽きて、あっさり現金を送っている。
好きなものを買ってもらったり、父と旅行に行くとか自由に使えるので、それはそれで助かっているようだ。
全て「金で解決する」という風潮に、侵されてしまっているのかな。
誰かのために苦労すること、思いを何らかの形で伝えること。お金もその一形態だろうが実に侘しい限りだ。
と、思いながら今年も結局、お金になりそうな感じがする。

「かあさんの歌」もうあまり歌われることもなくなっているんだろう。
日本でこんな風景はもうない。僕たちの心象風景にとどまるのみ。
炊事をする母が、あかぎれのため、患部に生味噌をすり込み痛みを抑える。
日本に、そんな時代も確かにあったのだ。


かあさんが 夜なべをして
手ぶくろ 編んでくれた
こがらし吹いちゃ つめたかろうて
せっせと編んだだよ
ふるさとのたよりはとどく
いろりのにおいがした

かあさんは 麻糸つむぐ
一日 つむぐ
おとうは土間で わら打ち仕事
おまえもがんばれよ
ふるさとの冬はさみしい
せめて ラジオ聞かせたい

かあさんの あかぎれ痛い
生味噌をすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞える
なつかしさがしみとおる


母の日は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。
日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。
例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧では5月の最後の日曜日に当たる。

イギリスにおける起源は17世紀の「Mother's day」「Mothering Sunday」(奉公中の子ども達が年に一度、教会で母親と面会出来る、復活祭のちょうど40日前の日曜日)にまで遡る。

アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。
ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。

ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。
ジャービスの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年の5月10日には同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった赤いカーネーションを手渡した。このことから、赤いカーネーションが母の日のシンボルとなった。
アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2日曜日と定められた。

日本では、昭和時代に皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)に行われていたが、1949年ごろからアメリカの例に倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。

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