ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

資本の運動に踊らされる僕たち

2008-04-18 21:48:44 | 
今の僕たちは、資本主義の競争主義に踊らされているのだろうか。
本来の人間の幸せの要素のいくつかを、アングロサクソン的市場原理主義は、
大いに煽り、誇大化し、人間を支配し始める。支配され、その歯車の上で踊り始めると、そこから脱却するのは容易なことではない。
今、僕はその歯車の中で踊り、知らず知らずのうちに、何者かに支配され、半ば身動きが取れなくなっているようだ。
かつての「反逆の闘士」が、なんというざまだ。

■そこそこ健康な体
■そこそこの健全な精神
■ほどほどの自由な時間
■ほどほどのお金
■いくばくかの権利
■いくばくかの義務
■多少の欲望の充足
■多少の睡眠の充足


こんなことが満たされるなら僕は多分幸せを感じるだろう。
しかるに、かの「競争原理」は、「金」「権利」「欲望」を極端に煽り、
他の要素を飲みつくすようである。

正常な人間を「金の亡者」「権力欲の亡者」、総じて「欲望の亡者」と化す。
僕は、必ずしもこれに当たるとは思わないが、少なくともこれらを煽る世界の中で、「健康」と「精神」と「時間」と「睡眠」を喪失しつつあるように感じる。
お金が要らない、権力が要らない、欲望も要らないといえば嘘になる。
けれどもそれらは、バランスよくほどほどに、いくばくかあればよいのである。

金に狩られ、権力欲に狩られ、欲望に狩られ、自分以外の人間を蹴落としていく世界に、人間として互いに正常な関係性を保ち、共存共栄するなどという思想はまったくもって馴染まない。
金力、権力を持つものが語る「共生」は、暴君が善良な市民を支配下に置くための奴隷化としての「共生」に過ぎない。

よく思う。多くの友を失い、家族さえよそよそしくなり、その暁に得たお金と地位と権力とに、僕は満足して死ねるのだろうかと。
「ああ、いい人生だった」と死に際に心から言えるだろうかと。
多分、虚しく過ぎた時間を惜しみ、健康だったらまだ続いた人生に悲嘆し、離れていった愛しい人への悔悟の念に苛まれるのだろう。

僕は、いつまでいまの僕を演じていればよいのだろうか。

この喜劇にも似た舞台を降りる場面を、僕は想像する。

大病により。
精神の変調により。
義務を犯すことにより(犯罪)。

いつかは、いつかはと思いながら、また明日が来る始末である。

僕は、この苦しさゆえに、なにか災厄が僕の身に降りかかることを望まないでもない。

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