ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

ミンナニデクノボウトイワレ

2008-04-19 22:18:06 | 
結局、自分以外の人間をどれだけ信頼・信用できるのだろうか。
自分以外の人間と言えば、親兄弟から始まって、女、友人、会社の同僚、地域社会の人々。
そう、自分以外の全て。
その誰とも僕は、なれ代われないし、僕に誰もなり代わってはくれない。
そういう意味では、僕は人間を、信頼・信用していないのかも知れない。
けれども、自分も含めて、それが人間なのだと、なかば諦めの境地でそれらを見れば、なぜか不憫で、見捨ててもおけない。
何か自分が高みに立ったような、傲慢な感じもするけれど、かなり今の僕の気持ちに近いからしょうがない。
高踏主義に依拠しているものでは決して無い。
ただ、悲しい人間と言う存在のサガに、諦めを感じる。
こんな僕には、もうあまり生きる積極的な意味など無いようにも思う。
かといって、消滅すべき理由も無い。
その微妙なバランスの上で、僕はぬくぬくと生をまっとうしているのだろう。

人のため、世の中のために生きろ。
自分の残りの人生を、社会のために意味あるものにせよ。
頭を丸め、坊主懺悔するとか、イエスキリストの御心におすがりするか。
それで僕の心が救われたらいいのか。
人間と言うものへの期待がいくばくかでも僕のうちにあれば、そうでもしよう。

最近、人間に何か期待できるものがあるのかと、猜疑に狩られる僕であるなら、どうも救済の術がなさそうである。

いっそ誰かと失楽園でもするとか・・・・。
そんな、同じ境地に至る相手も見つからず、
僕は、ただこのぬるい日常を、自己嫌悪と猜疑心に包まれながら、
見せ掛けの笑顔と愛想を他に振りまきつつ、
ただこの醜悪な生を、浪費するだけなのだろう。

そう、僕は単なる「デクノボウ」としていき続ければよいさ。
宮沢賢治の「デクノボウ」にも似てね。


東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ


にほんブログ村 本ブログへ