静岡本要寺の門祖会 桜が満開

2009年04月06日 | Weblog
今日は静岡本要寺で門祖会がつとまりました。併せて今日は、本要寺中興の中野日裕上人の第37回忌がつとめられました。奉修導師は講尊・梶本日裔上人。天気は心配されましたが、晴天のうちに無事奉修されました。
御法門の御教歌は、
楽しみは さかぬ間にあり 桜花 さけばちるてふ をしさかなしさ
で、「本果妙より本因妙が御すきと存じ奉り候」という御題が付けられている御教歌です。
昔に比べれば現在の状況はあらゆる意味で恵まれています。しかし、ぬるま湯にドップリつからずに、さらなる精進をさせていただくことが大切とお諭しいただきました。
さて、中野日裕上人ですが、非常にユーモアがあり、また、峻厳な方でもあり、昭和40年代の宗門をリードされた方です。宗務総長としてのご奉公もなさった方で、行学兼備のすばらしい御導師でした。私の師匠であり父でもある遠妙寺先住、日玄上人が昭和45年に宗務総長に選ばれて就任の際、請われて教育院長に就任して宗務総局を支えられた方です。
大本山宥清寺において、日蓮聖人のご降誕750年慶讃大法要が昭和48年4月に執行されることになり、その日まで、大法要の執行監部としてご奉公を連日続けられていました。そのお疲れがあったことも一因かと思われますが、大法要の初日、先住、日玄上人といっしょに朝ご飯を頂かれ、本山に出仕なさいました。その直後、倒れられて、そのままご遷化となり還らぬ人となられました。誠に惜しい限りで、もっともっと生きながらえ、宗門をリードして頂きたかったのですが、一方では、不惜身命を地でいかれたということもできます。
役者が舞台で死ぬのを本望としていたように、佛立教務はご奉公の中で死ぬのが本望だといわれています。死をもいとわず、ひたすら精進して、広宣流布の大願を成就しようとなさった中野日裕上人のお話は、佛立教務の手本として宗門人の間で永遠に語られることでしょう。
片腕を失い、若い頃からの刎頸の友を失った先住、日玄上人は、その後も半年間、宗務総長の激務を続け全うされましたが、日裕上人を失ってから見るからに肩を落とし、やつれてしまいました。傍目にも気の毒なくらい落ち込んでおられました。本当に友情で結ばれていた同志なんだなぁと、私はそのとき、思いました。
今は、時代も遷り変わり、二十八歳で本要寺住職を継承された当時の中野信師(現在の日崇導師)は、本要寺の本寺、東京光隆寺住職となられ、本要寺住職は嗣子、中野声栄師が昨年に就任。その弟さんの声信師もいっしょに頑張っています。寂光浄土からさぞかし、中野日裕上人はお孫さんたちの活躍を照覧なさっていることでしょう。
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