KYなどKSだ

2009年01月31日 | Weblog
KYなど気にするな!
というのがKYなどKSだという意味です。
KYについては、最近は漢字読めないというのが中心になってきたようです。
KYはいくらでも、当てはめられますネ。
給料安い。
計算弱い。
経営者がやめよ。
首切りよせ。
けったいやなー。
元祖は、「空気読めない」でしょうけれど、最近のようすを見ると、読めない方が良いようです。
ものが売れそうにないという空気をいち早く読んで、経営者は経営を縮小しようとして、減産態勢に入り、非正規社員を解雇(雇用どめ?)、工場を閉鎖して会社とわが身の安全を確保しようとします。
それを見て、空気を読んで、他の業種の会社も同じようにします。
かくして、不況スパイラルとなっていくというわけです。
「いじめ」なども学校で、職場であるようですが、やはり空気を読めないという人が格好の標的となるようです。
空気の読める人は、何人かが一人の人をいじめると、それに追随してしまいます。誰かが声を上げて、「やめろ」と言えばよいのですが、空気が読めるだけにそれができず、ついに犠牲者が出るという図式です。
もし、日蓮聖人が周囲の空気を読んで、本当は法華経こそ真実の教えであると主張するのをやめられてしまったら、上行所伝の御題目のご信心は弘まることはありませんでした。
もう、これから歴史的な不況になるから、ご信心も控えめにしておこうなどというような空気の読み方はK(今日限り)Y(よそうよ)。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒修行・信仰体験談を毎日発表

2009年01月30日 | Weblog
今日で、寒修行参詣も25日目。あと5日間を残すのみとなりました。
この数年、遠妙寺では毎朝二回の御法門(法話)の前に、ご信者のナマの体験談を話していただいています。一回は、前日か前々日に発表された分をビデオで、もう一回は、本人か代理の人が直接、お話しします。
正直言って、最初の年は寒修行参詣は30日間、夏期参詣は3週間、続くかなと心配しました。ところが、今まで一日も途切れることなく、続いています。
現証の 利益で信を 起させて 未来を救ふ 祖師の御本意
という御教歌のとおり、現証利益というものがあるからこそ信心が起こり、その積み重ねによって、ご信心が固まり、これほどあらたかな御本尊様ならきっと、臨終の夕べには、寂光浄土に参詣できる、つまり尊い「み仏」のおられる所に行くことができ、成仏できると確信するに至るのです。
印象に残っている体験談ですが、塚本さんという女性青年会員です。この方は、お母さんの後押しによって入信されて、あまり日が経っていません。昨年、バセドー氏病になりましたが、毎日、何リットルも御供水(おこうずい、おこうすい。御本尊の前にお供えして、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経と心を込めてお唱えしたお水で、不思議なお計らいを頂く)をいただき、一所懸命に御題目をお唱えしているうち、病気が急に良くなり、薬を減らし、そのうち飲まなくなりました。そして、検査を受けますと、信じられないくらい数値が下がり、もう、半年に一度の検査で良いと医師に言われたそうです。この病気は急には治らず、年単位で推移し、ずっと治療に専念してこそ快方に向かうというのに、不思議なご利益を頂きました。一途に素直に、御法門で教わったとおりのご信心に徹したお陰でしょう。
その他、「毎月、御講席を奉修して頂くようになって念願の赤ちゃんを妊娠、そして妊娠中に手術を受けたにもかかわらず無事安産したご利益」、「駐車場の係員をしていたとき、あわや高価な外車を盗まれそうになったのにエンジンが偶然かからず盗難を免れた体験」、「よく教化ができる西巻さんの姿を見て」という本扇教区の部長の話など・・・驚いたり、感心したり、とにかくそれぞれ、不思議な体験談を話してくださっています。
ただ、これらの話が、ただ「良かった、良かった」という所で終わらず、このような体験をして、また、こういう話を聞いてみずからの信心増進、信心改良につなげなくてはモッタイナイ話です。
遠妙寺のご信者は、というより佛立信者は、とにかくビックリするご利益を頂いていながら、自分の所で止めてしまっている方が多いのです。
感動、感激、感謝、これを人にありのまま、語ることがせめてもの御法様に対するご恩返しなのだと知って、寒中教化に走ってほしいですね。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こだわる人、こだわらない人

2009年01月28日 | Weblog
こだわりというのは、何かに対してしつこく追求する事で、いい意味でこだわりを持った人の方が「よく分かっている人」であると暗に高く評価されることがあります。
私は筆記具などが好きで、買うことも多く、たくさん持っていますが、あまり碌なものはありません。でも、もらい物で結構いいものもあります。モンブランやペリカンなど。しかし、書きやすければ何でも良いという所がありますので、ふだんは御会式の記念品として頂いたシャープペンシル付き4色ボールペンを愛用しています。
メガネのフレームなど、勧められて無理して、外国製のローデンストックとか何とかを買ってしまったことがありましたが、どうもあわないのです。そこで、今は眼鏡市場で求めた18900円のヤツがかけやすく専ら愛用しています。
こだわらない方が、やっぱり、実際に生活する上では楽なような気がします。でも、自分ではこだわらなくても、誰かが「これはどこどこの○○なんだ」などと、目の前で見せられたりすると、「ふーん」などと言ってチラッと見て、そのメーカーなど前から知っていたような顔をしたくなります。
ものに対するこだわりはともかく、では、学問とか研究に対するこだわりなどについては、いかがでしょうか。
これは、ある程度なければ、学問とか研究など成り立たないのではないでしょうか。
チョットした疑問や、引っかかった事などをないがしろにしないで、徹底的に調べてみるということが学問、研究だと言っても過言ではありません。
ところが、そういうこだわりを持っている人は今や、少なくなりました。
私も先生稼業をやって、わりと長いのですが、学生のレポートや論文でも、自分が知りたいこと、疑問に思っていることを解決しようとして、勉強して提出する人はホンの一部です。中には、疑問に思うこともない人や、テーマが見つからない人も、おざなりのテーマでお茶を濁す人もあります。
モノによってはこだわってほしいだけどなぁという感じです。
こだわりすぎると、パラノイアとか言われたり、変質者扱いされたりすることもあります。確かに、誰でもあまり難しい話をしたり、しかめつらして議論している姿を見るより、屈託のない笑顔を見ている方が癒されるでしょう。
でも、何かに一所懸命になって、こだわっていくことも、ある意味必要だと思いますが、どうでしょうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

願わくはつかいたまわれ

2009年01月25日 | Weblog
寒修行も今日で20日目になりました。
1月25日、日曜日の御法門は
【御題】一切○(法華経に)其身を任せて
願くは つかひ給はれ 奉公を するなんどいふ 身分ではなし
という御教歌でした。
今日は、板橋扇教寺との交流参詣で、事務局長はじめ5名の方におまいりいただきました。
私たちは、罪障が深く至らない人間で、仏様や菩薩のように徳が高い方とちがって、まったく徳が身についていません。ですから、法の為、み仏のため、お寺のため、教区や部のために奉仕ご奉公をさせていただくことにより修行となり、徳が身につきます。また、人のため、社会のために無償の精神で尽くす事によって人間が磨かれるのです。
ですから、人の嫌がることを進んで引き受け、よろこんでご奉公させていただくことが大事だということです。
この御教歌は、佛立第16世講有、小山日幹上人が座右の銘とされていた御教歌で、お寺の会議などが始まるときに必ず皆で唱和されていたとのことです。
とかく、会議などで話し合いをしていますと、ご奉公とは私たち徳が薄い者の修行となり、罪障を消滅してお計らいを頂く絶好のチャンスだということを忘れて、手間のかかることを押しつけあう事さえでてきます。
そこで、ご奉公は喜んで「させていただくべきもの」ということを思い起こすために拝読なさっていたのでしょう。私たち遠妙寺でも、皆、それに見習って、常にこの御教歌を会議開始の時に拝読しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信心の 奥ある人

2009年01月24日 | Weblog
開導日扇聖人は
信心の 奥ある人は 何となく
浅きなじみも むつまじき哉
と教えの歌をよまれています。
信心の奥とは、何でしょうか。
奥と言えば、奥行きとか、深みとかいうことでしょう。
その反対が浅々とした信心で、簡単に信じて簡単にその信を捨ててしまうというような軽々しい信仰心を指すのでしょう。
本当に奥が深い、長年の間に信心修行を実践して、さまざまな体験をしてきたような方には、自然に菩薩としての徳が身について、欲がなく、いばることもなく、誇ることも、人を見下すことも、怠ることもないということだと思います。
そんな人間に、私もなりたいと思います。しかし、現実には、つまらないことに腹を立てたり、欲にかられたりします。
誰でも煩悩がありますから、完全に菩薩としての徳を身に付けることは難しいかも知れませんが、中には本当に一緒にいるだけで、その人を見ているだけで心休まる方もおられます。
広島佛立寺の事務局長として活躍された下石さんは、すでに故人ですが、ご子息が遠妙寺に在籍していますので、たびたびお目にかかりました。大変、りっぱなご信心前で、ある時などは、他の方をお教化され、その方のお世話をするため、自分自身は前夜、病気で体調を崩していたというより、吐血をしていたのにもかかわらず、お寺に参詣されてその方のお世話をされたというようなエピソードの持ち主です。
その奥さん・・・つまり本行教区長の下石さんのお母さんに今日、御講でお会いしました。この方は、婦人会長としてご奉公された方ですが、やはりお会いするとホノボノします。周囲をやさしく包み込むような、何となく暖かみを感じるような方です。今まで、何人もの方を教化され、世話をされてきましたが、相手の方がむしろお教化されたくて待っているようなケースが多いようです。
「法は人(にん)によって弘まる」と申しますが、心を込めて御題目口唱をする日々を送り、また、常に周囲の人をこのご信心でお救いしたいという気持ちでいることにより、自然にそういう佛立宗の信者らしい宗風を身に付けたご信者となれるのではないかと思いました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の御指南

2009年01月23日 | Weblog
今日の寒修行参詣(18日目)の御指南(開導日扇聖人のお言葉)

一寸先の闇の夜の凡夫。かしこげなる「おももち」すれども、一天の晴雨、人間の生死、都て(すべて)自力の及ばぬことのみ。我を捨(て)て信を取(る)を智人と申(す)也。

一分一秒先が、まるで闇の中のように分からないのが私たち凡夫です。
皆、自分には判断力や先を見通す力があって、賢者のような顔をしているけれども、天気が実際はどのように変わっていくか、専門家でもあまり、的確に予報することはできません。また、人間の生死でも予測ができないもので、元気な人が突然亡くなったりして、うろたえることがよくあります。
人間の力、自力には限界があります。自分なりの考えによって行動すれば、それが一番確かで間違いない。仏の教えなど聞く必要もない。あるいは、自分が努力さえすれば何事も成功するのだから、何も信心信仰に頼る必要性はないなどという自己に対する過信、自力信仰を捨てて、み仏の本当の教え、法華経本門八品に示された南無妙法蓮華経の信心をさせていただく人を真実の智者というのです。

と現代文に翻訳してみました。
昨年のリーマンブラザーズの破綻から、にわかに金融危機が拡大して今、深刻な影響が出ています。しかし、このような事態を前もって予見したり、あてた人は殆ど皆無ともいえましょう。前から分かっていたという人もありましょうが、たいてい、少しその可能性を指摘した程度であって、深刻には考えていなかったのです。それを、後になって前々から分かっていたように言っているに過ぎません。
株式市場も大幅に下落しましたが、専門家でも予想しなかった下落幅です。
何事も人間の過去の経験から得られた知識によって、現状を分析して、未来を予測するという手法が用いられ、それを科学的で信頼できるとしていますが、予想したとおりに果たして、なっているでしょうか。
自分自身の未来もわかりませんし、誰も運命のコントロールなどできません。
もちろん、将来の理想にむかって努力することは大事で、努力なくして成功はありません。人間として精一杯の努力をすることは、当然のことで、それは生きていく上でもっとも大切なことです。しかし、努力さえすれば誰でも100%成功し、人生は思い通りになるかと言えば、残念ながら答はノーです。
人生には常に不確定な要素があり、予想もしなかった事態が起きて、計画が崩れ去ることはよくあることです。
いい加減に自己に対する過信、自力信仰を捨てて、もっと謙虚になる必要がありそうです。
ダメだと思っていたのがダメでなくなる。崖っぷちまで追い詰められていたのが、生き延びて助かるのが上行所伝の御題目のご信心です。
真実の智者とはどのような人か、よくよく考えましょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州熊本も寒いですね。

2009年01月22日 | Weblog
私は京都に20日昼過ぎまでいて、夕方に熊本空港に着きました。
熊本は盆地だそうで、京都に負けず劣らず、寒さを感じました。夏はもちろん暑く、冬は寒く、そういう環境でも熊本のご信者は熱心にお参りされ、随喜します。
そして、21日は長薫寺において草創の祖といわれる高須日薫上人のご内室として内助の功を尽くされた本法院様(高須妙子様)の三十三回忌がいとなまれました。
もう七〇年以上前、私の父が小倉不軽寺でご奉公させていただいていた頃、まだ、本法院様は少女でしたが、お人形をもらったと語っておられました。
私も得度してすでに四十年になりますが、その得度式の折、お祝いに二人のお嬢さん(当時)とともに来ていただき、今もって感謝しています。
お寺の奥さんは、ご信者にも教務方にとっても母のような存在ですから、単なる主婦ではなく今も昔も大変です。ご信者や教務方、寺族の相談に乗ったり、ご信心のことではお折伏をしたり、励ましたり、それだけでなく色々なご奉公があります。
長薫寺は昔、寺族が二百名近くもいたという話を聞きました。今は何人くらい長薫寺に住んでおられるのか分かりませんが、四、五人の家族でも衣と食と住を確保するだけでもなかなか頭を悩まします。それが百人を超す人たちが、同じ場所に住んで、団体生活をすると、いろいろな問題も発生するでしょうし、住職夫人として皆のお世話をするには気苦労も多いでしょう。教務さんといっても中学生くらいから入寺する人が多かったでしょうし、そういう人をわが子として育てて弘通の器とする、一人前のお教務さんとして育てるには我が子以上に気を遣われたことでしょう。
日薫上人は信仰を共にする、気心が知れた人同士が共同生活を営む一種の理想郷を熊本に築かれたのですが、現実の問題はつきまとうということですね。
ともかく、その一生を御法に捧げ尽くされた本法院様のご生涯は美しくみごとなものでした。謹んで、寂光浄土で日薫上人とともに安らかにと、ご冥福を祈らせていただきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足場ができていました。 本山宥清寺

2009年01月19日 | Weblog
今日は、宗務本庁でわが教務局の本年初の会議が開催されました。
教務局にはいろんな所管事項があり、本門佛立宗の各寺院で行われている寒修行参詣のとき、参詣者に説かせていただく『御法門』(法話)の参考資料として『御法門集』を編集しています。
今年は『信行用語』の解説が行われ、御法門の時に使用される難しい言葉、信心修行に関する用語、仏教用語などの解説を目的として説かれています。
用語を解説するのに、もっと難しい言葉がでてきてしまい、よけいに分からなくなるのではないかと心配しています。全国の教務方がやさしく、解きほぐして解説していただくことを期待しています。
本山はいま、大屋根の瓦葺き替えの工事にとりかかりました。
工期一年の予定ですが、いま、足場を作り、大屋根の上に屋根をかけているところです。
それにしても本門佛立宗はまじめですね。瓦工事でも予算を決めるのも、何社にも声をかけて見積もりを取り、業者を選定し、宗会の承認を取り予算を決めて、全国にその費用として浄財を勧募します。その上で、できるだけ無駄がないよう見直しをしながら、工事にかかります。すべてクリーンなやり方で、まったく公明正大な方式です。もっとも私も現在の宗務本庁にいますので、内輪の人間といえばそうなんですが、実際の話です。宗務総長、佐藤日凰導師のもとで特別局(局長は長谷川日堯導師)が中心となってすすめています。
その特別局の中でも中心となってご奉公されているのが古川さんです。古川さんは設計事務所を熊本に構えている方で、もっとも適任と言うことでこのご奉公をされています。古川さんは、実はわが遠妙寺青年会の古川幹事長のお父さんです。
大屋根瓦葺き替えと新しい『宝蔵』の一日も早い完成を祈っています。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ミュージック・オブ・ハート』

2009年01月17日 | Weblog
たまたま、テレビをかけたら『ミュージック・オブ・ハート』 Music of the Heart (1999)をやっていました。
忙しい、忙しいと言いながら、ビデオに録画して小間切れで5回くらいにわけて全部、見ました。涙ぐましい努力ですね。
夫が他の女性と仲良くなり、出て行き離婚となってしまったロベルタ・ガスパーリ(実在の人物)が家庭の中から社会に出て行き、力強く生き抜くという話でした。ロベルタは離婚後、いろいろあって結局、ニューヨーク・イースト・ハーレムの学校に臨時教員として雇われ、バイオリン教師として生活のために働きました。
犯罪におびえ、貧しい生活をするハーレムの少年、少女の親たちにバイオリンは無用の長物とうつりましたが、子どもたちは次第にバイオリンの音色も魅せられます。
熱心に、妥協せず、子どもたちにバイオリンを教え、次第に実力が向上。親たちにも受け容れられるようになります。毎年、コンサートを開き、好評を博しながら何年も経ち、大勢の卒業生を送り出します。
ところが、ある時、急に予算を削られて教室は閉鎖、ロベルタ先生は解雇となります。
 でも、この窮地から起ちあがって、ロベルタ先生は子ども、親とともに反対運動を起こします。多くの知人、友人の人脈によって、運動はふくらまり、多くの新聞にも教室の廃止問題の是非を問う記事が掲載されます。
二転三転して、有名なバイオリン奏者たちの応援を得て、カーネギーホールで子どもとの共演でコンサートは大成功。ついに世論に押されて教室が復活するという話で、子どもたちの演奏が本当に素晴らしいのにはビックリしました。
主演のメリル・ストリープも特訓でバイオリンを習って弾き、吹き替えなしで撮影しているというので、その女優魂に敬服です。
子どもの陸奥無限の可能性、本当の教育とは何か、女性が社会に出て働き、自己実現して業績をあげるには困難が伴うけれども、けっして不可能ではないこと。いろいろなことが示唆されているように思えます。
バイオリンをハートで弾けと何度もロベルタが言いますが、すべてハートでいかなくっちゃダメですね。、
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日教上人の御前にて飛躍を期す 爆発的な拡がりをめざして 

2009年01月16日 | Weblog
今日は本所吾妻橋・清雄寺で恒例の日教上人御墓前式がありました。
1280年代(明治十年代)から首都・東京にどうしても佛立宗の教えを弘めようと日教上人は進出、麻布霞町の一角に親会場(布教所)を設立されました。
日教上人という方は、目の付け所がすばらしく、京都でも将来の後継者養成が大事だということで、修学所の設立を提言され、それが実現しました。
明治時代、東京は何といっても日本の首都としてゆるぎない発展をみせ、これからの佛立を考えれば東京に拠点がなければならないとされたのでした。
また、それ以前に、日教上人はキリスト教の研究を行われましたが、これは世界に佛立の灯をともそうという意志がすでにあったからです。後にこれは実現し、日教上人はブラジルへの移民船に茨木現樹師が乗って同行するよう命じられました。
平成23年には、その日教上人の100回御遠諱(第100回忌)がゆかりの清雄寺でつとまります。
東海、中部、関東、東北、北海道の佛立寺院は、すべて日教上人の門下ですから、この機会に、ぜひ起ちあがって大々的に弘通教化にがんばろうというのが、本日の御墓前式のテーマです。
たまたま、現在の清雄寺住職は小山日誠上人(現在の佛立宗の最高位・講有をつとめられている)で、不思議な巡り合わせ、因縁を感じます。
遠妙寺では今年、十一月八日に先代住職、日玄上人の二十三回忌を小山日誠上人及び高須日良上人(長薫寺)にお勤め頂きますが、去年と今年で100戸の教化誓願を立てています。今、何が何でも達成しようと寒修行参詣に皆で励んでいるところです。
50年前、100年前と状況は変わってきていることは感じています。昔は、追いつめられた時代の転換期に宗教に救いを求める人が多かったのですが、今の日本人はおいそれとは、動かず、何も信じようとしません。かつて新興宗教や新々宗教など、かなり奇異な似非(エセ)宗教団体によって手痛い目にあっているからでしょう。
しかし、これから益々、深刻な危機に襲われれば、必ず、日本人も目が醒めて、真の心のより所を求めるのではないでしょうか。
ただ、私たち佛立のお寺が、まことの安らぎを与えることができるお寺として大勢の人に分かってもらわなくては話になりません。ですから、情報を常に発信する必要があります。
たとえば、葬儀の時、一般には法外な戒名料を請求されることが多々あります。
でも佛立宗では、戒名料は不要ですし、教務方に対する葬式の御布施にしても施主の気持ちだけを表せばよいのです。私も今まで、御布施はゼロ、また、持ち出しという時も何回かありました。また、御布施は基本的には寺院への寄付です。ですから余裕のない人はホンの気持ちでも良いし、余裕のある方はその人のできる範囲でされればよい・・という立場を佛立宗のすべての寺院では堅持しています。
でも、こういう事を世の人々に宣伝をわざわざしたこともないし、殆ど誰も知らないのです。
話がそれました。とにかく、私たちはこれから身命を惜しまず、人のために教化に頑張ります。(写真は御墓前式後の大会会場にて)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする