彰勲師、フィリピンから帰国

2010年06月23日 | Weblog
21日、11日間のフィリピンでのご奉公を終えて、河野彰勲師が帰国しました。
今回のフィリピンご奉公では、ネグロス島(マニラから飛行機で1時間、船では24時間)での御本尊奉安(今回はジェンマさんの実家や親戚への奉安)、そして、初めてパナイ島(すばらしいご利益を頂いたロメル・アルカニォさんの実家や親戚が住んでいる)への御本尊奉安ができました。
驚いたのは、親兄弟の絆が強く、みずからのご利益を頂いた体験を情熱を込めて、お話をしたところ、その話に感動してぜひ、入信して御本尊を奉安いただきたいとの話になったことです。
こんなにすばらしいご信心だからこそ、自分の親や兄弟にも勧めて、させてあげたいとい気持ちがストレートに通じた結果です。先方も、自分の子どもや兄弟の言うことなので、信用しますし、それほど熱心に勧める気持ちに応えたいということもあったのかもしれません。
日本人は、だんだん、親と子、兄と弟、姉と妹の関係も昔ほど濃厚でなく、クールといえばクール、冷たいと言えば冷たい関係です。
日本人も「オールウェーズ3丁目の夕日」かなんかの時代までは、篤く燃えていたように思います。豊かになるにつれ、近代化するにつれ、人間同士の絆も親子の関係も薄く、つめたいものになっていくようです。
もとより人間は一人で生まれ、一人で死んでいくのは分かっています。でも、そうだからこそ、生きている限り、いっしょに住み、一緒に食べ、仲良く家族はやりたいというのではないでしょうか。
一人でも生きていける社会でなくてはならないでしょうし、一人で生きていく権利をみな、もっていてしかるべきだと思いますが、いたずらに目くじらを立てて、(前)近代的な家族は終焉を遂げたと、棺桶に釘を打ち込むようなことを言わなくてもいいのではないかと思います。
余計な話をしました。
とにかく、14戸の奉安ご奉公が出来たとの報告を受けました。そのほかに、日程が足らないので奉安の約束だけしているところが10軒ほどあるとも聞きました。
たとえば、ネグロス島に行くだけでも大変ですが、そこから3時間もジムニーという簡易型タクシーに乗っていき、さらに山の方に歩いて登って奉安ですから、一軒一軒の奉安も大変です。その山は浅間山のような山で、「鬼押出し」のように溶岩の岩がごろごろしていて、そこに御本尊を奉安した質素な作りの家があるそうです。
すごいご奉公です。でも、そういうお宅でも、結構立派な奉安用のお厨子を自家製で作製して、御本尊奉安を待ち焦がれていたとのこと。その気持ちに感動します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謗法9

2010年06月08日 | Weblog
門祖日隆聖人の信心法度十三箇条の第二条に

一、みこ、かんなぎつかふべからず。同おこりおとさせ、よろづの祈?さすべからず。

とあります。
これは、「みこ、かんなぎ」つまり女性で神に仕える人がよく、神がかりとなり、降霊とか除霊とかいうたぐいの事をやったり、祈祷をすることがあります。それらの人々を決して使ってはならないとお示しになっているのです。
ウィキペディアによりますと、「柳田国男・中山太郎の分類によると、概ね朝廷の神和ぎ(かんなぎ)系巫女と民間の口寄(くちよせ)系巫女に分けられる」とあります。
 伊達日彰上人はみこ、かんなぎの説明をされるのに、みこに「あがたみこ」「あづさみこ」等があり、かんなぎは、「神祈」の転といわれてると書かれています。
また、当時の大言海の「あづさ」の項目を引かれています。
 それによりますと、あづさとは、神降しをしたり、死霊、生き霊の口寄せ(霊を呼び出し、その霊の言葉として代わりに、いろいろ話をする)をドクロなどを懐に持っている者もいる。これを市子(いちこ)とも縣巫(あがたみこ)いう、時には売春までしたこともある等と説明されています。
 この法度中の言葉に「同」とあるのは、「みこ、かんなぎ」に「おこり」を落とさせたり、いろいろな祈祷をさせてはならないという意味です。
 「おこり」とは「瘧」と書き、周期的に発熱するマラリアのような病気をさすこともありますが、ここでは「憑きもの」を落とすということです。狐憑き、狸憑きやその他、人の生き霊、死霊などが憑依しているときに、みこ、かんなぎを使って落とさせるようなことをするなと禁止されています。
 憑依現象というのは、実際、昔はよくあり、今もそのようなことが起こります。かつて東大の宗教学教授が、狐が憑くと正座したまま、天井近くまでピョンと飛ぶことがあると語っていたのを聞いたことがあります。また、精神医学の研究と臨床に取り組んでこられた医師自身が、ある神社に参拝したことがきっかけとなり、この「おこり」というような状態になり、絶え間ない不安に襲われた時、白い狐が見えたと語っておられました。その夫人が佛立宗のご信者で、お教化を受け、ついに当宗の上行所伝の御題目によってこの医師はご利益を頂き、要するに憑きものが落ちました。
そのほか、今もなお、頻度は昔に比べたら格段に減っていますが、実際に憑依現象というものはあります。ただ、精神病として統合失調症として分類され、もっぱら病院に行き、神社仏閣には頼まなくなったので把握できないというわけです。
 ともかく、そのような状態の時に、ご信者は「みこ」、「かんなぎ」を使ったり、民間療法に頼ったりというのでは治るものも治らなくなります。特にご信者は、そのような謗法を犯すことなく、ひたすら妙法御題目の御本尊に心を定めて、ご祈願するべきであるというのがこの御法度です。そして、ご信者なら教務、信徒のお助行をお願いすればよいのです。そうすれば、経力によって「おこり」も落ちるのです。
 「よろづの祈祷さすべからず」というのは、やはり、巫女、かんなぎにあらゆる祈願、祈祷をさせてはならないという意味です。
 病気、負傷、就職、心願成就その他、あらゆるご祈願も、すべて妙法御題目の御本尊にお願いをかけ、一心に祈ることが大事です。
とにかく、日本には巫女、かんなぎの類の人々、また、男性でも昔から陰陽道なるものに従事する人があり、また、平安時代も鎌倉時代も、室町時代もいろいろな迷信が横行していました。
門祖日隆聖人が活躍された室町時代には、それらに加えて巫女、かんなぎ崩れの祈祷師、拝み屋が跋扈していて、門流のご信者が簡単にそれらの人々に祈願、祈祷を依頼するなどと言うことがあったようです。
今も、怪しげな人物がテレビにも出演して、占い、三輪某、江原某などによるスピリチュアル系とかいういい加減な話、それらに乗じて霊感商法、霊視、透視など、現代にも「いたこ」は沢山、存在します。これらは百害あって一利なし。
現代でもこういう状態ですから、室町時代はなおさらです。
霊や霊的現象はたしかにありますが、それらをネタに商売をする人が多いのです。
何も巨額の費用を払わなくても、日頃から正法の信仰を貫き、上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目をみずから信唱し、正師に弔っていただけば最高の回向となるのです。そして、謗法の汚れなく、真面目に生活し、真面目なご信心を守れば、一切無障礙。なにもおまじない的なことをしなくても、諸天善神のご守護をいただき、霊障などというものもなく、明るく健康に過ごせます。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカー ワールドカップ

2010年06月06日 | Weblog
サッカー・ワールドカップが近づいています。
あーあ、南ア連邦か。
遠くて行けませんが、どんな試合を展開してくれるのか、岡田ジャパンはどうなのか。
ふだん、サッカーの試合などはテレビでチラッと見るだけで、サッカー場に行ったのはもう、40年も前に国立競技場に行ったのが最後です。
でも、一応、高校の時はサッカー部にいたのです。一年の時だけですが。
先日、BS・NHKの番組で、イギリスのプレミアムリーグが商業主義に傾きすぎているけれど、一部のチームだけが潤っているものの、ほとんどが経営難に陥っていると訴えている人の話を聞きました。
時代の趨勢とはいえ、サッカーを見に行くのにあまりにも多額のお金がかかり、それらのお金が一部の人だけを潤しているのは確かに考え物です。
人々にサッカーの楽しさを味わってもらうのが本当はサッカー協会の仕事なのでしょうが、そんなことはやっていられないのかもしれません。
仏教も一部のお坊さんや研究者が独占していたのを解放したのが大乗仏教運動でした。
仏教がほんとうに人々の心の中に入り、仏教が生活の中に溶け込まない限り、その衰亡は止めることは出来ません。
でも、今回はテレビで見る機会がもしもあれば、改革は少し先にしてもらい、あまりややこしいことを考えず、素直に見てみたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする