現証布教と日蓮大士

2010年07月27日 | Weblog
ようやく、高祖日蓮大士の御書の中でも最高能判(さいこうのうはん)の書といわれる観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)の原稿をまとめることができました。
本門佛立宗の機関誌、「大放光(だいほうこう)」誌上に平成十二年から前後七年にわたって連載(途中、1年間はお休み)させてもらった原稿をまとめたものです。
題は、「時を超えて 観心本尊抄にまなぶ祖師のみこころ」というもので、あるときはほぼ徹夜しながら書いたこともあります。
それを佛立研究所の設立20年記念に出版していただくという話があり、纏めなおしました。
大変ありがたいお話しで、何とかさせていただこうという気持ちになりました。
ところが、纏めるというのは実は書き直すくらい手間がかかりましたが、ようやくある程度の形になりましたので、研究所にお渡しできました。
付録まで入れると全部で60万文字以上、1200頁になるので、出版といっても大変です。
そうして一応、纏めてみて本当に勉強になりました。まだまだ、不完全ですが分かったことがあります。
それは、この本尊抄ほど論理的で体系的なお書きものは、高祖日蓮大士の御書にはないのですが、最後は論理を超え、言葉を超え、ご信心により日蓮聖人はこの御書をお書きになったということです。そして佐渡の厳しい自然といつ殺されるか分からないという追い詰められた環境の中で、血を吐くような思いで言葉を編まれたということです。
昔、仏教学者の平川彰先生が「道元や親鸞は論理的で分かるけれど、日蓮はいちばん、難しい」と言われていたことがありました。その時は、よく意味が分からなかったのですが、今はその意味が分かったような気がします。
それは結局、御題目口唱、唱題によって日蓮聖人は妙不可思議な、神秘的ご体験を積み重ねられ、その言わば現証体験をぎりぎり言葉にされたのが観心本尊抄です。
現証というのは、現前の証拠、現実の証明という意味です。
私たちも日頃、信行口唱によって不思議としか言いようのない体験をしています。しかし、そのような事象がどうして起こったのか、最後の最後はなかなか説明もできません。でも、事実は事実です。それが現証のご利益(ごりやく)というものだと思います。
そこのところが、いわゆる宗教学者や仏教学者では踏み込めない、どうしても分からない領域で、そこに入ってしまえば宗教者であり信者です。
遠妙寺に毎朝、参詣されている若い女性信徒がおられます。この方は不治の病といわれる病気にかかり、精密な検査を受け余命幾ばくもないという宣告を受けました。ところが、その病をおして参詣、口唱を続けています。また、毎日、みほとけにお上げした御仏飯をいただいています。教化親として毎日、お助行といい付き添って唱題をして、いろいろお世話されている方がいます。本人の一途な思いと教化親の献身的な姿に感動を覚えていますが、本人はだんだん元気になってきて私も驚くと同時に心から嬉しく感じています。
今のように、教化親子が仲むつまじく信行に励む姿そのものが、もうご利益を頂いていると思っています。
ともかく、信仰とか信心というものはただ論理だけで、言葉だけでおわってしまうものではない。論理と言葉を超えた妙法の中に私たちは生かされていて、それは現証体験を通じて初めて感得できるものだと思います。
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新幹線の中で

2010年07月22日 | Weblog
この間、新幹線に乗って京都へ行きました。
私が座った指定席は、通路側でした。そこに新横から女性が一人、乗車。私の隣の窓側の席に座りました。
当然、私の前を通過して自席に座るのですが、「どーも」とも「失礼」とも何も言いませんし、別に会釈するわけでもなく、座りました。
サングラスこそかけていませんが、私が坊主頭で、この暑い夏に背広まで着こんで「あやしい」と思ったかもしれません。何しろ、持っているお金がかなり少ないことをのぞいて、外見は〇〇暴力団関係に間違われるかもしれません。でも、目つきが優しいところも違うと思っているのですが、分かってくれないかなぁ。そうでもないって?
とにかく、そんなわけで一瞬、気まずい空気が流れました。たぶん、私だけにですが。
その筋の人に思われている証拠に、その二〇代くらいの子は、それから何回も化粧室に行くのですが、そのたびに、無言。私は、そのたび何度となく細い体をなお細くして前をあけたり、席を立ったり。若いのに、少し近すぎませんか?などと思いながら。
けっきょく、ちっとも私を恐れていないことが分かりました。
「あのー、僕は暴力団関係者なんですけど・・・」
そう、言いたい衝動を抑えて、京都駅で下車。
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特別祈願口唱を再開

2010年07月21日 | Weblog
夏期参詣に入り、今日が7日目です。7月15日から8月1日まで全部で18日と、期間が短いだけに皆、夏の暑さに負けずに参詣させていただいていいます。
特に、7月17日の開導日扇聖人祥月ご命日から、教化のため、やはり口唱をさせていただかなくてはということになり、昨年11月まで実行していた特別祈願口唱を再開しました。
昨年11月に、高祖会に併せて先住、日玄上人の第二十三回御忌を講有親教として勤めさせていただきました。その日までに、奉安教化を二年間で一〇〇戸達成をめざしご奉公させていただきました。ところが、教化がふるわず、もはや上行所伝の妙法御題目の経力をいただくしかないと決定しました。
そこで、朝参詣を1時間40分ほど延長して、十時まで口唱をさせていただきました。
次第に、皆の気持ちが変わりはじめ、信心が深まっていきました。
教化がどんどん出来て、うそのように御本尊奉安を希望する方が増えて、とうとう120戸の奉安、43戸の個人教化が出来ました。おまけに、フィリピンにご弘通が出来て、フィリピンだけで20戸近い奉安教化が出来たのでした。
 そのまま続けていくことも考えましたが、やはり一度、区切りをつけたいということで祈願参詣を打ち切りました。
 その時、ふたたびお教化が低迷するかもしれないと思いました。案の定、今年はフィリピンが30戸もできているのに、国内は11戸。完全な逆転現象。
 そこで、ふたたび、特別祈願口唱と銘打って、来たる2017年、当山創立百周年記念ご奉公円成をめざして十時まで朝参詣は延長です。
 百周年に向かって、御講願主1500人達成、教務員倍増、国内外に別院建立。本堂拡充、納骨堂、新会館建立、組織の再編など盛りだくさん。
 でも、不思議なことに教化など大願成就をめざしてご奉公させていただいていると、ご信者もさまざまな御利益を頂きます。昨年来、致命傷となるケガをした方が奇跡的に回復、また、不治の病にかかり余命幾ばくもない方が薬も化学療法もしていないのに、だんだん回復していること。また、仕事上の御利益など不思議としか言いようがありません。
 人をのみ たすくることと 思ひしに 我身の上の ことにぞ有ける
という御教歌の通りです。
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梅雨明けと同時に大渋滞

2010年07月19日 | Weblog
昨日は八王子・清流寺で講有巡教・先住、権大僧正日序上人の13回御忌がつとまりました。
東京中央布教区から全寺院が参詣、大変盛大に、また、晴天のもと、開導会がつとまりました。
お寺の本堂改修を記念事業としてご奉公され、ひときわ本堂が立派になっていました。
私は、昨年の七月に開導会にお参詣、奉修導師として御大会を勤めさせていただきました。ですから、2年連続で参詣させていただき、また、反対に遠妙寺の御大会を清流寺の長谷川御導師にお勤めいただきました。
また、八王子に赤木さんという方がおられ、私は年に一度は御講にまいります。
道路のことはだいたい、分かっているつもりが、昨日は、大渋滞。その渋滞に巻き込まれ、途中で高速道路から降りて、電車で駆けつけました。
余裕を以て着くつもりが大誤算。こんなことって初めてで、懺悔す。
それにしても、赤木さんは、あの距離を毎日、遠妙寺まで参詣されています。まず、最初に清流寺にお参りして、その後、遠妙寺にダブル参詣。頭が下がります。
そのご母堂も遠妙寺時代、およそ九十歳頃まで毎年の寒参詣、夏期参詣は満参(皆参)。当時は八王子駅からさらに、一時間バスにゆられて着いたところが自宅でした。
いま98歳ですが、その功徳で元気にいまだ、九州小倉、不軽寺にお参りされています。
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祇園祭と開導日扇聖人

2010年07月16日 | Weblog
今日は佛立教育専門学校の第1学期終業式で京都に来ています。
明日が祇園祭と言うことで、連日、雨にもかかわらず人が多いという印象です。
一昨日で八万人もの人が京都入り、昨日の宵々山は十二万人の人出で、ただ昨年の半分だそうです。それでも昨日、地下鉄が混んでいました。昨年より少ないのは雨がやはりたたっているのでしょう。
 京都も連日、豪雨でしたが全国的に深刻な被害が続出するような状況です。岐阜県でも、島根県でも相当、犠牲者が出ています。お気の毒としか言いようがありません。
 最近の天候の急激な変化というか、異変というか、どこか鎌倉時代の天変地異と似ているような気がします。
 今、日蓮聖人のもっとも大事な御書、観心本尊抄について大放光誌に連載した原稿に手を入れてまとめています。そうすると、日蓮聖人が置かれた時代の状況が分かってきます。
 背景に当時の国家、すなわち鎌倉幕府の失政と天変地異、その天災に対しての無策、そして多大な犠牲者を出しているにもかかわらず、また、多くのお寺があるにもかかわらず何ら役に立っていないことに対しての民衆のいらだち、声なき声。そういうものを背負って日蓮聖人は立正安国論も開目鈔も、本尊抄も如説修行抄も書かれているということを頭に置かなくてはならないと思いました。
 そんなこと考えますと、祇園祭どころじゃないねという感じです。
 もっとも本門佛立宗の三祖のお一人、開導日扇聖人は7月17日に亡くなられました。もう120年も前のことです。これはちょうど、祇園祭で皆が浮かれている時ですね。関西では亡くなった前日、御逮夜で法要をつとめることがほとんど。本山ではしかし、前は平日でも7月17日に御正当の御会式をつとめていました。
ということは、祇園祭に出かける人は開導日扇聖人の“たましい”がまします本山宥清寺にはお参りしなくてもよいというメッセージなのではと思いました。
 
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御会式のたび

2010年07月08日 | Weblog
7月4日の開導会には、やはり、立派に御宝前のお花がはいり、有難く思いました。
佛立宗ほど御宝前のお花を立派にお上げする宗旨はないのではと思っています。
相当なお金もかかりますが、生きてましますみ仏とお祖師様に対する供養ですから、惜しんではならないというのが教えです。
開導日扇聖人の全集第三巻を見ますと、明治三年頃の「修学者日記」という御指南が掲載されています。
これを拝見しますと、本山に南組という組があり、そこに「若狭や」という家のお店を借りて、親子三人で暮らしている人がいました。
教化をされたばかりなのに、南組の「武徳」という家にお参りした時、御宝前のお花が枯れているのを見て、自分は食べるか食べられないかという暮らしをしているのに、もったいなく感じました。そして、主人が妻に、今日は夕食が食べられなくても、それは我慢して、お花を買わせてもらおう、我慢してくれといいました。
妻は、一度や二度でも我慢しましょう。もし、明日、食べることができなくても、どうせ死ななくてはならない人間が、寂光浄土に帰ることができるという有難くうれしいご信心をさせていただいているのですから。早くお花をお上げしましょうといいました。子どもも、「お父さん、私もご飯を食べたくありません」といって家族揃って我慢したという話が出ています。
だから、不景気でもお金が足りなくても、御宝前のことを第一に考えてお花を挙げ、御供えをさせていただき、御有志を精一杯させてもらうのが佛立宗の伝統です。
お寺が御宝前のお花をけちったりしてはご弘通の発展もあり得ません。
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開導会 梅雨なのに、まさかの晴れ。無事奉修

2010年07月04日 | Weblog
今日は、開導会でした。
天気予報は雨でしたが、逆転の晴れ。
朝一番は、雨がぱらついていましたが、それも始まるまで。
そして、途中でみごとな晴天になり、夕方、皆、帰宅し終わった頃、豪雨。
有難いですね。参詣も前より多くなりました。

いうまでもなく開導会は、佛立開導(ぶつりゅうかいどう)日扇聖人(にっせんしょうにん)(1817~1890)に対する報恩のお参りをする日です。
もし、たまたま誘われてお寺にお参りし、そして上行所伝の南無妙法蓮華経の御題目をお唱えする事になれば、仏種がその人のここの奥深くに植えられた事になります。
 また、今日の開導会をお勤めくださった御導師の御法門をお聞きして、ご信心が深まり、増進して、それがもとでご信者となれば、これは大変な事です。

 さて、開導日扇聖人は幕末の宗教改革者。いわば仏教界のルターと言っても過言ではありません。
 生家は浄土宗。母の死をきっかけに、道を求めて遍歴。32歳で出家・剃髪。平たく言えばお坊さんになられました。

 開導聖人は得度後、兵庫県尼崎の法華宗本山、本興寺の檀林(僧侶養成所)で勉学されようとしたが、いじめにあわれ断念されました。
 致し方なく、他の檀林に行こうとなさり、友人に相談したところ、この上、僧侶として出世して何になろうかといわれ、考え直されて市井の仏教者として生きる決意をされました。

 法律上の制約があり、僧侶以外のものが高座で説法をすることは禁止されていました。
 また、大勢の参詣者が開導日扇聖人のもとに訪れ、出入りするようになりますと、近隣から苦情が出たり、あるいはねたまれたりで住居は合計8回も変わり、また、開導聖人は当時、ご禁制であったキリシタンの邪法を弘めているとか、京都の医師から医療を妨げる活動を行っているなどの訴えがあり、逮捕され入牢される事もありました。

 ともかく、尼崎の檀林から去られた後、しばらくの間、還俗して一般の在家者として法を弘め、お教化の活動をされました。
 しかし、1868年(明治元年)7月に大津ご法難という事件が起こり、不当に逮捕され、入牢。その後、8月、嫌疑が晴れて宗門には認められなかったので、京都府知事、長谷信篤(ながたにのぶあつ)のはからいにより、京都府御免の出家として布教を公許されました。
 このような開導聖人から致しますと、出家して僧形(そうぎょう)となっているか、在家の姿であるかどうかは、その時の都合でどちらでも構わないとされています。
 ですから、便宜剃髪(べんぎていはつ)》ということを言われています。
 また、形の出家でなく、真実出家(しんじつしゅっけ)とならんことを目指されたのです。

 要するに、開導聖人は出家(お坊さん)・在家(一般人)の区別を超越されていました。
 形にこだわらず、人を助け、困っている方の教化ができれば良いと考えられたのです。
 たとえ、在家であっても実践可能な唱題、信心と菩薩行によって得道ができるのです。
 得道とは、凡夫まるだしの生き方から仏への道、菩薩としての道に入ることができるということ。
 得道してこそ、本当の人としての生き方ができ、幸せな心身共に満ち足りた生活を送り、臨終の時には思い残すことなく、寂光浄土(静かなすばらしいみ仏の世界)に参拝・・・・行くことができるのです。
 実は、この「真実出家」ということは門祖日隆聖人が既に仰せになっていることです。
 開導聖人は、その当時、出家者は多いが、真実の出家は少ない事を嘆かれていて、それが結局、宗門批判となり、誰も聞く耳も持たないので、ついに教団内の教団、本門佛立講を開講されることとなったのです。
 そのほか、改革すべき問題点はたくさんあり、その一つ一つにメスを入れられたのです。
 では、何をどのように化育されようとしたのか、それはまた、後日にします。

御指南
其形在家(ざいけ)たりとも得道(とくどう)の人は出家(しゅっけ)と名(なづく)くべしとなり。されば此得道と申も信心強盛(ごうじょう)にして常に法義(ほうぎ)を心得、随力演説(ずいりきえんせつ)して此法の此国に弘(ひろま)らむ事を悦べる人は、得道の人と申すべし。(法華一言法門)

御教歌
 真実の 出家(しゅっけ)といふは 菩薩(ぼさつ)也
 御法(みのり)弘(ひろ)めて 人を助(たす)くる
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もう明日、明後日は開導会

2010年07月02日 | Weblog
明日は開導会前夜の座が19時から、明後日は朝6時20分、9時20分、11時20分からというように開導会がつとまります。

昔、子どもの頃、年に三回の御会式と言えば、私たちお寺の中にいる人は、もちろん、子どもも含めて一時的に、部屋がなくなりました。
全部、明け渡して御会式の時に部屋を使うからです。
大変な騒ぎでした。
いまは、部屋までは明け渡すことも必要がなくなりましたが、皆がいっぱい、いっぱい動いて、大変です。
でも、それくらい大変な思いをする事によって、私たちがいくらかでも、偉大な日蓮聖人、門祖日隆聖人、開導日扇聖人に対して、ご恩返しをできたことになるのではと思います。
最近は、犠牲を払うということが少なくなった気がします。
自分が損をしてまで、誰かのために何かの役に立とうとはしません。
そういう中で、今もって佛立のお寺では、我が身をかえりみず、婦人会のご信者方は一所懸命にご奉公してくださっています。
遠妙寺婦人会も例に漏れず、現幹事長の服部さん。また、山泉、溝口、合澤、後藤、末澤さんなどは、遠い方が殆どですが朝から何時間も、いろいろな奉仕ご奉公をされています。
石黒教養部長などは、女性ですがまさに、獅子奮迅、ものすごいパワーです。
また、婦人会だけでなく、男性の護法会も、事務局も全員が開導会という一つの目的のために集まっていただいているのは有難いの一語です。
晴れればよいけれど、どうでしょうか?






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