ようやく、高祖日蓮大士の御書の中でも最高能判(さいこうのうはん)の書といわれる観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)の原稿をまとめることができました。
本門佛立宗の機関誌、「大放光(だいほうこう)」誌上に平成十二年から前後七年にわたって連載(途中、1年間はお休み)させてもらった原稿をまとめたものです。
題は、「時を超えて 観心本尊抄にまなぶ祖師のみこころ」というもので、あるときはほぼ徹夜しながら書いたこともあります。
それを佛立研究所の設立20年記念に出版していただくという話があり、纏めなおしました。
大変ありがたいお話しで、何とかさせていただこうという気持ちになりました。
ところが、纏めるというのは実は書き直すくらい手間がかかりましたが、ようやくある程度の形になりましたので、研究所にお渡しできました。
付録まで入れると全部で60万文字以上、1200頁になるので、出版といっても大変です。
そうして一応、纏めてみて本当に勉強になりました。まだまだ、不完全ですが分かったことがあります。
それは、この本尊抄ほど論理的で体系的なお書きものは、高祖日蓮大士の御書にはないのですが、最後は論理を超え、言葉を超え、ご信心により日蓮聖人はこの御書をお書きになったということです。そして佐渡の厳しい自然といつ殺されるか分からないという追い詰められた環境の中で、血を吐くような思いで言葉を編まれたということです。
昔、仏教学者の平川彰先生が「道元や親鸞は論理的で分かるけれど、日蓮はいちばん、難しい」と言われていたことがありました。その時は、よく意味が分からなかったのですが、今はその意味が分かったような気がします。
それは結局、御題目口唱、唱題によって日蓮聖人は妙不可思議な、神秘的ご体験を積み重ねられ、その言わば現証体験をぎりぎり言葉にされたのが観心本尊抄です。
現証というのは、現前の証拠、現実の証明という意味です。
私たちも日頃、信行口唱によって不思議としか言いようのない体験をしています。しかし、そのような事象がどうして起こったのか、最後の最後はなかなか説明もできません。でも、事実は事実です。それが現証のご利益(ごりやく)というものだと思います。
そこのところが、いわゆる宗教学者や仏教学者では踏み込めない、どうしても分からない領域で、そこに入ってしまえば宗教者であり信者です。
遠妙寺に毎朝、参詣されている若い女性信徒がおられます。この方は不治の病といわれる病気にかかり、精密な検査を受け余命幾ばくもないという宣告を受けました。ところが、その病をおして参詣、口唱を続けています。また、毎日、みほとけにお上げした御仏飯をいただいています。教化親として毎日、お助行といい付き添って唱題をして、いろいろお世話されている方がいます。本人の一途な思いと教化親の献身的な姿に感動を覚えていますが、本人はだんだん元気になってきて私も驚くと同時に心から嬉しく感じています。
今のように、教化親子が仲むつまじく信行に励む姿そのものが、もうご利益を頂いていると思っています。
ともかく、信仰とか信心というものはただ論理だけで、言葉だけでおわってしまうものではない。論理と言葉を超えた妙法の中に私たちは生かされていて、それは現証体験を通じて初めて感得できるものだと思います。
本門佛立宗の機関誌、「大放光(だいほうこう)」誌上に平成十二年から前後七年にわたって連載(途中、1年間はお休み)させてもらった原稿をまとめたものです。
題は、「時を超えて 観心本尊抄にまなぶ祖師のみこころ」というもので、あるときはほぼ徹夜しながら書いたこともあります。
それを佛立研究所の設立20年記念に出版していただくという話があり、纏めなおしました。
大変ありがたいお話しで、何とかさせていただこうという気持ちになりました。
ところが、纏めるというのは実は書き直すくらい手間がかかりましたが、ようやくある程度の形になりましたので、研究所にお渡しできました。
付録まで入れると全部で60万文字以上、1200頁になるので、出版といっても大変です。
そうして一応、纏めてみて本当に勉強になりました。まだまだ、不完全ですが分かったことがあります。
それは、この本尊抄ほど論理的で体系的なお書きものは、高祖日蓮大士の御書にはないのですが、最後は論理を超え、言葉を超え、ご信心により日蓮聖人はこの御書をお書きになったということです。そして佐渡の厳しい自然といつ殺されるか分からないという追い詰められた環境の中で、血を吐くような思いで言葉を編まれたということです。
昔、仏教学者の平川彰先生が「道元や親鸞は論理的で分かるけれど、日蓮はいちばん、難しい」と言われていたことがありました。その時は、よく意味が分からなかったのですが、今はその意味が分かったような気がします。
それは結局、御題目口唱、唱題によって日蓮聖人は妙不可思議な、神秘的ご体験を積み重ねられ、その言わば現証体験をぎりぎり言葉にされたのが観心本尊抄です。
現証というのは、現前の証拠、現実の証明という意味です。
私たちも日頃、信行口唱によって不思議としか言いようのない体験をしています。しかし、そのような事象がどうして起こったのか、最後の最後はなかなか説明もできません。でも、事実は事実です。それが現証のご利益(ごりやく)というものだと思います。
そこのところが、いわゆる宗教学者や仏教学者では踏み込めない、どうしても分からない領域で、そこに入ってしまえば宗教者であり信者です。
遠妙寺に毎朝、参詣されている若い女性信徒がおられます。この方は不治の病といわれる病気にかかり、精密な検査を受け余命幾ばくもないという宣告を受けました。ところが、その病をおして参詣、口唱を続けています。また、毎日、みほとけにお上げした御仏飯をいただいています。教化親として毎日、お助行といい付き添って唱題をして、いろいろお世話されている方がいます。本人の一途な思いと教化親の献身的な姿に感動を覚えていますが、本人はだんだん元気になってきて私も驚くと同時に心から嬉しく感じています。
今のように、教化親子が仲むつまじく信行に励む姿そのものが、もうご利益を頂いていると思っています。
ともかく、信仰とか信心というものはただ論理だけで、言葉だけでおわってしまうものではない。論理と言葉を超えた妙法の中に私たちは生かされていて、それは現証体験を通じて初めて感得できるものだと思います。