住職のつぶやき

2008年06月30日 | Weblog
さいわい、わが遠妙寺には毎年、かなりの方が新しくご信者となられ、そのうちのほとんどの方が御本尊をいただき、熱心に礼拝、御題目口唱をされています。
ですから、何らかの形でご利益を頂かれ、幸せに暮らされるようになっています。
そこで、新しい方にしても古い方にしても、御講(信徒宅での法要、法席)の集りの折、体験談を発表していただきます。その中で、これはという方の体験談はビデオに映像化してお寺で春の門祖会、夏の開導会、秋の日蓮聖人御会式の時に、上映して参詣者の皆さんに見ていただくようにしています。
ただ、残念なのはせっかく、目の覚めるような御利益を頂きながら、しばらくすると御宝前に対する感謝の気持ちを忘れて、不平不満や見当違いのおかしなことを言って、参詣しなくなったり信心をやめてしまう人があることです。
もう、七回忌も終えた頃ですが、柳家小さん師匠が敬虔な仏教徒だったことは知る人ぞ知る所です。小さん師匠は、十歳の時に面疔になり、命が危ぶまれ、今の状態では手術ができないと、なかば医者にさじを投げられました。近所に中村さんという乗泉寺のご信者がいて、子さん師匠の両親に「それだったら乗泉寺に行ってご祈願しよう」と話しました。中村さんと師匠のお父さんがお寺に行き、徹夜で命が助かるようご祈願。その結果、手術ができるようになり、一命を取りとめたのでした。(中村さんは後年、得度して応岳師と呼ばれました)
小さん師匠は、「私は御法様に助けていただいた」といつまでも、その恩を忘れず、終生、ご信心を持ち続け、どんなに忙しくても朝夕の御宝前にお給仕、そして御題目口唱、お寺にも一人で歩いてお参りをさせていただいていたそうです。
名ばかりではなく、後のことは他のご信者にまかせたのですが、お教化もでき、自分の剣道場には、神棚ではなく南無妙法蓮華経の御題目の御本尊を奉安していたとのこと。
遠妙寺にも、小さん師匠のような方がいたらなぁ。恩義を忘れない方は大勢ありますが、お教化までできている方は少数派ですね。中には、すっかり御法様のことを忘れて、サヨナラ信者があることは嘆かわしいことです。
まっ、しょうがないですね。負けずに頑張ります。
(写真は日刊スポーツより)
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恋慕渇仰

2008年06月28日 | Weblog
今日の御講(家庭での法会)は吉村さんが席主、いわば主催者です。
吉村さん(50代男性)はなんと、パリ在住ですが、この日のために帰国しました。
パリで懐石料理レストランの責任者として働いていますが、バカンスを利用して帰国しました。昨年も帰国し、姉の家で御講の準備、そして夫婦で立派に御講をつとめられました。
吉村さんのお姉さんのお宅は遠妙寺まで1時間少しかかります。しかし、滞在中、そこから夫婦そろって開門参詣。一番電車に乗って参詣されています。また、帰国すると都合のいい日を選んで本山参詣もされています。
そして、朝参詣すると気持ちよく、うれしくて仕方がない、本山もお参りすると感動が止まらないと言います。
無事に今年も帰国できて、御講をつとめることができるように、パリの自宅ではお題目口唱を一所懸命されているそうです。日本に帰国するには、年中無休のレストランの従業員が交代で休みを取る中で、会社の許可を得て休みを取り、混み合う飛行機のチケットを事前に取ります。それができるには、建康で十分に働け、それだけの収入が必要です。
だから、こうして帰国できたのも、自分の力ではなく「御宝前のおはからい」と素直に喜んでいます。
ブラジルやペルーなどの日本人移民社会には、かえって日本の古い習慣や伝統が今もいきているといいます。それは、日本から遠く離れているが故に、また、他の国出身の移民に囲まれているが故に、日本的なるものを大切にするからでしょう。
同様に、フランスの社会にたった一組の佛立信者の夫婦だからこそ、日本を大切に思い、佛立信心を大事に大事に守っておられるのでしょう。
恋したひ唱えかさねしこゝろより 法の光りの顕れにけり
と日扇聖人は教えられていますが、信仰も愛情も恋い慕うという心が大切ということで、マンネリになったら駄目だということです。
今日は、ご信者の尊い気持ちに触れて、ほのぼのとして帰ってきました。
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今日のひとこと

2008年06月26日 | Weblog
「あほのようなかしこになれ。かしこのようなあほになるな」
 日扇聖人のご指南(教え、教訓)です。(日扇聖人全集5-237)
 だいたい、私たちは自分が賢い人間のようにみせたがるものです。賢いふりをしているのが本当の馬鹿な人間です。
 作家の阿川弘之さんが最近出された「大人の見識」を読みました。その中に紹介されていることですが、日本人の特徴として「軽躁」(けいそう)ということを挙げています。武田信玄なども「軽躁なるものを勇豪とみるな」と戒めていると言っています。
「軽躁」というのは軽々しい、配慮が足りない、浮かれる、熱しやすく冷めやすいということで、日本人の性質だとしています。
 「軽躁」とは、言わば、「かしこのようなあほ」でもあり、まさに「あほのようなあほ」とも言えるのではないでしょうか。
 表面は、何も考えていないようで、実はかしこいというのはむずかしいですね。馬鹿だと思われることに我慢ができないのが凡夫ですから。
 毎日、判で押したように決まった時間に出勤し、融通が利かない、いつもこつこつ働く・・というタイプの方があります。軽躁なる人は、そういう人を馬鹿にします。佛立信者の中にも要領を使わず、こつこつ遠方から参詣されて他の方の幸せを祈り、長い間、御題目をお唱えして祈願されている方があります。まったく頭が下がります。日扇聖人は
「まなほなる よき信者をば 軽しめて 無智とあざける ものしらずかな]
と、教え歌を詠まれていますが、こういう「ものしらず」だけにはなりたくないものです。
お役人の宴会タクシーの問題が騒がしいこの頃ですが、これも「軽躁」な所作振舞で、悪乗りの一種でしょう。人のことは分かっても自分のことは気がつかないものです。くれぐれも悪乗りをしないよう、気をつけなくてはならないと思いました。

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ひとりごと

2008年06月24日 | Weblog
今日は私が先生役をつとめる学校の授業です。昨晩、京都に疲れ切って辿り着き、今日も5時間の授業です。
昔は、教学を教える人も少なく、また、出版されていた本もなかったので、先生は貴重な存在でした。
しかし、今や宗内だけでもおびただしい本が出版され、さらに宗外では著名な仏教学者や立正大学などの日蓮宗宗学者の著者も多数あり、教材には事欠きません。
だから、授業にはよほどの魅力がないと学生も学ぶ気が起こらないように思えます。その上、コピー機の普及で自分が聞いていなくても、人のノートをコピーすればよいということになります。
先生もやりにくい時代ですね。世間では何宗であっても、どんな教学でも主義でも、そんなの関係ないというところですが、そんな風潮もわが宗を浸食しかねない状況です。
でも、たった一人でもよいから、素晴らしい教え、完璧な教学を私たちは受け継いでいることを分かってもらいたい、そして、一握りの人でよいから自分から積極的に先師の教えを学び、確固たる自信を以て布教弘通に励んでもらいたいと思って授業に臨んでいるわけです。
そして中には、そういうタイプの人も実際にありましたし、今もいます。
まあ、いろんなことを考えつつ帰京しました。帰り道、東京駅の地下に潜るとすっかりキレイになっていて、お店が並んでいました。豚まんと、その他、買って帰りました。

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理屈を超える佛立信心

2008年06月21日 | Weblog
今日は御講席が午前、午後と二席ありました。
両方、近いところでしたが帰ってきたら午後4時半。
6時から学徒会のお看経。現在、学徒と学徒研修生を合わせて十数名ですが、忙しく働いている20代から40代の男性、女性が中心です。
毎朝、交代で本堂御宝前(仏様)に対するお給仕をさせていただいています。勉強会と来月の打ち合わせをしました。
続いて、クモッス会議。クモッスというのは、「蜘蛛の巣」のこと。蜘蛛の巣は英語でウエッブ。つまり、遠妙寺のホームページ運営に関する会議。このホームページは皆さんが無償奉仕で作成していますが、毎月、打ち合わせを行って、方向性を定め、内容が更新されるよう促進しています。まあ一度、遠妙寺ホームぺージをご覧ください。遠妙寺ホームページ
今日の午前中の御講で体験発表があったのは、ある男性の体験です。
この方は、もう十数年前、突然、両眼失明の危機に襲われました。
原因は不明ですが、網膜に通じる血管に流れる血液量が激減していることが判明しました。しかし、どのようにすれば血液が潤沢に流れるかは分かりません。
治療、回復に至る明確な対処法が専門医でもわからず、遠妙寺あげてのお助行となりました。毎日、家族中で朝参詣、そして、ご本人は忙しい仕事を棚上げにして、御講に参詣したり、自宅でも毎日のようにお助行をいただきました。
 そういう生活が半年くらい続いたと思います。決定的に失明するという事態を免れ、徐々に回復しました。
前後、3年ほど、とにかく一所懸命というご信心でした。
とにかく、この方は細かい数字を見なくてはならない仕事で、国家資格を要する業務に従事しており、従業員も十名ほどで、その人たちに対する責任もあり、もし、失明すれば国家資格を失い、事務所も閉鎖しなくてはなりませんでした。
今日ではかなり高齢(80歳)となりましたが、いまだに所長として精力的に仕事をされています。後継者の長男も国家資格を取得出来ましたので、もう悠々自適の生活もできますが、なお頑張っておられます。お寺でも、責任あるご奉公を今、されており血色も良く、充実した日々を送っておられます。
この方の家族についても触れなくてはならないことがありますが、又の機会と致します。
 佛立開導日扇聖人の御指南
 凡そ(およそ)人として身に願いの無き者はなし。されば一心一向に祈らば、願いの成ぜざる事なし。(日扇聖人全集十四巻四一二頁)

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北野武監督がモスクワ映画祭で功労賞

2008年06月20日 | Weblog
産経ニュースによりますと、次のように出ています。
「第30回モスクワ国際映画祭が19日に開幕し、日本の北野武監督に映画界への貢献をたたえる「特別功労賞」が贈られた。授賞式で組織委員長のニキータ・ミハルコフ監督は「(北野氏は)その心を揺さぶる文化の息吹を世界映画にもたらした」と功績を称賛。北野監督は、自身が学生時代からドストエフスキーやソルジェニーツィンらのロシア文学に親しんできたことを紹介し、「賞に値するよう頑張りたい」と述べた」
コメディアン・ビートたけしとしての活躍もさることながら、映画監督として世界に認められていることは、素晴らしいですね。
私は、雑誌「フライデー」に抗議して、出版社に乗り込んだときのイメージが印象的で、世界に認められた一流映画監督として「名士」の仲間入りしている姿とはどうも重ならないのですが、実際は非常に人に対する細かな配慮、優しさのある人だといいます。
以前、と申しましても1年か1年半前くらいですが、新聞にある記事が出ていました。それは、北野監督のお兄さん、北野大氏の自宅にある仏壇について取りあげられていました。
仏壇というより、その上の方に換気扇をつけているという写真です。その写真を見ましたら、何と佛立第四世講有・日教上人の御本尊が奉安されていました。
時間差があり、分かりにくいものですが教育やしつけ、身体の鍛練、精神的な鍛錬、信仰など、その効果は遅れてやってきます。親が筋の通った教育方針を以て子どもを育て、また、真っ当なご信心をして孜々営々と功徳を積んでおきますと、やがてめぐりめぐって果報と繁栄を子孫にもたらすということがあります。
もちろん、中心は本人で、本人がだらしなくては話になりませんが。
しかし、成功した人というのは、本人の努力以上に、何かに後押しをされたようだったとか、幸運がめぐってきてとか、時のめぐり合わせとか、ある人との出会いがあってとか、プラスαの力、不思議な縁によって今日を築いたという例が多いのです。
これを仏教では、増上縁といいますが、その家の信仰とか精神的なものの影響が大きいですね。家の中心に、仏壇(私たちは「御戒壇・ごかいだん」と言っています)を据えて、御本尊を奉安することはもっとも大事で、風水、風水と騒ぐ人がありますが、それどころじゃありません。狐や狸などの類を拝むなどもってのほかで、正しい御本尊の安置が何より大切です。

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その時、歴史は動いた。 水野龍と日水上人

2008年06月18日 | Weblog
今日、NHKの「その時、歴史は動いた」を見ましたか?
ブラジル移民の父といわれた水野龍のことを取り上げていました。
水野は明治37年、当時、日露戦争の後、多くの凱旋軍人が町にあふれ、深刻な就職難を解決しようと移民の必要性を感じました。
その頃、不当な手数料をとっていた移民会社に対抗して興国移民会社を興し手数料を半額にして、まず、ハワイへの移民を促進しました。その後、アメリカ、ヨーロッパに反日運動が起き、ブラジルへの移民を考えるに至りました。
 最初に調査とブラジル政府との交渉のため、ブラジルに渡ろうとしましたが、チリを経由しての旅となりました。その時、鈴木という有望な青年と知り合い、彼とともに事業を共にしようとしました。励まし合いながら、チリからアンデス山脈を命がけで越えてブラジルに入りました。
 交渉にも成功し、日本に帰り、移民を募り様々な困難を乗り越え、金銭的な窮地をも脱して、移民船「笠戸丸」を仕立てて渡航しました。その笠戸丸がブラジルのサントス港に着いたのが1908年6月18日でした(明治41年)。
 第一回の移民でコーヒー園に入植した人びとには過酷な労働環境が待ち受け、その上、収穫時期も過ぎ、不作に見舞われた最初の年は大変な苦労を強いられました。農民たちは不満を抱え、抗議しましたが水野にはただひたすら謝り、彼らをなだめるしかありませんでした。何とか、農民たちは鉄道建設に従事して食いつなぎました。
 水野は、再び帰国、さらに第二回の移民を募り前回を上回る900人が応募。水野は会社の権利を売り一社員として働きました。第二回の移民は収穫時期に間に合い、豊作に恵まれ軌道に乗り始めました。その後も移民をブラジルにおくりました。
 彼がめざしたのは、日本の経済発展だけでなく、外国との共存共栄でした。明治の日本は西欧諸国の列強に追いつき追い越せと富国強兵をめざし、その資金確保のため農民に重税を課しました。さらに兵力を以て満州はじめアジアに進出しようとしましたが、これはアジア諸国の利益に相反し、共存共栄とは反対の方向です。水野がブラジル移民にこだわり、何度となく移民、入植を試みたのは、日本の武力による進出に異を唱え、その方向を修正させようとしたからです。
 後に水野は、家族共々、ブラジルに移住したのですが、その子孫たちは今、仲良く幸せに暮らしています。
 テレビで触れていなかったことがあります。それは、水野が本門佛立宗・清雄寺の信者で、第一回の移民船に移民たちの心の支えとして佛立教務の乗船を望んだことです。当時の清雄寺住職、第四世講有・日教上人は茨木現樹師(後の日水上人)を抜擢して、笠戸丸に乗船するよう命じられました。
 茨木日水上人も筆舌に尽くしがたいご苦労をされました。農民とともに、コーヒー園で働きつつ、教化をされながら、多くの移民の精神的支柱の役割を果たされました。とうとう、二十年以上かかってリンスに大宣寺をブラジル最初の寺院として建立されました。
 今日では、ブラジルにサンパウロに日教寺はじめ十一ヵ寺の佛立寺院が建っており、多くの二世、三世、四世のご信者が菩薩行の実践をしています。
 共存共栄の精神の根本は、つまり、佛立信心であり、ブラジル入植は法華経の菩薩行の実践に他ならないのです。
 今年が移民100年、これからブラジルでさまざまな行事があり、いま、皇太子が渡伯されているようです。しかし、佛立宗では一足早く、三月にブラジル開教100年の記念大法要を講有・小山日誠上人がつとめられました。
 多くの人種がほんとうに平等で、差別がなく、また、資源豊富で広大な国土を持ち、共存共栄を旨とした水野のこころが生きていて絶大な信用を得ている日系社会を擁するブラジルは、もっとも将来性がある国です。
 日本にも、共存共栄の精神がますます必要だと信じます。
(写真は1908年4月28日、笠戸丸出航のとき)

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私の番

2008年06月17日 | Weblog
あいだみつおさんの書いた詩に次のようなものがあります。
うまれかわり死にかわり永遠の
過去のいのちを受けついで
いま自分の番をいきている・・・略・・
というものです。
すごく仏教的、法華経的な詩だと思います。
実は、札幌に行っている間に一人の方の葬儀があり、帰ってきてから他の方の葬儀があり、これは私が導師をつとめました。
生きているのも順番なら、死んでいくのも番なんだなと思いました。
でも、それが私たちが考えている番とは違う順で人は亡くなっていきます。
だから老少不定とか無常というわけですね。
以前、本の中に書いてあった江戸時代の川柳ですが
世の中に さかしま事は いむものを 順にいっては 俺がたまらぬ
というのがありました。
なるほどねーという感じです。
でも、なすべき事をなして悠々と順に寂光(浄土)におもむくことができるなら、
それは幸せではないでしょうか。
しかも、今日の葬儀はそうでしたが、九十歳の翁に家族が心から別れを惜しんで見送る、順番かもしれないけど、青天の霹靂のように驚きと悲しみを以て見送る。
こういう家族がある限り、この日本も救いがあると思いました。



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石岡日養上人二十三回御忌 札幌信廣寺

2008年06月16日 | Weblog
札幌信廣寺にお参りしました。
信廣寺は昭和18年(1943年)、石岡日要上人(佛立第17世講有)が着任されて以来、飛躍的にご弘通発展しました。
そのご一代は、まさに忍難弘教、さまざまな法難や難事に立ち向かって、御題目の力でこれを乗りこえ、あくまで現証弘通。現証の御利益を頂いて、その感激と感謝によりご信者が喜んでお教化して、この御題目のご信心をお弘めしたのです。
15日(日)に、朝から4座(4回)にわたって開導会にあわせて石岡日養上人23回御忌がつとめられました。
教化誓願も1年半で300戸成就。また、大勢の教務が増員。前日まで80%の確率で雨天の予報のところ、見事な日本晴れでした。当日、寺内の参詣者が三千名を突破し、申し分のない開導会でした。
石岡日養上人は、浜松のご出身で、東京渋谷・乗泉寺で得度、北海道でご苦労の末、今日の信廣寺を築かれたのでした。
その伝記を読ませていただき、また、23回御忌の記念誌「日養上人の思い出」も読ませていただきますと、「信」を貫かれた上人のお姿が浮かび上がってきます。
特に、最初期、庭田さんという寝たきりのご信者のお宅に伺い、お助行して御題目口唱し、そしてお折伏されたお話が印象的です。
この方は、「もう死を迎えるばかり、せめて新しく見えた石岡御講師にお目にかかってから死にたい」と言っておられたとか。
そこで早速、石岡日養上人がお助行に伺って、「どうぞお寺にお参りさせていただきなさい」と参詣をすすめられたのです。ところが、死を迎えんばかりに衰弱していたこの方は「もしお寺に参詣したら、死んでしまいます」と申しました。
すかさず、「死んだっていいじゃありませんか。どうせ死ぬ体だから朝参詣しなさい」といわれたというのです。これには、何にも言えなくなり、ずいぶんひどい、無理なことをいうお教務さんだと思いつつ、庭田さんは何度も途中で休みながら、とうとうお寺に参詣されたのです。
このようにして、お参りを続けたところ、だんだんお寺参詣も楽にできるようになり,とうとう御利益を頂いて、さしもの重病も治ってしまったのです。
その強いご信心を受け継いで、現在、信廣寺をさらに発展に導いておられるのが姫井日覚(ひめいにっかく)上人です。姫井上人は、若い頃、お助行に継ぐお助行に回られ、また、お寺の草創期に入寺して大変だったようですが、人一倍努力されご奉公されてきました。今日、その功徳が実り、リーダーシップを遺憾なく発揮されています。
(写真は石岡日養上人)



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今日のひと言 6月13日

2008年06月13日 | Weblog
「幸せはある意味、不幸せ。不幸は一面、幸せ」
私は、いろいろな方のお宅に伺って、御講(家庭での法要、法会)をつとめ、御題目をお唱えして、ご祈願したり、先祖の御回向も致します。
また、その時に参詣された方や施主とそのご家族に対して仏様や日蓮聖人等の教えを「御法門」(ごほうもん)という形でお話しします。
また、その後も、施主やご家族とできるだけ、お話しします。
その時、幸せに何不自由なく暮らしている方は、仏様や日蓮聖人の教えをいくら力説しても、何も接点がないので、話をほとんど聞いてもらえません。
それはそうでしょう。困っていることが一つもないので、問題意識もなく、求めるものがありません。お話を聞いている顔はされていますが、まるでかみ合いません。
このような方は、幸せが邪魔をして、仏の教え、日蓮聖人の教えに近づいていけないのです。仏様、日蓮聖人の教えは奥が深く、世の中の真実の姿を映し出す鏡です。その教えに本当の意味で触れることもなく、やり過ごしてしまうのは本当の意味で不幸です。
反対に、悩みがあったり、身体の具合が悪くて、それがキッカケでご信心に興味を持ち、信心が増進すれば、これは幸せのもととなります。日扇聖人は
「あまりにも達者で金持ちで安楽すぎたる人には、それが迷いを増長する故に、達者故に信心出来ず、金がある故に信心おこらず、金がある故に信心おこらず。難の来たる時には俄になげき、臨終に於て大苦を受く」
と説かれています。
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