自殺について

2009年05月28日 | Weblog
特別、重い話題で恐縮ですが、最近、自殺する人が多いので、今日はこのことについて考えてみます。

自殺できるのは人間だけであるということからしますと、自殺は人間の証しであるとか、特権だとかいうことはできます。
でも、命は先祖からの預かりモノであることから申しますと、自殺は自分だけでなく先祖に対する殺人ともいうことができましょう。
日蓮聖人は
「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」
と示されています。
つまり、指一本、髪の毛一本たりとも、実は自分のものとは言い切れず、みな親から授かったもの。ましてや命こそ賜り物なのだから自分の自由ではない、勝手に命を絶ってはならないということです。

遠妙寺の信者ではありませんが、以前、知り合いのある老夫婦ががみずから命を絶つという痛ましい事件がありました。
老後をめぐって、さまざまな心配やトラブルが起こることがあります。
「臨終の事を先に習いて後に、他事を習うべし」
と、日蓮聖人がやはり、仰せですが、臨終は安らかに穏やかに美しくなくてはなりません。特に、年をとっているなら何も自ら命を絶つ必要などないと思います。しかし、やむにやまれず、そのような結果になってしまうのでしょうか。

また、これからを嘱望されている若者が、これという理由が誰にも分からないのですが、突然、自殺をしてしまうケースがあります。
残された親御さんはいたたまれないでしょう。
親の気持ちを汲み取ることができるなら、そんな事はできないでしょうが、やはり、追い詰められたような気持ちになってしまうのでしょうか。

いま、日本は三万人以上の自殺者が毎年出ているそうです。交通事故よりずいぶん、大勢の人があたら命を自ら絶っていることは、看過できないことです。
これは、政治の問題、教育の問題です。しかし、私たち仏教徒としては、大きな宗教上の問題、私たちに突きつけられた課題であると考えなくてはならないと思います。

私たちは、身近に自殺する人が出ないように、アンテナを広げて、悩んでいる方、困難に直面している人に対して、相談にきてもらえるよう、受け入れる姿勢を示さなくてはならないと思います。
本当に残念です。何で相談してくれなかったのと亡くなってしまった方には言いたいのですが、相談に応じてあげるようには自分自身が見えてなかったのかもしれません。
心と心は通じ合うはずです。人間の心と草や木さえ通じ合うことができるのですから。
コミュニケーションさえ取れれば、話さえしてくれれば、何とかなるのに。


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トム・クルーズのマイノリティー・リポート

2009年05月26日 | Weblog
ずいぶん前に買ってあったけど、長女に貸しっぱなしのDVDが戻ってきました。
まだ見てないのに貸し出しして、そんなの買っていたかなー。と、思いました。
パソコン修理記念に書き物は疲れていてできませんので、どーれどれと、見てしまいました。
これが意外におもしろい。また考えさせられる内容。おすすめです。
時は西暦2054年、ワシントンの司法省エリート班、犯罪予防局(プリクライム)につとめるジョン・アンダートンは予防局をリードする刑事。予防局ができたのが6年前で、殺人事件は激減をしていたというのです。
未来を投資できる予知能力者(プリコグ)が3人。予防局のシステムの中心的な役割を果たしていました。予防局のシステム室のプールの中に24時間つからされ、3人が見る脳内の視覚がリアルタイムで高い精度で映像化され、それが録画もされるのです。それを刑事が分析して、未来に起こる事件を察知し、場所と事観を特定し、殺人が起こるのを未然に防ぐわけです。しかも、このシステムの精度は高く、事件が起こる確率はほぼ100%。例外はなく、マイノリティー・リポートは一つもありません。しかし、まだ実際に事件は起こしていないのに、殺人を考えたり、犯しそうになっただけで、それが映像となり、殺人が起こる前に犯人として逮捕されます。そして、犯人は特殊な処理を施され、カプセルのような容器に丸ごと入れられ、生かさず殺さず一室に隔離、保管されるのです。
ところが、ジョン・アンダートン自身が殺人を犯すとプリコギに予知され、逮捕命令が下されます。同僚に追われて、追い詰められ、それでも逃げていきます。
眼球や虹彩で個人を特定するセンサーが町中、いたる所にあり、すぐ居場所が知られます。ダウンタウンで手術を受けて、他人の眼球といれかえ、逃げます。
そうこうしているうち、プリコギの予知していた自らの殺人事件の現場に行き着き、見も知らない人間を射殺する設定にはまっていってしまいます。
しかし、実は殺された犯人は司法省の高官に雇われ、家族のためのお金ほしさの故に引き受けたこと、実はジョンの息子を昔、誘拐殺人した犯人を装うよういわれたことを告白。殺してくれといい、もみ合いながら、みずからの腹に銃を突きつけて引き金を引きます。
その高官こそ予防局のトップで、彼は重大な秘密を持っていたのです。
システムの管理をする人間が、システムの弱点を巧みに利用して自らの犯罪を隠していたのです。その秘密をあばいてドキドキする話が終わります。
この映画の監督はスピルバーグで夢の競演とカバーに書いてあります。
すごく、うまくできているなぁ。と思いました。
人間が作ったシステムを万全だと思い、信頼するのはよいのですが、時にシステムに裏切られ、それを操る人に裏切られることはよくあるものです。
人々を犯罪から守ろうとして、犯罪的なことをやってしまう。
うーん。考えさせられますね。



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岡山妙現寺 西田日講上人

2009年05月23日 | Weblog
5月21日夕方、岡山に到着、19時からの妙現寺の西田日講上人のお通夜にお参りしました。
翌朝、11時からの告別式に出て、終了後、失礼しました。
そんなわけで、岡山には長女の主人の実家があったり、私の父方の親戚もいたり、落さんなどよく知っている方もいますが、とんぼ返りをしました。
西田日講上人は満78歳ということで、本宗としては惜しい方をなくしました。
若い頃から、教学、宗学を勉強して、さらに深く研究、宗門を代表する学者となられ、平成13年から6年間にわたり佛立教育専門学校長として若い世代の養成に努められました。
西田日講上人は、約10年前に肺がんにかかられ、もう余命幾ばくもないと宣告されました。ご本人も、もう終りかと思われたそうです。
ところが、起死回生の御利益をいただき、さしもの悪性の肺がんが全治するという奇跡的なお計らいをいただきました。
まるで、嘘のようなというほどの御利益です。
4年ほど前に、遠妙寺にお越しになり、御会式をおつとめいただきました。
そのときの御法門が、このご本人の病気平癒の体験談でした。
もう、あの病気で終わっていたはずの命。それが、み仏に寿命を延ばしていただき、思う存分の活躍をなさり、最初の発病から10年を経過して、なくなられました。
また、自坊の妙現寺もその間に、本堂を立派にされ、また、会館を建立して見違えるようになりました。
「為すべきを為し」、このたびは寂光浄土に帰られました。
上人のとこしえの法楽を念じています。
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これは楽なのか、苦しみなのか?

2009年05月21日 | Weblog
いままでブログをやり始めて、10日間も間をあけることがありませんでした。
前回書いたように、デスクトップのコンピュータがポシャってしまったのです。
急にWindowsが立ち上がらなくなり、何回も試しましたがダメ。
そこで、もう一台でぼちぼち、やれば良かったのですが、どうしても直さないと気持ちが悪いので、いろいろいじくりました。
これが大失敗。結果、致命的にダメになりました。
結局、2台のデスクトップを組み立ててから、だいぶ時間が経ってしまっているので新しいVistaのコンピュータを買わないと、どうしようもないと思い注文しました。ところが、これを使えるようにするまで一苦労、ふた苦労。
とうとう、何とかしましたが、ここまでくるのに、一ヶ月。
時間が空けば、修理。原稿など一つも書かずに、修理だけです。
コンピュータは、私たちを楽にしてくれるはずのモノでしたが、その調整と修理に何倍もの時間をかけているのです。
アホだな、私はと思いました。
あぁ。日蓮聖人の「観心本尊抄」についての原稿を纏めるように言われているのに、ちっとも進まないなぁ。
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謗法について

2009年05月20日 | Weblog
謗法という文字を正しく読める人は限られていると思います。
謗法は「ほうぼう」と読み、法・・つま真理、特に仏法という仏様が説かれた教えに背くことを意味します。
法という文字をただ、宇宙の真理と解釈しますと抽象的になります。しかし、仏法、仏様の教説ととらえますと、具体的になります。
仏法と言っても、教えの浅さ、深さ、手段としての教え(方便)と目的としての教え(真実教)という違いがあります。
どうして同じ仏教の中に、そのような区別があるのかといいますと、明らかに相反する教えが混在していることに対しての合理的解釈です。
現代仏教学には、このことに関していろいろと論議がありますが、それは今、おいておきます。
たくさんの経典をどのように整理し、どの経典に釈尊の教えの神髄があるか、見極めるというのが中国仏教および日本仏教に与えられたテーマです。
中国の天台大師(五三八~五九七)や妙楽大師、日本の伝教大師最澄(七六七~八二二)や日蓮聖人(一二二二~一二八二)は、その釈尊の教えの神髄は「法華経・ほけきょう」(妙法蓮華経)にありとされました。
それには、また、理由があるのですが、これも今は省略します。
この立場から申しますと、法華経の教えと矛盾する教えは同じ仏教であっても謗法ということになります。
たとえば、法華経には、すべての人々には等しく仏性がそなわっていて、誰であっても菩薩としての修行をすれば、あの釈尊と変わることがなく同じ仏となることができると説かれています。
このような法華経の教えに立ちますと、男女、その出身、貧富、人種、あらゆる差別をする宗教、教えは謗法とみなすことになります。
このようなことを考えますと、謗法ということがそのまま、排他性を意味する言葉ではないということができるのではないでしょうか。
その教えの独自性がなければ、何も「〇〇宗」とうたう必要がありません。
独自性があれば、必ずそれと相反する教えがあるものです。しかし、どうしても譲れない点については、つまり、この点を除いてしまうと仏教でも何でもなくなってしまうという点は、死守しなくてはなりません。
一方、排他的にならないよう配慮することも必要です。つまり、仏様の教えと反することを仏教徒として主張している人には、よく話をして、説明して一致するよう心がけ、努力することが大事です。これを教化といい、法華経の教えに共鳴して、上行所伝の妙法をおたもちするよう努めることです。
一般の現代人、私たちは凡夫といわれ、なかなか教理や理論によって教えを納得して実践する気が起こりません。そこで、身近な問題の解決について御宝前(御本尊)に祈願を立てて妙法の御題目を口で唱える修行を実践しますと、不思議なお計らいをいただくので、初めてありがたさが分かるのです。
要は、あらゆる人々が等しく、本当の教えを信じて、生老病死の苦しみを克服して、幸せになり、心安らかに暮らし、死しては安心して寂光浄土にお参りできるようにというのが釈尊ならびに日蓮聖人の願いです。・・・・続く
(写真は工事中の本山大屋根より撮影)
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生老病死

2009年05月11日 | Weblog
お釈迦様は、人生にはかならず、生老病死の四つの苦しみがあると説かれました。

誰でも例外なく、生まれて成長し生きる上で苦しみがあります。
誰でも例外なく、老いる上で苦しみがあります。
誰でも例外なく、病気になる苦しみがあります。
誰でも例外なく、死ぬ時に苦しみがあります。

まぁ、当たり前と言えば当たり前なのですが、自分がこの四つに直面すると大変だよということ、この四つを何とかしなくてはいけないよということを教えておられると思います。
逆に言うと、これらを何とかすれば、明るく楽しいこともたくさんあるんだよと励ましてくださっている面もあります。

でも、私たちは凡夫。やっぱり、生老病死を乗り越えて生きていくことは難しいですね。
でも、信心がある方は、常に御宝前(み仏)に見守られていると実感でき、どんなときも、確かな安心感がもてます。

五月八日、板橋・扇教寺の御導師、田中清希化主(日示御導師)が亡くなられました。まだ、六十五歳でお若いのに残念です。
田中御導師の父君、権大僧正・日廣上人と光隆寺・中野日崇導師の父君、権大僧正・日裕上人と、遠妙寺の先代、権大僧正・日玄上人とは関東の三羽ガラスと昔、いわれ、本当の親友として長年、助け合ってご奉公されていました。
そんなこともあり、私は田中清希御導師に特別な親しさを感じていました。
また、先住、日玄上人が二十一年前に亡くなられたとき、田中御導師は親切に、何から何までご奉公してくださいました。
これは今もって感謝しています。
その田中御導師の訃報を聞いて唖然としました。
知らせを聞いて、すぐ駆けつけましたが、ただただ、悲しく涙があふれ出ました。
十日(日)に告別式に出座。斎場に行き、お骨を拾って帰り、扇教寺で骨揚げの御回向。ご供養を頂き、遠妙寺に帰山しました。
それにしても、私たちが信じ仰がせていただいている上行所伝の御題目御本尊は生きてましますことを実感しました。
田中御導師は、実に安らかな美しいお顔でした。
最初に八日の日に、お顔を拝見した時も、きれいに白くなっていましたが、10日の告別式の時はなおさら、透き通るような白さ。すばらしい寂光にお参りされた姿です。
上行所伝の御題目の尊さと、田中御導師のご信心の確かなことを立証されました。
田中御導師、来世はもう少し、丈夫な体に生まれられ、たばこが吸えない体になられ、元気にご奉公くださるように、それだけお願いします。
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目に青葉

2009年05月09日 | Weblog
新緑の季節となりました。
このところ、毎日、気温が激しくかわり、今日は暑いかと思うと次の日は寒さまで感じます。
毎年、こんな調子だったのかなぁと思いながら、変化に対応する服装をしないとたちまち、風邪を引いてしまいます。
日によって、また、あるときは清々しい青空。あるときは、どんより濃いグレーの空。こんなにも、日によって変わるのは日本の特徴なのでしょうか。
ちなみに、フィリッピンから日本に黒柳さんといっしょに来て、お参りして五月四日に帰ったジャンビーさんは、寒い寒いといっていたということです。
どうも、フィリッピンには四季がないので、対応が難しいということらしいです。
同じ地球の上で、チョット北に位置するか、南に位置するかでずいぶん違うんですね。
凡聖の みるめはへだて なかりけり 柳はみどり 花はくれなゐ
と、開導日扇聖人は御教歌にお示しです。
私たち凡夫、一般の方もご信者と、世にも尊い仏様と比べて、どのように違うのでしょうか。
木々は五月は青葉、柳は緑、花はくれない・・赤く、きれいに咲き誇っています。
その色を見ることは、本当は人によって、同じ赤でも濃く感じたり薄く感じたり違いがあるかもしれませんが、まぁ同じです。
でも、そこからが違うんだよ。とお示しの御教歌です。
見る対象が、花や木ならいざ知らず、男性が美しい女性を見たとき、女性が同じ女性を見たときとでは、明らかに反応が違うでしょう。
女性がさわやかですばらしくハンサムな男性に会って話したとき、その声を聞いた時の響きと、同じ声を同僚の人が聞いた時、自ずと響きが違ってくるでしょう。
仏様や菩薩と同じような感覚を持てれば、色も形も変わらなくても、ずいぶん、世の中は変わって見えるでしょうね。
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ブログも連休しました。

2009年05月06日 | Weblog
この連休、遠くに出かけた人はどのくらいいるのでしょうか。
壱尺の 楽しみ得んと 十丈の くるしみをする これが煩悩
と開導聖人は御教歌に詠まれていますが、これは少しの楽しみのために、その100倍も200倍も苦労するのが私たちであるという意味です。
遠くまでいったものの、車は渋滞、遊園地の乗り物も2時間待ちなどという時に、そんな感じになります。
ずいぶん前、ディズニーランドに行った時、車で1時間かかったのはよいとして、駐車場に入れて入り口に並ぶまで1時間、入場券を買って中に入るのに1時間半。午後2時に出て、さあ何かに乗ろうというま3時間半。どれもこれも乗り物が混んでいたので、いちばんすいていたロープウェイみたいなのに乗ることにしました。それでも乗るのに1時間。お腹がすいてきたのでレストランに。券を買って、食事が出てくるまで1時間。食べおわりレストランを出てきたら、もう8時でした。
良かったのは、ちょうとパレードがあったので、当時の幼児3姉妹、今はそのうち2人が子持ちですが、3人が喜んでみてくれたこと。でも、帰宅は11時になっていました。
それ以降、ショックで連休やお盆の時にテーマパークに行こうとは誰もいわなくなりました。少し、子供が大きくなったら、今度は友達同士で行きますので、結局、家族そろってディズニーにいったのは、一度きり。
そのうち、孫が小さくて私たち夫婦が孫のスピードに追いつける間に、ディズニーシーとかいってみたいなぁと思っています。連休以外のウィークデイに。
ブログの方は、しばらく遠ざかっちゃいました。
どこにも出かけていなかったのですが、パソコンがストを起こしたのです。
元の環境に戻そうと必死に苦労して、何回もWINDOWSーXPの回復インストールを試みましたが、ことごとく失敗。ずいぶん以前に、システム全体のバックアップを取っていたのですが、もうだいぶ前なので、保存の仕方が悪かったかどうかハードディスクがポシャってしまっていてアウト。
データは残っていますので、それを残しておいて、新しいハードディスクを買ってインストールすることに。そうしたら、昔のPATA(IDE)という規格のものは店から消えていて、みなSATAという規格に。苦労に苦労を重ねて復活。
といけば良いのですが、もう、今までの作業に疲れてしまっていて、明日、挑戦します。
今日は、そんなわけで昔のノートパソコンからブログをアップします。
それと、これからが大事です。
連休中の3日から、遠妙寺では祈願口唱に徹しよう・・・となりまして、毎朝6時から10時まで朝参詣。教化、教化、教化しか頭にありません。
早く2年通算100戸奉安をクリアーしたいの一念です。
大勢、遊びに行くどころではない人がおられます。何とか、悩み、苦しみ、困っている方の力になり、お教化してご利益を頂いてほしい・・・ということで、私が先頭に立って御看経、御看経です。
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