参議院選挙

2007年07月31日 | Weblog
参議院の選挙は民主党が勝ち、自民党は大敗しました。
阿部さんも政局運営に大変な苦労をこれからするだろうし、大変ですね。
でも、参院選の直前に法案を成立させるとき、強行採決を続けて行った様子がテレビでも新聞でも盛んに報じられていました。やはり、これから苦労するというのは「因果はめぐる」ということなのかも。
小泉さんの発言には、ずいぶん詭弁があり、無責任なところがあったと思いますが、結構、人気が最後まで衰えませんでした。郵政民営化については反対する自民党員の除名など、かなり強気で非情なところが見えました。それに対して、阿部さんの方がソフトで、慎重なようにも見えます。それなのにうまく行かないという感じがします。年の違いも、民衆の心を掴む術に長けているかいないかの違いがありますが、それにしても運・・仏教でいえば「果報」が違うのかなあ。
参議院だからまだ、大丈夫。衆議院では与党が絶対多数だから、現状に変化なしという自民党の政治家もいるようだけど、そんな姿勢だと衆議院もあぶないなぁと思う。あれっ。もう12時だね。寝ようかと思うけど、もうチョット。
政教分離といっても、正しい政治が行われるように監視するのは現代の宗教の役割だと思います。政党と宗教団体が一枚岩で結びついているのは政教分離の原則に反することは明白。こんな点も、自民党が嫌がられているのでは?
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開導会

2007年07月30日 | Weblog
29日は待ちに待った開導会。
横浜経力寺御高職(清雄寺副住職)の小山日秀上人につとめていただきました。
小山日秀上人は御講有・小山日誠上人のご令弟、御講有上人を陰に陽にお護りしつつご奉公なさっています。現在、第九支庁の弘通顧問のご奉公もなさっていますが、特別に遠妙寺にお越しいただきました。
たいへん素晴らしい御法門を聴聞させていただき、随喜しました。

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青年による青年のための御会式

2007年07月28日 | Weblog
きのう、遠妙寺において「開導会・青年の座」がとりおこなわれました。
遠妙寺では、15歳から30歳までの男女を青年会の対象者としてさまざまな活動を行っています。
その目的は、
1 青年がみずからのご信心を育てることと、
2 他の人々、社会のためにお役に立つ菩薩行(ぼさつぎょう)を行うことです。
そんなわけで、いま、遠妙寺青年会は純粋な気持ちでお互いに助け合いながら頑張っています。新潟中越沖地震の募金も行い、65000円くらい集まったようです。第2部は、たのしくパーティー風にインドネシア料理を参詣者はご馳走になりました。発表によると、他寺院からの招待者を含め、約90名の青年と約60名の元青年会員(中には相当以前の会員もいました)が「青年の座」に集まり、大いに盛り上がりました。
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7月宗会

2007年07月26日 | Weblog
今日と明日は宗会です。全国29布教区から教務(僧侶)、ご信者おのおの1名ずつ、合計58名の宗会議員が集まり、このたびは平成18年度宗門財政の決算について審議を行います。
宗会議員が僧侶とご信者が同数というのは他宗ではなかなか例がないということです。なんと言っても、僧侶より一般のご信者の方が財政や会計処理については詳しいし、チェックの役割も果たせるようにしてあるのかなと思います。
世相の変化に伴い、わたしたちの宗門やお寺で浄財という観念が将来、だんだん薄れてくるとしたら、これは信心の危機です。
税金もある意味で浄財に近いものがあります。宗教法人に対する課税は強化される傾向にあり、その影響が出始めています。大事なのは広く重く課税をすることより、正当な使い方をすることが先決だと思いますが、どう思われますか?
(写真は本山宥清寺の隣、エンゼルハウス=京都こども文化会館)
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天気予報

2007年07月24日 | Weblog
天気予報では、関東はまだ梅雨明けでないらしい。
話によると天気予報が当たる確率は50%を少し上回るくらいだという。だとすれば、昔、やっていた下駄を上に向かって脱ぎ捨てて、明日の天気を占うのだって半分くらいは当たるから、それとあまり変わらないのじゃないかと冷やかしたくなる。
先日、テレビで紹介されていた「カエル」の予報は、明日の天気なら100%当たるという。今にも飛び跳ねそうに活発に動いていたら「雨」、寝ていたら「晴れ」、じっとしていたら「曇り」とか。カエルにしてみたら、明日が雨か晴れでは、次の日の行動がぜんぜん違ってくるからなぁ。今はドームが多くなったけど、野球場の上空の天気を当てる局地情報屋さん・・プロの天気予報屋さんはほとんど、当てることができるそう。何たって、お弁当屋さんなど予報を頼む方も、頼まれる方も生活がかかっているから真剣勝負なんだね。
私たちのお寺では、病気の人、悩みがある人、いろいろな方がご祈願をあげられるけど、やっぱり真剣勝負ですよ。私たちと信者の方々とは、その場限りの関係ではなく、息の長い付き合いで、苦楽をともにしながらご奉公しますからね。私たちが真剣勝負を忘れたときは信心の空洞化となること必死です。
(写真はまめこさんのHP「HANAKOTOBA」 http://pub.ne.jp/HANAKOTOBA/より)
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看板

2007年07月24日 | Weblog
もうすぐ参議院選挙です。
こんどの選挙とわが遠妙寺の最重要行事、開導会が重なってしまいました。
期日前投票によって投票するしかありませんね。今は不在者投票とは言わないということです。でも転出先で投票する場合はそういうらしい。2003年に制度が変わったと聞きました。宝くじの予約券も今はなくなったというし、時代が変わるとどんどん変わるのですが、あまり大きな声で宣伝しないので分かりません。もっとも宝くじは、20年前に10枚ほど買ったきりですが。
さて、選挙は看板が大事といいますが、地に堕ちた看板はかえって不要です。
政党もお店も看板をしょっていますが、いやがられるような看板にしないよう、私たち宗教者も本門佛立宗という宗名、また、看板を大事にしなくてはならないと思います。
昔から、わが宗では自分自身がご信心が弘まる上で妨げとならないよう、身の処し方にも気をつけなくてはならないと教えられていますが、わが宗門やわがお寺の名を傷つけないよう自戒が大事だと思います。
(写真は歩いているとき見かけた看板)
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お盆 おわり

2007年07月23日 | Weblog
それに、不思議なことは写真に思わぬものがうつることがあります。
遠妙寺から九州のお寺に団体で参詣し、その後、長崎市に向かう途中、島原を通過しました。その前年に普賢岳が噴火し火砕流によって何人も犠牲者が出たことがありました。
参詣者の皆さんと私と家内、何人かで写真を撮りました。その写真を東京に帰ってきて現像して驚きました。
家内の肩の上に、誰の手か分からない手が乗っていて、指まではっきり写っていました。隣の人の手は二本、見えていますから隣の人の手ではない。その隣の人の手にしては、あまりにも距離がありすぎるし、向きもおかしい。
結局、誰の手か分からないということになりました。もし、その写真が見つかれば、ここに掲載します。ほかにも、霊という存在を想定しなければ、割り切れない話がたくさんあります。
こんなことばかり言うと、オカルト宗教じみますが、自分があずかり知らないと言うだけで霊魂そのものの存在を否定することはできないのではないでしょうか。
ともかく、仏教にしても霊魂を否定したどころではなく、霊魂の存在を前提として、あえてそんなことを問い直すこともせず説かれた教えだと私は解釈しています。
まだまだ、霊魂に関する具体的な事実は山ほどありますが、それはまたいつかお話しします。お盆やお彼岸の時、素朴に亡くなった先祖や肉親に思いを馳せ、無心に御題目をお唱えし冥福を祈るという簡単なことができない人が多いのです。
いちいち説明しないと先祖や故人に頭を下げて手を合わせないというのは近頃の教育の欠陥と言えないでしょうか。
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お盆 6

2007年07月20日 | Weblog
それに、実際、私たち佛立宗の教務(僧侶)や信者は不思議な現象(現証)を体験しています。別に霊的な不思議体験を目指すつもりはなくても、まったく予期しない出来事(現証)を目の当たりにしますと、やはり不思議な世界があるんだなあと認めざるを得ません。
私のお寺にSさんという方がいます。この方は、ある時、ご自分が小さいときに亡くなった弟さんのことを思い出しました。その弟さんは生まれて間もなく亡くなったためか、それまで年回など特に両親も、Sさんも考えたこともありませんでした。しかし、考えてみれば命の重さに変わりはないということで、特別に年回を勤めようと思い、担当の教務さん(Sさんのご家族を担当して相談に乗ったり、回ってきてくれるお坊さん)にお願いして、年回を勤めていただきました。
そうすると、どうでしょう。風が部屋に入ってきていることもなく、扇風機をかけているわけでもないのに、御戒壇(ごかいだん・・いわゆる仏壇)のガラス戸の中にお掛けしている御題目の御本尊が大きく、ユラユラ揺れているのです。
その部屋にいた何人ものご信者も、これを見て、「やっぱり、亡くなった弟さんが喜んでいるんですね」と顔を見合わせながらいいました。
これは、本当に不思議ですね。
実際に、このようなことはよくあることで、こんな事を体験すると、お釈迦様が魂の存在を否定されたいう話など、吹っ飛んじゃいます。
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お盆 5

2007年07月19日 | Weblog
まあ、日本も根底にシャーマニズム的な土壌があるのは事実ですが、それを何か未開の地の習俗とか低次の宗教的要素と捉えるのはヨーロッパ的な、あるいはプロテスタント的な発想です。きわめてインド的な要素を持っている禅宗という宗旨でも初詣の人を集め無事息災を祈り、また、特別な祈祷もやっています。もちろん葬儀は行いますし、回向、法事も行っています。「不立文字」(ふりゅうもんじ)といって、お釈迦様の経典などに頼らない、自分の力で悟りを開くなどというのが禅宗の旗印ですが、やっぱり般若心経とか、お経も読まないと格好が付かないというのか、読んでいるようです。
やはり、日本人の心の中には「霊魂」あるいは漠然と「たましい」の存在をどこかで認めているところがあります。ですから、日本人は宗教に対してインド人のように純粋に、哲学的アプローチをしようとはしません。どちらかといえば、もっとどろどろとした人間くさいアプローチをこころみるということができそうです。実際、魂ということを抜きにして語られる宗教ほど、そらぞらしいものはないように感じてしまいます。仏教学者が、よく「初期の仏教は霊魂の存在を認めていなかった」とか、「釈尊は、霊魂はあるかないか、世界は有限か無限か、などという形而上学的な難問には答えられず沈黙を守られた。(捨置記)それが釈尊の答であった」といようなことを得得と述べることがあります。
これは確かに、小乗仏教の経典にそのようなことが述べられています。
しかし、それは私が思いますのに、まさに方便の教えで、まだ真実を明かす前の教説で、お釈迦様の教えのすべてが霊魂を否定的に見ているのではありません。
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お盆 4

2007年07月18日 | Weblog
とにかく、世間と隔絶して自分自身の解脱(げだつ・・煩悩から解放されアラカンという位に入ること)をめざす小乗仏教のお坊さんは、家から出て文字通り、出家するので親とか先祖とは縁を切るようなものです。これは極めてインド的な発想で、インドでは一般に、まず宇宙の偉大な真理を究め一体となるのが理想で、それが宗教の目的とされてきました。
これに対して、家を放棄したり家族から逃避したり、世間とかけ離れるのではなく、あくまでも日常の生活に根ざした宗教を求め、現実の充足を求める人たちも多くいました。その人々の願いに応じて説かれた教えが大乗仏教です。
中国では、儒教をはじめ諸子百家、いろいろな思想がありましたが、大方の傾向として現実を重視していましたから大乗仏教の方が受け容れやすかったのです。
それに、大阪大学名誉教授・加地伸行氏によれば儒教自体が単なる道徳ではなく宗教であって、道教と同じようにシャーマニズムが根底にあり、祖先の祭祀を重要視していると解説されています。(PHP選書「家族の思想」)
ここに大乗仏教が中国に入り、さらに中国化していった理由があります。
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