安田純平さんが帰還したというニュースが日本中を駆け巡りました。
まずは、帰還おめでとうと言いたいですね。
なにしろ、シリアで武装集団に囚われてから正味3年4ヶ月、脅迫と身動きできない監禁生活を余儀なくされてきました。
朝になれば帰れるかも知れないと希望を持たされ、夕方には、やはり今日もダメ、明日もダメかも知れないという絶望感にうちひしがれたり。あるいは、朝日が昇ると今日は殺されるかも知れないと恐怖にとらわれ、夜には今日は何とか生き延びたと安堵し、次の日のことが心配になるという「揺さぶり」に悩まされたでしょう。精神的拷問ですね。
また、ある時は銃を突きつけられてビデオの撮影をさせられたり、生きている心地もしなかったと思います。
いま、その安田さんをめぐって「自己責任論」がネット上で騒ぎになっているといいます。あるいは、バッシングまがいの批判的意見が突きつけられていると言います。
おかしいと思うのは、犯罪を犯したのは武装勢力集団であり、安田さんは被害者です。しかし、声が届きそうにない加害者集団に対する批難はそっちのけで、被害者を更にむち打つ行為が横行しています。
自分の責任だから自分で何とかすれば良かったのにと、言っている人は別に安田さんによって迷惑を蒙ったわけではないのに、被害者のような立場に立って言いたい放題です。
助かって良かったネーという、寄り添う気持ちとは全く無縁で、怖いような感じです。
安田さんはジャーナリストとして、現地に行き現場を見なくては何も実際のところが分からないし、人にも伝えられないと思い、純粋なジャーナリスト魂に鼓舞されて中東に赴いたと言います。
これは、かつて我が本門佛立宗の祖師、日蓮聖人が命まで狙われ殺されかかっているのに、あえて辻説法を行い、鎌倉幕府に救国の建白書「立正安国論」を提出して迫害を招いたことと重なってきます。そんな事を招いた日蓮聖人がむしろ口の悪い宗教者で、自業自得だとか、あまりに激越な発言をしたのだから殺されて当たり前だとか、被害者を責めた人びとがいました。
また、日蓮聖人の精神を継いで、故郷・種子島への弘通布教を行い、現地の人びとに殺されてしまった日典上人という室町時代の僧侶がいます。日典上人は、もともと律宗の僧侶、林応という名を以って得度、奈良等の諸大寺に七年間、遊学して、戒律を修め故郷に帰還する時、堺の船着き場で盲目の法華信徒、太都(たいち)という人と出会いました。
そして、互いに仏法について話をするうち、太都の仏法に精通していることと、その信仰心の純粋さにひかれ、太都が師事する堺・顕本寺の日浄上人(門祖日隆聖人のお弟子、甥に当たりやはり盲目)に教化を受け、ついに南無妙法蓮華経の御題目をお唱えし護持するようになりました。
やがて、日典上人の仲介によって門祖日隆聖人にもお目にかかり、帰依してお仕えして、ついには尼崎・本興寺(現・法華宗本門流本山)の「勧学院」(僧侶の学問所)学頭の地位にまで至りました。
しかし、晩年、どうしても故郷の種子島の人びとを思い御題目を弘め、幸せになってもらいたいという一念から、勧学院学頭という要職も辞して帰郷され、熱心に妙法弘通、御題目のご信心を弘められました。
しかし、律宗信者の迫害にあい、ついに寛正四年四月二十一日夜、桟敷ヶ丘下の浜辺(日典ガ浜)において石で生き埋めにするという残虐な仕打ちにあって殉教の死を遂げられました。これが後に、種子島に日典上人の遺志を継いで渡島し、ついに種子島の全島教化をなし遂げたばかりか屋久島、沖永良部島の教化をされた日良上人という方の偉業の下地、基礎となりました。日良上人は、最初は僧侶の身分を隠して、茶道の師匠、茶人の姿で島に入り、徐々に島の人びとの教化をされたと言われています。
このような場合、日典上人の殉教、殉死は無謀なやり方をした結果で、当然のことであるとするのでしょうか。
子どものいじめの問題でも、似たようなことがあり、いじめられる子にはイジメに遭うだけのものがある、当然だという意見がよく語られます。
よくよく、考えてみなくてはならない点があります。
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