3 最高の御回向ができる
人が亡くなったとき、その人を偲び、悲しむ気持ちは尊いものです。たった一日飼った動物にさえ愛情を感じます。まして長年、顔を合わせていた家族や仲間が亡くなったらどれほどつらいか分かりません。だからこそ、少しでも死後に良い世界に旅立ってほしい、少しでも苦しみがあれば除いてあげたい、病気でなくなったとしたら楽になってほしいと思うのが人情です。
そこで古来からヨーロッパでもアジアでも葬儀が行われ、何年か経っても命日などは記念の日として故人を偲ぶ習慣が続いてきました。仏教では七日ごとの法要や年回が営まれてきました。
今どきは、「たましい」などあるわけがない、そんなのは迷信だと言ってはばからない人が日本にはたくさんいます。ヨーロッパ、アメリカ、中東、インドや東南アジアなど、世界のほとんどの国の人々は、ごく単純に素直に神の存在を信じていきています。また、生まれ変わりについてはキリスト教などで否定していますが、たましいの存在を否定する宗教も民族もあまりないようです。ただ、例外は日本です。しかし、飯田史彦氏(元福島大学経済学部教授)が、その著書の中で学術的立場を崩さず、生まれ変わりを肯定させる不思議な事例を多数、紹介しているように、現時点では「生まれ変わり」を認める方が、より科学的です。また、さまざなな物証からも“たましい”の存在を認める方が自然です。私が妻や信者の方々と移っている一枚の写真があります。九州の雲仙を旅行している最中に撮っていただいたものです。その写真中の妻の肩に、一本一本の指まではっきり写っている手が乗っています。ところが、その手の持ち主が見あたりません。その写真に写っている人の手ではないことがハッキリ、分かります。では、誰の手か?
もちろん、心霊写真と称するものの中には、ホンモノもあれば、インチキや合成したもの、ただそのように見えるに過ぎないものなど、さまざまです。
でも、何ら加工も合成もしていないのに不思議な写真が撮れることは実際にあります。
さて、“たましい”の存在を知り、霊の実在を信じていたとしても、迷いの三途(さんず)の世界(地獄界、餓鬼界、地獄界)に堕ちたことがわかっていても、どうしようもないのがふつうです。
そこで、葬儀や法事は、プロとしてのお坊さんが執り行うことになっていて、頼めばどこのお寺でもやってくれるでしょう。でも、せっかくの遺族の気持ちが通じなくては葬儀も法事、回向(えこう)も行った甲斐がなく、ただの自己満足に終わってしまいます。
そこで葬儀、法事など、そのご回向の法が問題となります。
当宗で昔から語り伝えられ、今も葬儀などで体験する現証をこの目で見ますと、確かに御題目の有難さが分かるのです。上行所伝の御題目で御回向された方の臨終の姿の美しさは他とは比べものにならないのです。
この事については、また、後日、説明します。
開導日扇聖人 御教歌 【御題】一心受持是好良薬文
妙法を 持(たもち)ながらに 妙法の 利益しらぬぞ 持つかひなき
人が亡くなったとき、その人を偲び、悲しむ気持ちは尊いものです。たった一日飼った動物にさえ愛情を感じます。まして長年、顔を合わせていた家族や仲間が亡くなったらどれほどつらいか分かりません。だからこそ、少しでも死後に良い世界に旅立ってほしい、少しでも苦しみがあれば除いてあげたい、病気でなくなったとしたら楽になってほしいと思うのが人情です。
そこで古来からヨーロッパでもアジアでも葬儀が行われ、何年か経っても命日などは記念の日として故人を偲ぶ習慣が続いてきました。仏教では七日ごとの法要や年回が営まれてきました。
今どきは、「たましい」などあるわけがない、そんなのは迷信だと言ってはばからない人が日本にはたくさんいます。ヨーロッパ、アメリカ、中東、インドや東南アジアなど、世界のほとんどの国の人々は、ごく単純に素直に神の存在を信じていきています。また、生まれ変わりについてはキリスト教などで否定していますが、たましいの存在を否定する宗教も民族もあまりないようです。ただ、例外は日本です。しかし、飯田史彦氏(元福島大学経済学部教授)が、その著書の中で学術的立場を崩さず、生まれ変わりを肯定させる不思議な事例を多数、紹介しているように、現時点では「生まれ変わり」を認める方が、より科学的です。また、さまざなな物証からも“たましい”の存在を認める方が自然です。私が妻や信者の方々と移っている一枚の写真があります。九州の雲仙を旅行している最中に撮っていただいたものです。その写真中の妻の肩に、一本一本の指まではっきり写っている手が乗っています。ところが、その手の持ち主が見あたりません。その写真に写っている人の手ではないことがハッキリ、分かります。では、誰の手か?
もちろん、心霊写真と称するものの中には、ホンモノもあれば、インチキや合成したもの、ただそのように見えるに過ぎないものなど、さまざまです。
でも、何ら加工も合成もしていないのに不思議な写真が撮れることは実際にあります。
さて、“たましい”の存在を知り、霊の実在を信じていたとしても、迷いの三途(さんず)の世界(地獄界、餓鬼界、地獄界)に堕ちたことがわかっていても、どうしようもないのがふつうです。
そこで、葬儀や法事は、プロとしてのお坊さんが執り行うことになっていて、頼めばどこのお寺でもやってくれるでしょう。でも、せっかくの遺族の気持ちが通じなくては葬儀も法事、回向(えこう)も行った甲斐がなく、ただの自己満足に終わってしまいます。
そこで葬儀、法事など、そのご回向の法が問題となります。
当宗で昔から語り伝えられ、今も葬儀などで体験する現証をこの目で見ますと、確かに御題目の有難さが分かるのです。上行所伝の御題目で御回向された方の臨終の姿の美しさは他とは比べものにならないのです。
この事については、また、後日、説明します。
開導日扇聖人 御教歌 【御題】一心受持是好良薬文
妙法を 持(たもち)ながらに 妙法の 利益しらぬぞ 持つかひなき