大晦日に年越しそばを食べる風習は、いつ頃から始まったのでしょうか。
我が家でも、夕食は年越しそばですが、おそばのように少しでも寿命を長くしたいいう「しゃれ」のようなものですね。
年を越すというのは、ありとあらゆる借金の支払いを必ず全部済まさなければならなかったので昔は大変だったようですね。開導聖人は
「きわ(際)の日は うちを御寺へ ぬけまいり
娑婆の金にて ゆるされもせず」
と、昔の人は苦労して忙しいところを無理して抜けてお参りをして、少しでも生まれながらもってきた罪障を消滅させようとした、その思いをたたえられています。
罪障というのは、一言で言えば、幸せになるための妨げ、障害です。
本来、人は幸せになれるはずなのですが、それを邪魔する何ものかが自分自身の中に潜んでいるというのです。それは、むさぼる欲望が強いとか、嫉妬心が強いとか、人の良心を信じられないとか、私たちを超えた存在を信じられないとか、そういうものすべてが罪障です。罪障によって、運命が良くない方向に変わり、その運命に翻弄されるのが私たちです。ですから、少しくらい忙しいと言っても、一日が明るくなるように、これからの一月が無事息災に過ごせるようにと、外に出たとき、ついででは本当は良くありませんが、10分でもお寺参詣をすることが大事とお示しです。罪障は、お金を払ったからといって逃れられるものではないと「娑婆の金にてゆるされもせず」と言われています。
昔から毎月、毎月の最後の日(晦日)が支払日ですが、特に十二月の大晦日は借金取りが押し寄せたり、商店では掛け払いになっていたのを一斉に支払わなくてはなりません。
そんな状況ですから、今よりももっと、年越しができる、できないという問題が起こってきたでしょう。
ですから、早く整理ができて夕方でも、真夜中でも御寺にお参りして一年無事のお礼参詣をさせてもらえたら、ありがたいなと言うわけです。
宣伝するのではありませんが、便利がいいと思って紹介すると、
わが遠妙寺では、夜の11時から除夜法要、午前零時から元旦会法要で、一粒で二度おいしいという感じです。
最長で2時間以内で、二年分の参詣。除夜法要は、お礼参詣。元旦法要はこれからの1年の無事息災、安全の祈願参詣です。
我が家でも、夕食は年越しそばですが、おそばのように少しでも寿命を長くしたいいう「しゃれ」のようなものですね。
年を越すというのは、ありとあらゆる借金の支払いを必ず全部済まさなければならなかったので昔は大変だったようですね。開導聖人は
「きわ(際)の日は うちを御寺へ ぬけまいり
娑婆の金にて ゆるされもせず」
と、昔の人は苦労して忙しいところを無理して抜けてお参りをして、少しでも生まれながらもってきた罪障を消滅させようとした、その思いをたたえられています。
罪障というのは、一言で言えば、幸せになるための妨げ、障害です。
本来、人は幸せになれるはずなのですが、それを邪魔する何ものかが自分自身の中に潜んでいるというのです。それは、むさぼる欲望が強いとか、嫉妬心が強いとか、人の良心を信じられないとか、私たちを超えた存在を信じられないとか、そういうものすべてが罪障です。罪障によって、運命が良くない方向に変わり、その運命に翻弄されるのが私たちです。ですから、少しくらい忙しいと言っても、一日が明るくなるように、これからの一月が無事息災に過ごせるようにと、外に出たとき、ついででは本当は良くありませんが、10分でもお寺参詣をすることが大事とお示しです。罪障は、お金を払ったからといって逃れられるものではないと「娑婆の金にてゆるされもせず」と言われています。
昔から毎月、毎月の最後の日(晦日)が支払日ですが、特に十二月の大晦日は借金取りが押し寄せたり、商店では掛け払いになっていたのを一斉に支払わなくてはなりません。
そんな状況ですから、今よりももっと、年越しができる、できないという問題が起こってきたでしょう。
ですから、早く整理ができて夕方でも、真夜中でも御寺にお参りして一年無事のお礼参詣をさせてもらえたら、ありがたいなと言うわけです。
宣伝するのではありませんが、便利がいいと思って紹介すると、
わが遠妙寺では、夜の11時から除夜法要、午前零時から元旦会法要で、一粒で二度おいしいという感じです。
最長で2時間以内で、二年分の参詣。除夜法要は、お礼参詣。元旦法要はこれからの1年の無事息災、安全の祈願参詣です。