最近の日本は不気味だ。
次から次へと、ナイフや包丁を振りまわして人を殺したり、傷つけたり。
こんなに頻繁に、このような事件は昔はなかった気がする。
なぜなんだろう。
人の「死」に直接、触れていないからではないだろうか。
死を観念的に、バーチャルなものとしてか捉えられないから、いとも簡単に人を殺すことを思い立つのではないか。
3世代同居の家は珍しくなった。祖父や祖母など肉親が死ぬ場面に立ち会って、悲しい思いをして、涙を流した経験がない者が圧倒的に多い。
自然が失われてきている。死は自然のひとつの顔だ。都会の生活は「自然」や「死」と隔離されている。
ペットでもいいが、動物を育てる経験をした人は、おそらく簡単に刃物を振りかざさないに違いない。
「誰でもよかった」などと、刺されたり、殺された後で犯人に言われた人はたまったものではない。誰でもいいなら、なぜ、犯人は自分を選ばないのか。
自分だけは傷つけたくないし、安全圏にいたいと思う気持ちが狡猾にすぎる。人をただ、自分の鬱憤晴らしの道具にしか思っていないのだろう。あんなことまでやって不思議なのは、事件を起こした後、ほとんど逃げようとしている。
計画的な殺人でなければ、殺人犯でも死刑は少なく、また、心神耗弱状態だったことが照明されれば、無罪となる今の制度。そんなことまで、恐らく、計算して事件を起こしているのはないだろうか。
何でもそうだが、結局は、すべての行為は人間の心のなせるわざである。
それなのに、自分の心のコントロールができない。自らの良心によってコントロールしようと思えばできるはずというが、それができないから事件が起きている。
心のあり方を求めても、その基準となるものが現代人にはない。
鏡がなければ、自分の姿が映し出されないように、照らし合わせる基準がなければ、なすすべがない。
欧米の人やイスラム世界の人々に比較して、日本人には神仏を信ずる人は圧倒的に少ない。
確かに、神の名において「正義の戦争」が引き起こされ、大勢の人が殺されてきた歴史があることは否定できない。しかし、神という基準があることだけは確かだ。
砂漠の神、一神教の神は、絶対的な神であり、創る神、裁く神、滅ぼす神であり、寛容ではない。そこに、限界があるのではないだろうか。
仏教で信じ、尊ぶ「仏」は、ゆるしを与える存在。寛容と慈悲をいのちとしている。
何を仰ぎ、信じるかによって、仰ぎ、信じる人のあり方は定まる。
もし、少しでも犯人達に仏に手を合わせる習慣があったなら、同じように悩みを持ち、同じようにムシャクシャすることがあったとしても、ずいぶん異なった決断をしたのではないか。
次から次へと、ナイフや包丁を振りまわして人を殺したり、傷つけたり。
こんなに頻繁に、このような事件は昔はなかった気がする。
なぜなんだろう。
人の「死」に直接、触れていないからではないだろうか。
死を観念的に、バーチャルなものとしてか捉えられないから、いとも簡単に人を殺すことを思い立つのではないか。
3世代同居の家は珍しくなった。祖父や祖母など肉親が死ぬ場面に立ち会って、悲しい思いをして、涙を流した経験がない者が圧倒的に多い。
自然が失われてきている。死は自然のひとつの顔だ。都会の生活は「自然」や「死」と隔離されている。
ペットでもいいが、動物を育てる経験をした人は、おそらく簡単に刃物を振りかざさないに違いない。
「誰でもよかった」などと、刺されたり、殺された後で犯人に言われた人はたまったものではない。誰でもいいなら、なぜ、犯人は自分を選ばないのか。
自分だけは傷つけたくないし、安全圏にいたいと思う気持ちが狡猾にすぎる。人をただ、自分の鬱憤晴らしの道具にしか思っていないのだろう。あんなことまでやって不思議なのは、事件を起こした後、ほとんど逃げようとしている。
計画的な殺人でなければ、殺人犯でも死刑は少なく、また、心神耗弱状態だったことが照明されれば、無罪となる今の制度。そんなことまで、恐らく、計算して事件を起こしているのはないだろうか。
何でもそうだが、結局は、すべての行為は人間の心のなせるわざである。
それなのに、自分の心のコントロールができない。自らの良心によってコントロールしようと思えばできるはずというが、それができないから事件が起きている。
心のあり方を求めても、その基準となるものが現代人にはない。
鏡がなければ、自分の姿が映し出されないように、照らし合わせる基準がなければ、なすすべがない。
欧米の人やイスラム世界の人々に比較して、日本人には神仏を信ずる人は圧倒的に少ない。
確かに、神の名において「正義の戦争」が引き起こされ、大勢の人が殺されてきた歴史があることは否定できない。しかし、神という基準があることだけは確かだ。
砂漠の神、一神教の神は、絶対的な神であり、創る神、裁く神、滅ぼす神であり、寛容ではない。そこに、限界があるのではないだろうか。
仏教で信じ、尊ぶ「仏」は、ゆるしを与える存在。寛容と慈悲をいのちとしている。
何を仰ぎ、信じるかによって、仰ぎ、信じる人のあり方は定まる。
もし、少しでも犯人達に仏に手を合わせる習慣があったなら、同じように悩みを持ち、同じようにムシャクシャすることがあったとしても、ずいぶん異なった決断をしたのではないか。