早いもので、明後日、中野日崇上人がご遷化になって百ヵ日忌を迎えます。
中野御導師は、今年の9月12日に遠妙寺で、中央布教区の弘通促進大会が行われた日、しずかに寂光浄土に帰られました。
上人は静岡・本要寺の権大僧正・中野日裕上人のご長男として昭和20年に誕生され、高校生の時に一念発起して出家得度されました。
東洋大学を卒業後、当時の佛立教学院(現在の佛立教育専門学校)を卒業、師匠であり父でもある権大僧正・日裕上人のもとでご奉公されていました。
弱冠27歳の時に師匠、日裕上人がご遷化され、その後は遠妙寺先住、日玄上人の御弟子として黙々とご弘通ご奉公に励まれました。
宗務支庁、本庁のご奉公もされるようになり、持ち前の責任感からまじめにつとめられ平成15年には宗務本庁、教務局長に就任されました。
平成16年秋に、不治の病、ガンに胃が冒されていることが判明。その時点で余命2ヶ月と宣告を受け、手術も受けましたが処置をあきらめて、切った所を閉めざるを得ませんでした。
そして、殆ど食べるものがのどを通らない状況でしたが、翌年のお正月、御宝前にお上げした鏡餅のお下がりをとろかしたもの(おかがみさんと称しています)を頂いてから、不思議に食欲が出てきました。
そして、余命幾ばくもないと宣告された身体にもかかわらず、お寺でのお参り、外に出ては御講の参詣、京都・宗務本庁でのご奉公を続けられました。
法華経に説かれる御利益(ごりやく)の中に、増益寿命の御利益というものがありますが、法のために身を捨てて尽くす人は、寿命が延びるという御利益をいただくということです。
余命2ヶ月が5ヶ月、6ヶ月となり、1年となり2年、3年となり、とうとう私たちは、もう治っているのではないかと思っていました。
しかし、ガンとは共存状態で、ご信心の力、強い意志の力で不惜身命のご奉公を続けられていたのです。
今年に入ってしばらくしてから、だんだん体調の良くない日が続き、入院をされるようになりました。
ところが弱音を吐かれたこともなく、常に前向きで肺が悪くなればボンベを担いでも御講にお参りしたい、足が動かなくなれば車いすでもお参りするといわれていました。
そして、平成9年から本要寺の本寺、光隆寺代務、12年から光隆寺住職としておられましたが、その間に懸案であった光隆寺本院の会館建立、立川別院の新本堂建立を果たされたのです。
今日、その新築なった立川別院で納骨がありましたが、荘厳理に本堂でご回向が行われ、中野家墓地に埋葬されました。
その人となりは、その子息、中野声栄師が「まるでやくざみたい」と表現するくらいに「強きをくじき弱きを助ける」という慈悲心にあふれた方であり、また、佛立教育専門学校理事長として会議に臨まれたとき、また、ふだんご信者に接せられたとき、いつも無私無欲で、自分を勘定に入れずに考え、行動されていました。
年齢は確かに若く、法寿66歳でのご遷化は早すぎるのですが6年という年月、増益寿命の御利益をいただいていて、成すべきを成しおわって覚悟のご臨終です。
お互いに佛立教務としてのお手本を示して頂いたということができます。
しかし、なおかつ、惜しい。もっと長生きしてご奉公していただきたかったいうのが偽らざる気持ちです。
佛立教務として、まさに教えのごとく、不惜身命のご奉公をされてご遷化された中野日崇上人の自受法楽、仏果荘厳を心より念じています。