アンパンマンかスーパーマンか

2009年12月27日 | Weblog
去年、孫が二人うまれ、賑やかになりました。
ふだんからよく来ていますが、正月は親もそろうので人口過密になりそう。
二人とも、一歳を過ぎてテレビの画面を興味深そうに見ています。
話の内容は分からなくても、雰囲気は伝わってくるのでそれなりに楽しそうです。
小さな子どもは、決まってアンパンマンが大好きです。上の孫は、アンパンマンなしでは一日が始まりません。そのお蔭で、私はアンパンマンのうたをずいぶん覚えました。もう20年以上前からアンパンマンは人気者のようですが、やなせたかしはすごいなぁと思います。
ところで、スーパーマンは私が子どもの頃、あこがれの的で毎週のテレビでの放映を楽しみにしていました。それから何代もスーパーマン役の俳優が変わりました。今もスーパーマンは人気者であることは間違いありません。
でも、なぜか、小さな子どもはアンパンマンが好きです。
なぜだろう。
何か、親しみやすいし、やさしそうな雰囲気だからでしょうか。
そんなハンサムでもないし、かっこよくはないけれどホンワカ暖かみがあります。
スーパーマンはハンサムでかっこよく、偉大です。でも、何かしら距離があります。スーパーマンには絶対、私たちはなれっこないのですが、アンパンマンなら何となく、空を飛ぶ以外はまねできそうな感じです。
厳しい修行に明け暮れ、一切の煩悩を克服して、偉大な悟りを開かれた仏様というのは、近づきがたい存在です。でも、まだ、仏道修行の見習い中のボサツは、ちょっとその気になれば、私たちでもまねができそうな感じです。
そういうわけで、インドでもボサツが人気者になったんだと気がつきました。
ちょっと周囲を見渡して、困っている人があれば助け、自分のできる範囲で人が喜ぶことをするように心がける、そんなボサツだったらなれそうな感じです。

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大ケガから奇跡的な回復

2009年12月25日 | Weblog
年末にうれしいニュースが飛び込んできました。
松本さんが大けがをしたのは7月18日でした。
地下鉄の階段から転落して頭を強打、腕、肋骨を折るというケガで、一時は生死にかかわる状態でした。
すぐ、救急車で病院に搬送されたものの、予断を許さないという状況が続きました。やがて、一命は取り留めたものの、すぐに手術もできず、しばらくはおいておくという状態でした。
やがて、腕の手術をして徐々に直りましたが、誰が来ているのかも分からないという具合で意識は回復したものの将来は悲観的でした。しかし、すぐに弟さんや娘さんなどは分かるようになり、中には分からない人もありましたが回復していきました。でも、前頭葉を打ったせいか、どうして入院したのか、今、どうしてこうして、ここに居るかが理解できず、苦しんだようです。
重要なご奉公をされた方で、私は何としてもお計らいを頂いてほしいと思いました。事故が起こった日はもちろん、翌日から大勢の方で、皆で、負傷平癒のご祈願をかけて、ずっと御題目口唱をしてきました。10月末まで御助行して、今も朝参詣の中で、ご祈願しています。
ところが、ここにきて、急激な回復をしていると弟さんより報告があり、驚いています。リハビリを指導する方がとても親切で、よくやってくれるというお計らいをいただき、娘さんたちも付き添えるときは、そばにいて介護されているようです。
よく、今では状況を理解して、伝い歩きもできるようになりましたとのこと。まだ、しばらくは療養も必要ですが、リハビリに励めば、早晩、自宅に帰ってこられるとのことです。年齢もとうに80歳を超えているし、華奢な女性ですのに、その回復ぶりに本当に驚きました。
中には、ご利益があるというなら、けがをすること自体おかしいなどと言う人があります。でも、生老病死は浮き世のならい、病気になることもけがをすることも人間なら、あって当然です。その中で、佛立信者は、危機に瀕したとき、絶望の淵に経たされたとき、御法のお計らいを頂戴しているのは紛れもない事実です。
開導日扇聖人の御指南
たすけさせ給ふ御慈悲と、たすけさせ給へと願ふ衆生の心と感応道交する時、御利生顕現する也。(開化要談4)
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房総の海 勝浦・小湊

2009年12月23日 | Weblog
21日、千葉・勝浦の佐藤さん宅に参り、御題目をあげさせて頂きました。
もう故人となられた佐藤政司さんは、平成15年9月に亡くなりましたが。平成12年まで宗務副総長をつとめ、もっぱら宗門財政をあずかり運営されていました。
もう10年以上前に宗門に危機が訪れました。
当時、よからぬことを考えて、宗門の財産を支配しようともくろんだ人が出現して、宗務本庁のご奉公をされていた人は大変な苦労をしました。佐藤さんもその一人で、宗門の財産を保全するのに努力を惜しまず、防衛に努められました。
法人局長一期、財務局長三期(副総長兼任)、合計12年の間、寝食を忘れて宗門に尽くされました。会社経営もありましたが、「屋根の下にて干物(かんぶつ)」と開導日扇聖人が仰せのように飢えて干物になっても、ご信心第一を貫こうという固い決意で京都まで勝浦から通いました。
その最期の様子は、以前にブログに記載しましたが、まことに見事でした。
現在、その夫人が一人で勝浦に住まわれています。しかし、御講や御助行となると、必ず、その子息、元一氏が東京から来られ、その支度もされご奉公に支障を来さないよう頑張っています。
元一氏は、奇術協会の理事を長年勤め、テレビにも出演したり、ホテルやその他で行われるショーに出演するかたわら、何カ所かに「マジック教室」をもち、かなりの教え子がいます。その中には、プロになった人もあります。また、マジックのネタを考えて、それを伝授するプロ・マジッシャンの先生役もしています。
「平成の手品博士」として、その名が知られています。宗門関係のイベントにもよく招かれて出演しており、知っている方も多いようです。
そして、もっとも大切な佛立信心については、子どものころからの薫陶よろしきを得て、寒夏の参詣も皆参、弘通部長もつとめたことがあります。
そして、その子息も、もう社会人として働いていて、独身ですが御本尊をお迎えして奉安、お給仕と御題目口唱に励んでいます。その子息、公一君で法灯相続四代目となりますが、大事なご信心の基本を子どものころから教えて、尊いご信心を伝承しようというこゝろざしが子孫に伝わってきているようです。
日本人はとかく、人間にとってもっともコアの部分を軽視して、失敗を繰り返してきたのですが、佐藤家の人々には教えられるものがあります。
もちろん、その間、家族中で今まで、御法様のお計らいをいただいていますが、交通事故、病気のことなど・・枚挙にいとまがありません。
佐藤家の法灯永続と繁栄を祈って帰途につきました。
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スリランカの仏教徒

2009年12月19日 | Weblog
昨日は、京都の佛立教育専門学校終業式でした。
いまの校長先生は神戸香風寺・福岡先生で、スリランカから帰国したばかりとのことでした。
ようやく、シンハラ族とタミル族との何十年来の内戦が昨年、集結して平和がよみがえりつつあり、スリランカ東部との行き来ができるようになったとのことです。
そこでスリランカの佛立信者がでかけて教化のご奉公をさせていただくようになったとのことです。
先日、福岡導師がスリランカを訪れたとき、小乗仏教のお坊さんがその東部からやってきて面会を求めました。
わざわざ小乗仏教のお坊さんが何の用で会いに来たのかなと、怪訝に思い会いました。そうすると、どうか東部の方まで、話をしに来てほしいとのことでした。
よくよく話を聞きますと、ある村で佛立宗のご信心が評判になり、拡がっているとのこと。その村で、お医者さんも手を離し、もう、葬儀の用意をするよういわれていた壊疽で苦しんでいた人がいました。病院から帰され、家にいてもその壊疽の異臭がただよい、一室に隔離されていたのですが、そこにご信者が訪れ、御本尊を御奉安。毎日、ずっとその異臭が漂う部屋に通いつめて、御助行に取りかかりました。ただひたすら本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え続け、助行を受ける方も、する方も必死にご祈願しました。そして、その壊疽で腐っているところに御供水をかけ、なおも口唱を続けました。ついに、1週間、そして10日たち、そのひどい壊疽が全快。歩けるようになりご利益を頂きました。また、そのほかにもすさまじいご利益を頂く方があり、すっかり、これが知れ渡り、次から次へと入信者が相次ぎ、それでとうとう、お坊さんまでびっくり。自ら入信を願い出て、御題目を唱えるようになったというわけ。
フィリピンでも、ロメルさんのように「すごいご利益」を頂戴する人が出現しましたが、日本に限らず、ブラジルでもイタリーでもご利益を頂けると言うことは、上行所伝の妙法御題目に普遍性があると言うこと。
日蓮聖人は、仏法が東漸・・インド、シルクロードの国々、チベット、中国、モンゴル、朝鮮、日本と東を目指して日本に移ってきたけれど、やがては反対向きにインド、そして世界全体に妙法が拡がるよう願われ、いつかそういう日が来ることを予言されていました。
いま、まさに、日本を発信地として真実の妙法の御題目が海を越え、伝わっていることは素晴らしいことです。
来年には、私たちもフィリピンに皆で渡り、まず、妙法経力を以てフィリピンの平和と人々の幸せを祈り、また、第二次世界大戦の時、フィリピンやその沖合で亡くなった日本人兵士のみならず、フィリピンの戦争犠牲者の方々の御回向をしたいと考えています。
このような巡り合わせになったのも、不思議な因縁によって、実現してきていると感じています。
今から、胸が高鳴る思いです。早く、年が明けて良い季節がめぐってくるよう、祈っています。
(写真は長崎のミニ出島)
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年賀状

2009年12月15日 | Weblog
そろそろ、年賀状を出さないとまずいなぁ。
本当はやめたいんだけど、相手からもらうので止めたくても止められないという人が意外に多いのではないかと思います。
めったに会うこともないので、安否を気遣い年賀状を出すのは良いことだと思います。旧交を温めることにもなりますし、反対に年賀状をもらうとほのぼのします。
でも、いつも会っているのに年賀状をお互いに出すなんておかしな話ですよね。
問題はどこで止めるか、どちらが止めようとするかです。
私も以前、先住がご遷化された後、喪中の挨拶の手紙を出し、その次の年には年賀状を出さなかったのです。これが潮時と思ったのですが、喪が明けた次の年になっても相手の方に記録があるので、どんどんはがきが来ました。
先輩や本当に懐かしく思った人もあり、結局、全員に返事を書きました。
日本全体で何十億枚も年賀状を出すと、紙資源を相当、費やしていると思いますが、どうなんでしょうか。
でも、ぜひ出さなくてはならない相手もあるし、困ったね。いっぺんにみんなで一度、やめようと誰か声をかけてくれないかな。
などと言いつつ、年賀状を買い込んでしまいました。


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ペット慰霊塔とペットちゃんと

2009年12月12日 | Weblog
先日、大阪清風寺の御教務1名と事務局から三人の方が来寺されました。
事務局の方はいずれも、顔見知りでもう30年も前に、いっしょに仲良くご奉公した人々で、昔話に話が咲きました。
来寺の理由は、当山のペット慰霊塔の見学ということで、遠妙寺にみえる前に一ヶ寺、そして次の日も一ヶ寺のペットの慰霊、納骨堂の見学ということでした。
そこで、驚いたのは大阪では、ペットと呼び捨て?にしないで、ペットちゃんとちゃん付けで呼ぶそうです。ホンマかいな?
ともかく、昨今のペットブームは大変なモノで、大阪も過熱気味です。
遠妙寺では一昨年、ペット慰霊塔を建立しました。要望が強かった割に、現在、あまり申込者がなく、肩すかしです。
高部チャンプ、矢花ボク、木村さくらの三名だけが納骨済み。このペット慰霊は豊島税務署に収益事業とみなされて課税されるということです。一霊2万円(僧侶のお礼込み)という超良心的なやり方で、しかも彼岸会の折にはちゃんと、墓前法要があります。かなり造営費がかかったようですが、このペースでは50年かかっても造営費の半分も出ないでしょう。
でも、驚いたことは我が家のさくらちゃんが死亡したのが8月27日ですが、その翌日、業者にきてもらい火葬することにしました。
28日、火葬に先立ち、家族皆がそろい、さらに寺内の人、何人かが参列、お焼香してくれました。みな、目頭を押さえ、涙ながらの口唱でした。
私も本当に、まぎれもなく家族が亡くなったという気持ちで、悲しい思いをしてお題目を唱え、どうぞ、来世は人界に生を受けて信者として生活し、成仏の果報に浴するよう、心を込めて御宝前に祈りました。
そして、告別の式が終わり、私の次女がさくらちゃんを抱き上げたとき、それまで固く硬直していた遺体がグニャッと急に柔らかくなったのです。
私は、このような現証は、人間に限ると思っていました。死後、人間はまもなく硬直をはじめ、そうなったらふつう、72時間から96時間は硬直がとれず、その後、筋肉が弛緩して柔らかくなります。
ところが、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経のお題目をお唱えしていたすなおな謗法の汚れないご信者は、硬直が始まらなかったり、多少、硬直していても、教務、家族、ご信者がお題目をお唱えするとガクッと柔らかくなる説明不能の現証があります。それに、色が白くなる、柔和な表情になるなど、寂光参拝の証としてそういう姿を私たちは何度も拝見してきました。
ところが、さくらまでそうなるとは。
私は、良かった、良かったと心から有難く思いました。
ペットの慰霊はぜったい、必要ですよ。
まぁ。そんな話もして、大阪からの来客と夕食をともにして、その日は別れました。
昔、いっしょに仲良くご奉公させていただいたご信者が、今も、一所懸命にご奉公させていただいている姿を見ると、懐かしいと同時に、ほっとするし、また、うれしく感じます。荒波を乗り越えて、めげずにご信心されているのはすばらしいことですね。
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謗法7

2009年12月11日 | Weblog
12月4日の続き

門祖日隆聖人は寛正5年(1464年)2月25日にご入滅(亡くなられること)になりました。
そのご入滅については、三七日忌法則(さんしちにちきほっそく)という直弟子の日学上人という方が書かれたものに記されています。
だんだんお身体が衰弱してやせてこられ、お食事も細くなり、召し上がっても吐かれたりすることもありました。2月25日の朝、給仕の僧が無理にお薬をさしあげようとすると、やや憤られた表情で、これを拒否され吐き出されたと伝えられています。
そして、唱題をしつつ端座合掌のままのお姿でお亡くなりになりました。
これは、簡単にできることではありません。
平成25年(2013年)が門祖日隆聖人550回御遠諱(550回忌)に相当しますので、本門佛立宗では、また様々な報恩ご奉公が計画され、実行されるでしょう。
門祖日隆聖人をお慕いし、そのご精神に基づいて、しっかりとご信心をさせていただき、教化、ご弘通のご奉公をさせていただくことがその眼目でなければならないのはもちろんです。
門祖日隆聖人は、謗法についてどのように捉えられ、ご教導なさっていたのかと申しますと、その主な資料として挙げられるのが「信心法度十三箇条」です。
この御指南は宝徳3年(1451年)、門祖聖人が当時、京都本能寺に住していた直弟・日信上人にお与えになったもので、それ以前から実はおしたためになってたおられたと推測されています。その後、いろいろな事情で、文明15年(1483年)本能寺から妙蓮寺(京都)にわたり納められています。
この法度とは、「はっと」と読み、掟、定めと同じ意味です。門祖聖人の門弟のみならず、当時の在俗の信者も、また、それ以降の僧俗ともに守ることが求められています。
このような法度というような制度、掟には、時代や土地柄によって変更できる可変の条項がある法度もあるでしょう。また、どのように時代が経過しても譲れない、変えることができない法度もあるはずです。
特に、この「信心法度十三箇条」は謗法についての規定で厳密ですが、門祖聖人としては将来、それを変えることなど想像もされていないはずです。
社会情勢の変化により後世の人々がもし、弘通発展を阻害するので変えてもよいであろうと思われる法度があった場合、変更しようとするならそのときの僧俗(教講)が審議して、合意の上、変えるべきものでしょう。今日の宗制(宗門の法律制度)と同じです。なし崩しに、思い思いに変えてしまうことは、すなわち、門祖聖人の御意にそむくことになるでしょう。
十三箇条すべてにわたって述べる余裕はないので一、二について言うと、まず、
第一条は
一、他宗はう法(謗法)のたう(堂)やしろ(社)へまいるべからず。同く(おなじく)仏神をおかみ(拝み)一しはんせん(一紙半銭)もくやう(供養)すべからず。
とあります。
 他宗謗法の堂社というのは、いうまでもなく、他宗諸寺院の堂社、本堂その他の礼拝施設というほどの意味でしょう。
無理に、自宗(戦前、佛立宗が法華宗に属していた時代の本門法華宗)の寺院に既成事実としてできていた三十番神や諸天善神を祀ってある社には参詣可能だという意味にとる必要性はないでしょう。
他宗諸寺院の本堂はいうに及ばず、別社勧請といって本堂の別に社を設けて善神を祀ってある場所に参拝してはなりませんという意味ですね。
特に佛立宗では、開導日扇聖人が別社勧請は厳禁とされていますから、問題外です。
まして、他宗寺院の本堂およびその他の礼拝諸施設に佛立信者が参詣するのはもってのほかの謗法となるのは火を見るよりも明らかです。
この第一条は、遠妙寺開基日彰上人の説にしたがえば、「この第一条は十三箇条の惣標、惣示の法度」であるとされています。そして、この十三箇条は厳しい内容ですが、「信者にすらこれ程の覚悟が必要である以上、指導者たる教務ならば猶更である。されば信心法度十三箇条は教講全部に対する御誡である。詳言すれば、末法今日の本門法華経を信行し成仏せんと希ふ者の必ず守らなければならぬ御掟であるといふ事を深く心腑に染め奉るべきである」(佛立教学選集348頁)
と言われています。これは本門佛立宗が本門佛立宗であるための一箇条です。
続く






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ふれあい 12月号

2009年12月10日 | Weblog
ふれあいは、大放光の姉妹紙です。
その内容は佛立宗各寺院の紹介記事や、宗門人の紹介をするもので、また、毎月、ジェイ・エム師の書評が掲載されています。
今月号は、遠妙寺で1ヶ月前に奉修された講有親教による高祖会および遠妙寺中興の権大僧正・日玄上人23回忌の様子を取りあげていただきました。
遠妙寺にとっては大変、ありがたい事で、さっそく追加注文をして全信徒に配布する予定です。
その内容の一部紹介を、あの御会式から一ヶ月経った今、もう一度かみしめる意味でさせていただきます。
全文はとても長いので、一部抜粋にとどめます。

高祖会にあわせて先住、日玄上人二十三回御忌
盛大裡に晴天・無事奉修
東京 遠妙寺

講有上人のご親教を頂いての盛儀

 第5支庁・東京中央布教区・遠妙寺(住職・木村日覚師、局長・前田三郎氏)では、11月8日、高祖会に併せて遠妙寺中興・権大僧正日玄上人二十三回御忌の法要が営まれました。
 11月8日は、まず、朝一番にご奉公者の座が当住により奉修され、7時過ぎに御法門、そしえご披露後に、ご奉公者全員の記念撮影が行われました。150名を超えるご奉公者ですが、遠くは千葉、埼玉、神奈川と関東一円にご信者が散らばっていますがほとんど、遅刻する人もなく集合しました。
9時からの第1座は熊本・長薫寺ご先住、高須日良導師がお勤めになり、前段・後段に分けて奉修いただきました。
 1座前段の御法門は高須日良上人が、後段の御法門は佛立第24世講有・小山日誠上人がご昇堂、参詣者は一心に聴聞させていただきました。第2座は講有・日誠上人がご親修、盛大裡に奉修されました。
 なお11月7日は、『前夜の座』が19時より、熊本・長薫寺御住職、高須昭因講師によって奉修されました。高須日良導師も高須昭因講師も大学、また大学院時代、遠妙寺から通学、特に高須日良導師は、23回御忌を迎えた日玄上人に親しくお仕えしてご奉公されました。また、ご遷化当時、高須昭因師は得度前でしたが、青年会員として葬儀等のご奉公をされ、ともにご因縁が深い方です。
 日玄上人については、後で詳しく述べさせていただきますが、昭和63年1月15日、法寿82歳をもってご遷化。このたびの二十三回御忌の法要では、御宝前の右側に美しい花の祭壇を設け、教講一同その法績を称え、上人在りし日のお姿をお偲びし、十七回御忌同様、講有・日誠上人、また、高須日良上人、権大僧正・伊藤日学上人はじめ出座のお教務方よりお焼香をいただきました。法嗣、木村日覚師はじめ遺弟、遺族、ご信者も盛大な高祖会の中での心こもるご回向にただ有難く感謝をいたしておりました。
 また第2座の式典では、毎年恒例の信徒加入式典が挙行され、新しく入信した信徒に当山住職より授戒の儀、入信允許状授与、記念品の贈呈が行われました。この式典はかなり、反響があり、厳かで感激したという参詣者の声を聞きました。
 続いて、教化優秀者、歴代の局長等の功労者、特志奉納者の表彰が行われました。その他、このたびの記念事業として、宝物庫の建立、御本尊等宝物の表装ご修復のご奉公をさせていただきました。
 両日の前後まで含めて6日間も晴天が続くというお計らいのもと、他寺院からも大勢の有縁の教講のお参詣をいただき、自坊の参詣数は『前夜の座』を含め540名、他寺院より教講合わせて230名、合計770名のお参詣をいただきました。
 遠妙寺では、一昨年より「関東開教日教上人百回御遠諱(第1期)・日玄上人二十三回御忌」の報恩ご奉公として、2カ年通算奉安教化百戸の誓願をもとにご奉公が展開されました。この誓願数は例年の教化誓願の2倍近い数字で、達成が難しいのではないかと思われた時期もありました。というより、1ヶ月前でも見込みがある数戸を除いて実質25戸は見込みがなく、皆がハラハラしながらお教化に奔走しました。そして見事、当日までに奉安教化106戸、個人教化48人を成就、無事に御宝前にお供えさせていただくことができました。
 御会式の中で、奉修導師に御礼言上をしていただき、特に苦労をしてお教化に走り、ご奉公させていただいてきた遠妙寺教講は感無量、何ものにも代えがたい随喜、達成感で胸がいっぱいになりました。
 今回の報恩教化のご奉公で特筆しなくてはならないことがあります。それは、昨年からフィリピンでのご弘通が盛んになり、本格的にお教化に取り組むようになって、約1年間ですが、奉安教化20戸、信徒数52人にまで達しました。最近、スリランカ、あるいはイタリアで海外弘通の様子が大放光誌やふれあい、また、佛立新聞等で報道されています。遠妙寺には、そんなご縁はないものと誰もが思っていました。ところが、まさにお計らいでフィリピン弘通の礎が築かれつつあり、日蓮聖人の「一天四海皆帰妙法」という祖願達成の一分に、このたびのご奉公が入れさせてもらえればこんなにありがたい事はないと教講ともに口をそろえて喜んでいます。このことについても、後で詳しく記します。

 なお、今回の高祖会の中でそのフィリピン弘通の経過と現況を含め、現在までの遠妙寺の略歴、日玄上人の御弘通の足跡と戦後復興のご苦労をまとめた、『温故知新』というタイトルのビデオが法要の中で放映されました。
 今回、日玄上人二十三回御忌報恩ご奉公に対し、フィリピンでの現証弘通は何か深い因縁を感じるものがあり、一番の弘通の成果としてお喜びいただけたご奉公と思われます。
 御法門は、講有日誠上人より『のりの為ひまほねをしむ人たちの 何のいのちを捨るものかは』との御教歌により、「いろはにほへとちりぬるを・・・色は匂えど散りぬるを」という「いろは歌」には深い意味があり、仏教の教えを述べたもの。その後半の半偈のために鬼に命を捧げようとした雪山童子のごとく、身命をなげうってのご奉公が大事。時間やわずかの財を惜しむようでは南無の心ではない。南無妙法蓮華経・・妙法蓮華経に帰命します、命を捧げるという事を言上している事を忘れずご奉公する事が大事とお諭し頂きました。
 また、高須日良導師より『一すぢにたもつみのりのまこと故 世に何事かかなはざるらむ』という御教歌により、初心の心をもって、これしかないと決定し、常にうまずたゆまず忍耐強く努力する事、仏様のお心、御本尊の方向を目指して、改良し増進する事が大事、願いが叶う叶わないはひとえに、願うこちら側にかかっている、決定してご奉公せよとお諭しいただきました。
 前夜の座は高須昭因講師より『くるしみてうきよの中にまよひしを はなるゝばかりたのしきはなし』との御教歌による御法門で、苦しみの根本的な原因となっている貪り求める心、貪欲に打ち勝つための御経力を頂ける御題目のご信心にお出値いできたのだから、口唱信行という信心力を起こし、そうしたご信心の中に真実の喜び、楽しみを感得できるご信者にならせていただくことが肝心と説いていただき、それぞれ熱のこもった有難い御法門でした。そして、それぞれの奉修御導師よりなお一層気を引き締めてご奉公にはげむようお折伏を頂戴しました。
 この御会式は一つの結実ですが、この日をまた、一つの起点として、教講ともども信心を本気で改良して、八年後に迫る創立百周年に向かってあらたなスタートを歩み始める決意を教講ともにさせていただいたところです。
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期末試験

2009年12月08日 | Weblog
 わたくし、佛立教育専門学校の先生として約23年、ご奉公させていただいています。
 今はもう故人となられたK先生から「君、学校で教鞭をとってほしいのだが」と声をかけていただいたのがキッカケ。
 雨の日も、晴れの日も、また昔は雪で新幹線がよく遅れたりしましたが雪の日も、それも始発でがんばって行ったりしました。もう23年です。
 教室には、卒業まで二年間、じっと我慢して勉強と修行に励んでいる若い教務さん(お坊さん)が待っています。得度してそれほど日が経っていない教務さんを失望させてはいけないと思い、なるべく授業に興味が持てるよう用意して(したつもりで)、しんどくても行きたくなくても通いました。えっ、迷惑?
 私も同じような目つきをしていた経験がありますが、教室に入ってみると、「あっ、先生やっぱり来たの。残念」とは口に出しては言いませんが、そんな表情で大勢のまなざしが私を見つめます。
 なんと、学校の経費節約のため、朝9時半から午後3時半まで同じ科目で5時間連続の授業。「教えるも地獄、聞く方も地獄」か「教えるも、聞くも天国」かはその人次第。
 最近は、さすがに疲れるので前日にホテルに泊まり、「お勉強」してから授業に臨むというまじめさ。自分で言うのも何ですがぁ・・・。実は疲れて寝てしまうことが多いのですがネ。
 日頃、そんな感じで授業を行っていますが、比較すれば聞く方は楽ですね。
 でも、今日だけは反対です。
 今まで、試験など無駄、覚えていたことなど試験が終わればすっかり忘れてしまうのだから。レポートがいい、レポートは財産として、その人の手元に勉強したことが残っていくのだから。・・・そういって試験を行ったことは少ないのです。
 でも、最近、考えが変わりました。
 何百というレポートをみてきましたが、これはというレポートは稀の中のマレ。記憶に残っているのは、四つか五つ。そういうものを書く天才級の人もいます。
 でも、私を含めてそういっちゃ何だけど、平凡なものが多いです。
 それで、今日は試験でした。今日だけは楽をしました。申しわけないなぁ。








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お歳暮とスパゲッティ

2009年12月06日 | Weblog
先日、お歳暮を贈るため西武デパートに家内について行きました。
昔は、結構お歳暮の季節になると、大勢の人出がありデパートはごった返している感じでした。今は、きわめて静かで、人も少なくチョット寂しい気がしました。日本経済の影響ですが、人情や習慣も変化してきていると実感しました。
お歳暮は家内と二人でしたが、そこに次女が加わり買い物帰りの食事をしようとパルコに行きました。夜8時から会議。ゆっくりできないので、パスタの店に入りました。
京風パスタ「先斗入る」・・「ぽんとはいる?ぽんといる」と読むのか分かりません。私一人では入れない「かわゆい」感じのお店に入り、注文。
それが美味しかったのです。「秋のキノコたっぷり、銀杏と帆立の醤油バター味?」とかいう、おすすめのスパゲッティでした。スパゲッティにあまり期待したことはなかったのですが、世の中には、こういう美味しいものもあるんだと妙に感心して帰りました。これは、おすすめです。
時々、歩いてみないと浦島太郎になるなぁ。


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