現在の北区(旧王子区、滝野川区)は、かつて軍都であった。
赤羽に陸軍被服本廠被服倉庫、西が丘の国立スポーツ科学センターには
陸軍兵器庫があって赤羽駅北方から貨物線が伸びていた。
(滝野川の高台、通称ガスタンク横から元軍用地を望む)
現在の帝京大学(板橋区加賀)や東京家政大(北区十条台)の場所には
火薬製造所と工科学校分校があった。
(現在の東京家政大)
赤羽線線路(明治18年開通)を挟んで
北養護学校、自衛隊のある十条地区に銃砲製造所、
(線路の右の兵は陸軍が建設したもの)
(陸軍→米軍→北区の施設となった建物)
川を隔てて隣接する滝野川地区、現在の王子総合高校一帯は雷汞場、
さらに千川上水王子分水と都電を越えてゆくと
西ヶ原に海軍火薬製造所があった。
(雷汞場付近の現在)
海軍火薬製造所を除く各造兵廠は軽便鉄道で結ばれていた。
戦後長らく米軍→自衛隊駐屯地だった一部土地が移譲され
軍用鉄道の軌道跡は十条台橋という橋になっている。
(十条台橋)
この軌道は火薬製造所を走ることから、明治時代の開通にもかかわらず
火の粉の危険がある蒸気機関車を避け電気鉄道として開通している。
十条台橋は板橋区と北区の境でもあって、バス停も「区界」と
そのままの名称になっている。
(国際興業バス王22のバス停)
陸軍鉄道は東進し、王子6丁目の王子郵便局や駿台学園、都立飛鳥高校や
東京成徳大高校などがある場所には火薬製造所豊島分工場、
さらに南東側、隅田川沿いに至る同じく王子分工場(火薬倉庫)まで
全ての施設を繋いでいた。
(左は王子新道、右が軌道跡)
太平洋戦争中には豊島分工場内で、鐵道省の貨物線、
須賀線と接続していたとされている。
須賀線も上記の理由から当初は蓄電池機関車が、
後年にはパンタグラフを設置する改造を受け
直流電化されたEB10という機関車が貨物を牽引していた。
なお、東京大空襲に際して、これら兵器廠付近は
爆撃の直接的被害および延焼を逃れている。
(北区中央図書館の赤レンガ:元陸軍)
赤羽に陸軍被服本廠被服倉庫、西が丘の国立スポーツ科学センターには
陸軍兵器庫があって赤羽駅北方から貨物線が伸びていた。
(滝野川の高台、通称ガスタンク横から元軍用地を望む)
現在の帝京大学(板橋区加賀)や東京家政大(北区十条台)の場所には
火薬製造所と工科学校分校があった。
(現在の東京家政大)
赤羽線線路(明治18年開通)を挟んで
北養護学校、自衛隊のある十条地区に銃砲製造所、
(線路の右の兵は陸軍が建設したもの)
(陸軍→米軍→北区の施設となった建物)
川を隔てて隣接する滝野川地区、現在の王子総合高校一帯は雷汞場、
さらに千川上水王子分水と都電を越えてゆくと
西ヶ原に海軍火薬製造所があった。
(雷汞場付近の現在)
海軍火薬製造所を除く各造兵廠は軽便鉄道で結ばれていた。
戦後長らく米軍→自衛隊駐屯地だった一部土地が移譲され
軍用鉄道の軌道跡は十条台橋という橋になっている。
(十条台橋)
この軌道は火薬製造所を走ることから、明治時代の開通にもかかわらず
火の粉の危険がある蒸気機関車を避け電気鉄道として開通している。
十条台橋は板橋区と北区の境でもあって、バス停も「区界」と
そのままの名称になっている。
(国際興業バス王22のバス停)
陸軍鉄道は東進し、王子6丁目の王子郵便局や駿台学園、都立飛鳥高校や
東京成徳大高校などがある場所には火薬製造所豊島分工場、
さらに南東側、隅田川沿いに至る同じく王子分工場(火薬倉庫)まで
全ての施設を繋いでいた。
(左は王子新道、右が軌道跡)
太平洋戦争中には豊島分工場内で、鐵道省の貨物線、
須賀線と接続していたとされている。
須賀線も上記の理由から当初は蓄電池機関車が、
後年にはパンタグラフを設置する改造を受け
直流電化されたEB10という機関車が貨物を牽引していた。
なお、東京大空襲に際して、これら兵器廠付近は
爆撃の直接的被害および延焼を逃れている。
(北区中央図書館の赤レンガ:元陸軍)