自分は今後、源氏物語を読むことはおそらくないでしょう。
でも助川幸逸郎さんの書いた『光源氏になってはいけない』という本は面白く読みました。
源氏物語は1000年前の平安時代の話なのに平成の世の日常に役立つのです。
『源氏物語』を、「なってはいけない」大人の事例集として読み解いたこの本は、かなり見っけモンです。
女たらし、ロリコン、マザコン、回避依存症、自惚れ、官僚体質、リーダー失格 、ネグレクト、格差社会、オタク……など
・・・源氏物語はこのすべての要素を持っていると書かれています。
超セレブで激モテの光源氏は、なぜダメな生き方しかできなかったのでしょうか?
そして千年以上も昔に、これだけ広がりをもって解釈できる源氏物語を生んだ紫式部の凄さに改めて関心させられました。
『八百よろずの神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ という歌を詠みます。/「八百万もいる、日本中のあらゆる神も私に同情するだろう…」という意味です。』
これが間違いです。「八百万」は百万の八倍のように書いてありますが、そうではありません。「万」は「よろず」とも読み「すべて」を表すのですから、百万の八倍であったらもっと少ない数になってしまいます。
「百」には「多い」という意味があります。「百姓」はもともとは農民ではなく「多くの人民」という意味でした。「八」は「七」と「九」の間の数ですが、「程度が大きい」という意味もあります。「八百屋」は商品の種類が八百もあるからではありません。多くのものを商うがゆえに「八百屋」なのです。
「八百万」はその延長線上にある言葉ですから、数学的に表すと「もっと大きい」×「多くの」×「すべて」=無限大 ということになるでしょう。日本の伝統的な考え方によれば、数え切れない神々が存在したのです。
また昔々は人は死んだら神様になると考えられていました。奈良時代の日本人口は三十万人という説があります。三世代の日本人がすべてが死んだら神様が三十万増えます。だとすると九十世代の人が死んだら神の数は八百万を上回ってしまいます。実際は人口増加があり、その前に人間の数が神の数(百万の八倍だとして)を上回ってしまいました。たとえば戦国時代の日本人口は千五百万だったそうです。
「八百万神」を「やおよろずのかみ」と読めばいいものを、「八百万もいる、日本中のあらゆる神も」と表現したらやっぱり百万の八倍になってしまいます。
一般に学者は自分の誤りを認めません。認めたら自分の値打ちが下がると思っているようです。学者は「男らしい」とか「潔い」という価値観で生きていないからでしょう。
仮にこの指摘を読んだとしても、おそらくは「これは、ヤオヨロズもいる、日本中のあらゆる神も、と読むのだから矛盾しない」などと強弁するのではないでしょうか。
そういうのが学者のいやらしさです。