明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



自分の中に浮んだイメージはどこはいってしまうのか、確かに在るのに。それを取り出し、やっぱり在ったな、というのがそもそもの私の制作の動機である、などといっているが、イメージ、記憶は曖昧なもので、じつにいい加減な物である。昔、国際プロレスという団体があった。先行する日本プロレスとは違う独特の趣があったのだが、小学生の頃、日本人側として参戦していた黒人選手がいて、それがベトナム戦争の為に兵役につかなければならない、と引退セレモニーをリング上でやった。と思い込んでいたら、そんな事実はなかったことがフェイスブックで判明しビックリした。その時の神妙な様子などが記憶にあったからだ。夢で見たのか、そのストーリーを小学生の私が作り出した、ということになるのか。いやはや。 私の見る夢は、特徴があるとすれば、キャスト、シチュエーションなど突拍子なくとも、私は私らしいことしかいわないし、行動も同様である。つまり犯罪の犯し方も私らしいし、逃走の仕方もいかにもである。夢というものは、長く感じても存外短い時間だという。だとしたら夢の書き手はたいしたものである。瞬時に、忘れていたような小学生時代の同級生などをキャステイングし、ストーリーを仕立てる。 中学生の時SFマガジンで、人類滅亡を前に一つの脳髄が宇宙空間に放たれ、電気的刺激によって、様々な人生を生きているつもりで宇宙空間に浮び続けている、というような話がとても怖かった。

HP

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