△北のカナリアたち(2012年 日本 130分)
staff 原案/湊かなえ『二十年後の宿題』 監督/阪本順治 脚本/那須真知子 撮影/木村大作 美術/原田満生 音楽/川井郁子 編曲・音楽監督/安川午朗
cast 吉永小百合 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮あおい 小池栄子 高橋かおり 藤谷文子 石橋蓮司 塩見三省 松田龍平 柴田恭兵 仲村トオル 里見浩太朗
△20年前の宿題
とかいわれるとなんとなく抒情的な感じがするんだけど、これはないわ~。
ぼくはその昔、かなりのサユリストだった。だから、こういう意見を吐いてもいいだろう。
末期癌の旦那がいて、その転地療養のために実家のある北海道最北端の離島にやってきてそこの分校の教師をしながら暮らしていたっていう設定からして、ちょっと待ってよとおもったりする。だって、もう旦那は余命いくばくもないんでしょ?だったら、もうすこし気候の温暖なところで過ごさせてあげたいっておもわない?それとも吉永さんは柴田恭兵にさっさと死んでもらいたいとはおもってたわけ?と聞きたくなっちゃうじゃん。
分校の先生をして、子供たちの合唱を見ていくってのはいい。なんだか『二十四の瞳』みたいだけど、ちょいと比べるのはきついかもしれない。
けど、そんなことはさておき、この作品はきわめて陰湿な話なんじゃないかっておもうんだよね。
人間の心の奥底はわかんないんだけど、やっぱり吉永さんは夫殺しをたくらんでたんじゃないかって気がする。末期癌の人間をさいはての島へ連れていって、なかば放っておくようなことをすれば死期を早めるのは自明のことで、そんな夫がいるにもかかわらず、若い刑事くずれの警官仲村トオルと不倫するんだから、もはや、夫への愛情なんてものは冷め切ってる。夫もそれがわかってるもんだから復讐心に燃えててっていうより、怒りに任せて犬を殺したりするほど心が捻じ曲がってるもんだから、海辺でバーベキューしてるときに「愛人に逢いに行ってこいよ」とかいって吉永さんを送り出してまもなく海へ飛び込む。
生徒と助けるとかそういう人道的なことじゃなく、もはや自殺に近い。
腹いせだよね。
で、田舎の人間ってのは口さがないから、旦那をおいて不倫しているすきに旦那が自殺まがいの死を迎えたっていう事実が島中に広がる。当然、島にはいられないよね。ここでおもうのは、子供たちにしてみれば裏切られたっていうおもいが強いわけで、いくら先生のことが好きでも、自分たちをおいて乳繰り合ってたばかりか、その間に旦那が死んじゃったりした教師をいつまでも好きでいられるんだろうか?そのあたり、まるで現実味がない。やっぱり『二十四の瞳』にはおよばない。
で、20年後だ。
どうして成長した生徒たちはみんな自分たちを裏切った先生に対して素直なんだろう。いや、それどころか、先生もまたなんで反省の色が見られないんだろう。子供たちの心配をしてるお節介な元先生って感じにしか見えなくて、そもそも生徒たちの心に深い傷をつけたのが自分だっていう意識がほとんど見られない。こういう演出はないわ~。それと、現代が舞台になったとき、吉永さんは一挙に脇役になっちゃうんだよね。そりゃあ子供たちのつながりの話になるんだから仕方ないにせよ、どうしてみんながみんな画一的なんだろね。
吉永さんがいつまでも綺麗なのはわかる。
20年前を演じるための若づくりもまあいろんな意見はあるもののやっぱりたいしたものだ。
けど、いつまでも可憐でいいはずがない。島を追われ、図書館の司書になって人目を避けるように暮らしてきたんなら、もっとぼろぼろになってて、髪も真っ白で生活ももうちょっと惨めな感じでいた方がよかったんじゃないかしら。モデルルームのような綺麗なマンションに棲んで、引退して悠々自適に棲んでる独身元教師に見えちゃう。過去の自分のしでかしたことへの戒めもないし、島の暮らしは忘れ去られてるし、だいいち、置いてきた父親の里見浩太朗との関わりはどうなってんだろう。つまり、吉永小百合という映画女優を汚すことはご法度なのだね。そのために、どんな汚れ役であろうとも綺麗にしないといけないような不文律ができちゃってるのかもしれない、それも製作者側の無意識の内で。恐ろしい話だ。
でもさ、ほんとうに吉永さんのことをおもって、欧米の映画に負けないようなリアリズムの映画を作ろうとするんなら、とことんまで老けメークをして、みじめな環境に追い込んで、自分の不倫中の夫の自殺はなかば夫殺しともいえるような自戒の中で生きてて、かつての教え子を訪ねてもけんもほろろの扱いをされて、それでも生徒のことが心配だといったら「この偽善者がっ」と怒鳴られるくらいな役どころでないとダメだったんじゃないかっておもうんだよな~。
ま、余計なお世話かもしれないけどさ。