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ダンスとか。

videodance2006 week 1 session 1

2006-05-13 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『ピナ・バウシュが65歳以上の男性と女性を探しています』('02、リロ・マンゲルスドルフ監督)
Pina Bausch cherche hommes et femmes de plus de 65 ans, film direction by Lilo Mangelsdorf.
『コンタクトホーフ』制作の舞台裏を追ったドキュメンタリー。65歳以上とはいっても50代の人も入っていたりするようだ。ヴッパタールのダンサーが、(基本的には)アマチュアの人々にみっちりと振付をする。身体能力面での訓練は特に必要なく、ただ覚えれば踊ることができる。振りやアクションのそういう簡単さ、卑近さがポイントだろう。ダンシーな身体の状態を生じさせることと、能力を高めることとは本質的に関係がない。ダンスの楽しみは、「できる」とか「できない」とかいった基準とは全く別の次元に属している。しかし、ということは、能力を「高めない」こととももちろん関係がないはずだ。バウシュのこの企画にポストモダンダンスの「デモクラシー」と相通じるものがあることは確かだが、バウシュは反能力主義的なルサンチマンの隘路をもさらりとすり抜けているように見える。むしろ老いた身体をその固有の特性において活用して、特殊なダンスを作り出す。
▼『コンタクトホーフ』('02、ピナ・バウシュ振付・監督)
Kontakthof, choreography and film direction by Pina Bausch.
上記の「高齢者版」の記録映像。最近、80年代に上演された『コンタクトホーフ』を、『山の上で叫び声が聞こえた』などとともにヴィデオで見て、いかにこの時期のバウシュが独創的なダンスを作っていたかがわかったのだが、同時に、「一見ダンスらしからぬところにダンシーな質を発見し増幅する」というその手法が、ぼくが初めてバウシュの舞台を見た96年(『船と共に』)の時点で既に形骸化していたということもほぼ確信できるようになった。70年代末から80年代にかけてのバウシュの舞台では、様々な「行為」が(別に「反復」などしなくても)全く不思議に「ダンス」として成立しており、(カメラや編集の効果を割り引いても)風船の膨らむ速度と割れるタイミング、ダンサーの出ハケ、音の入り方、ギャグの滑り具合、客席に向けたニヤニヤ笑いまで、一切が音楽的なリズムで構成されている。これ以前のバウシュとも、以後のバウシュとも違うこの非ダンス的なダンスは、しかしおそらく徐々に、個々のダンサーのキャラクター(人格)性へと回収されていってしまったのではないかと思う。例えば小柄な女性がノシノシと袖から現れる動きの、大きすぎる歩幅や速度や体のこわばり具合が面白かったのに、一方ではダンサーが巧くなりすぎて「芸」にしてしまい、他方で観客はそのダンサーが出てくるだけで笑うようになった。純粋な身体運動から、ベタついた人間的な馴れ合いになった。だからそこで、アマチュアの無名の老人たちによって「蘇演」するというアイディアは納得できる気がする。実際それなりに長い作品で運動量もあるので、本当にヨボヨボの老人が出ているわけではなく、何人かはかなり本格的なダンス(表現主義風の振付)を見せる。しかしやはり老人特有のギクシャクとした動き、またそれ以前に明らかに舞台慣れしていない挙措(立ち姿からして全く頼りない)が、振付そのものが目指しているダンスの網の目を縫うようにして顔を出す。作品本来の振付けられた運動と、神経や筋肉の機能不全など身体内部に生じる様々なトラブルに起因する運動が、緩くつなぎ止められ、互いを侵食し合うようにして同時進行するため、どこか微妙に調子が外れていながら、それでいてダンシーな質は保たれるという異様な事態が生まれるのだ。予測不可能なタイミングで長い停滞が起こったり、唐突に勢いが跳ね上がったりする老人の動きは、もちろん老人でない者にとってはスリリングだが、本当に怖ろしいのは、老人と老人の間でも決してタイミングは合わないということだろう。成熟し安定した成人の身体、あるいは発達の過程にある子供の身体ならばともかく、衰えゆく身体はそれぞれに多様な滅び方をしており、ヴェクトルを共有していない(「死」は「生」の否定に過ぎないので、「生」以外の全てのヴェクトルは自ずと「死」へ通じている)。こうして、コミュニケーションもままならない、名もなき身体の群れによって、バウシュは再び運動を「人間」から取り返しているように思える。撮影の関係によるものかも知れないが、照明の当たっている何人かの背後の薄暗い空間で複数の男女が鈍重に蠢いているさまなど実に不気味で、しかもその不気味さが今日の身体のありようを鮮やかに照らしている。ピナ・バウシュはヴッパタールのカンパニーなどに固執していないで、もっと自由に創作をすればいいのではないかと思った。
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