dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

videodance2006 week 1 session 2

2006-05-13 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『古びた身体のための新しいムーヴメント』('03、マルコ・ベレティーニ振付・監督)
New Movements for Old Bodies, choreography & film direction by Marco Berrettini.
舞台の記録映像。清掃員、芸者、パンダ、ホットドッグ(?)などのキャラクターが次々に現れて、喋ったり歌ったり、馬鹿馬鹿しいアクションを行ったりする。こういうのは本当にヨーロッパでよくあるパターンだが、一体どういう人が好んで見ているのだろうと思う。
▼『コムクラン、コムカルト』('05、クリスチャン・リゾー振付、アルノー・エムリー監督)
Comme crane, comme culte, choreography by Christian Rizzo, film direction by Arnaud Emery.
中庭のような空間で行われたソロの記録映像。全身黒づくめのライダー(ヘルメットの下の顔も布で覆われている)が、ゆっくりと体を動かして姿勢や位置を変化させていく奇妙な作品で、謎めいた雰囲気が身体表現の強度とかみ合ってとにかく面白かった。全身が真っ黒だから、少し妙な姿勢を取ったりするだけで、どこがどうなっているのかよくわからなくなる。背中側に両腕を真っ直ぐ伸ばして後ろ向きに歩いて来たりするところも怖いが、床に身を屈めるだけで、腕と脚は簡単に入れ替わり、脚が頭から生えたり、脇腹から肘が伸びたりする。しかもそれが緩慢に切れ目なく変形し続ける。単なる全身タイツでなくライダーの扮装をしている辺りにも、具体的なイメージと抽象的なフォルムとの間の不安定な行き来を強調するポイントがあるが、踊っているジャン=バティスト・アンドレはサーカス出身で、肘を曲げた倒立の状態でなおもゆっくりと均質な速度で動いていったり、崩れそうなバランスがじわじわと回復されていったり、超絶技巧をこれでもかと見せつけ、その技巧が錯視的なイメージを根本のところで支えている。細かな筋肉の動きと震えがはっきりと目に見え、それでいてそこがどの部位だかわからなかったりするこの強烈なエロティシズムは、ダンス的だなと思う。屋外の自然音(木々のざわめき)の他に、少しだけ音楽(70年代くらいの歌)が入る。撮影は、全身が映るロングショットと、バストショットの二台のカメラで行われていて、画面が細かく切り替わるが、編集の意図は明確で、作品の性質にフィットした重厚感が醸し出されている。
▼『ヤン・ファーブル、雲を測定する男』('03、カロリーヌ・ヘルテル、マリアナ・モミロヴィッチ監督)
Jan Fabre, l'homme qui mesure les nuages, film direction by Caroline Haertel, Mirjana Momirovic.
ドキュメンタリー。前半はヤン・ファーブルの美術や舞台の制作の様子など、後半はファーブルが友人のアーティストたちを招いて、食事をしながら議論を闘わせる。まず前半で圧巻なのはブリュッセル王宮の広間の天井からシャンデリアまでを緑色に輝く甲虫の羽でびっしり覆うプロジェクト。圧倒的に美しい視覚的インパクトもさることながら、「完全な自由(裁量権)」を条件に王室から仕事を引き受けているというシチュエーションが凄い。王妃がシャンデリアの方を指差して「先端のクリスタルは残すの?」と微妙に不安そうな顔で聞いても「いいえ全て覆ってしまいます」とあっさり答える。この世にここまでコテコテな西洋ハイカルチャーが生き続けている場所があるとは思わなかった。つまり古典主義や古典的教養によって俗人からの差別化を図るとかそういう形式的な仕方によってではなく、端的に「高い」価値を讃えたり、所有したりするということが、社会構造的にできてしまうという意味だ。ファーブルが昆虫などを使うのも、ただ昆虫が好きで、美しいと思うからそうしているのだということが結果的に「美」として判明に示されてしまっている以上、むしろ昆虫を嫌悪する無根拠な共通感覚の方こそが退場せざるを得ない。とっくに評価の定まった芸術家をわざわざ呼びつけて、実は褒賞する側の権威を確保していたりとか、凡人が権威を傘にきてマスメディアに持ち上げられるとか、そういう貧しい世界ではない。美的判断が指し示す「高さ」が常識を圧倒する、ほとんど空々しくなるほど「理想的」な価値の世界。だからこのドキュメンタリーが、オープンカーで夜の街を走ったり、郊外の古城みたいな所でデッサンを描いたりするファーブルを映すと、つい失笑したくなってしまう。しかし画面はあくまでシリアスである。インド映画とか、アジアのアイドル歌手のプロモーション・ヴィデオみたいだ、という想念もよぎる。しかしこの価値の「高さ」は、そんなことで揺らぐものではないだろう。後半で登場するファーブルの友人は、マリーナ・アブラモヴィッチ、ヤン・フート、マイク・フィッギス、エミオ・グレコ、それとファーブルの舞台に出演している女優のエルス・ドゥククリア。「芸術家は何を探求するのか」とか、「観客は何も理解しない」とか、ここでもまた恐ろしくアナクロニスティックな議論が平然と展開される。色々な意味で怖い。
▼『オウムとモルモット』('02、ヤン・ファーブル振付、クリス・ヴァン・エルト監督)
Parrots and Guinea Pigs, choreography by Jan Fabre, film direction by Kris van Aert.
舞台の記録映像。一羽のオウムと、オウムに似た衣装の女性がいて、他に数人の男女が、巨大なグロテスクな動物の着ぐるみと暴力的かつエロティックに絡み合う。あまり展開がないまま二時間近く続くので退屈してしまったが、舞台で見たらどうなのか分からない。動物的なものに対するファーブルの関心は一貫しているが、『劇的狂気の力』にせよ『時間のもう一つの側』にせよ、ぼくの知っている限り舞台作品は徹底して人間の身体を、それそのものとして扱っている。この作品でも動物はあくまでもパロディの対象として現われ、それによって動物そのものではなく動物と人間の境界を人間の側から眼差す。想像されたものとしての「動物」ないし「動物性」が主題になる。
▼『ア・テール・オブ』('05、勅使川原三郎、ラヴィ・ディープレス監督)
A Tale Of, direction by Saburo Teshigawara, Ravi Deepres.
森と、廃墟じみた古い洋館を舞台に撮影したイメージ的な映像。佐東利穂子と宮田佳が出演している。画面のクオリティはともかく、いかにも作り手が自分の美意識に陶酔している感じがひたすら若々しい。
▼『C‐ソング01』('03、ヤン・ロワース監督)
C-SONG 01, direction by Jan Lauwers.
ニード・カンパニーの振付家による映像作品。浜辺に二組の父子がいて、子供同士が喧嘩して一方が気を失ってしまうという顛末が、波のショットを織り交ぜながら取り留めなく映し出される。これだけの素材で10分間持たせるにはそれなりの技巧が必要だと思うが、ショットの構成を見る限り、ロワースは素人としか思えない。またそれとは別に、どこがダンスなんだろうという風にも思う。最も安易な答えは、画面の動きがダンスなのだというやつだが、あらゆる映画は動いているのである。「動き」と「ダンス」の違いはどこにあるのか?
▼『テンプス・フュジット[逃げてゆく時間]』('05、シディ・ラルビ・シェルカウイ、Les Ballets C. de la B.振付、アナイス・スピロ、オリヴィエ・スピロ監督)
Tempus fugit, choreography by Sidi Larbi Cherkaoui, Les Ballets C. de la B., film direction by Anais & Olivier Spiro.
『ダヴァン』の四人組の一人であるシェルカウイの振付作品を、ロケ撮影で映像化したもの。この人は名前からしてどういう出自なのかよくわからず謎めいているが、今ヨーロッパで確実に台頭している。とにかく面白かった『ダヴァン』と同様この作品も無国籍風で、タブラが鳴っているなと思いきや画面はアラブの家屋、そうかと思うとやはりインド系の女性がヴェランダから顔を出していて、中庭では男女がタンゴを踊っている。次の場面では、赤土の上で焚き火を燃やしながら、スーツの男が低い姿勢でのジャンプなどハードな動きで踊る。さらにはイスラムのスカーフをつけた女性がベリーダンスを織り交ぜつつ、ここでもフロアを多用した独特の振付になっている。バレエ的なフォルムの美学とは異質な、リズミカルで粗野なシェルカウイのムーヴメントはあまり見慣れないもので、何か典拠があるのかも知れないが、明らかにリリースによって体のしなりや四肢のスイングが増幅されていて、一定の手法が練られている。エキゾチックなものに対してどういうスタンスで関わっているのかということにも興味を惹かれる。
▼『狼』('04、アラン・プラテル、Les Ballets C. de la B.振付、ペーター・シェーンホーファー監督)
Wolf, choreography by Alain Platel, Les Ballets C. de la B., film direction by Peter Schoenhofer.
舞台作品をヴィデオ用に(おそらくスタジオで)撮影したもの。画面に若干のエフェクトが加えられている。セットも、生演奏も、衣装も、人々の生活している様子をそのまま演劇的なパフォーマンスに仕立てているコンセプトも、2000年に東京で見たプラテルの初来日公演『バッハと憂き世』と非常によく似ている。音楽はモーツァルト(WOLFgang Amadeus Morzart…)。ダンスに何も新しいものはなく、プラテルはぼくにとって本当にどうでもいい存在。2時間以上あったが30分ほど見て脱落。
コメント    この記事についてブログを書く
« videodance2006 week 1 sessi... | トップ | videodance2006 week 1 sessi... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ダンスとか」カテゴリの最新記事