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ダンスとか。

videodance2006 week 1 session 3

2006-05-15 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『生きるためのコスト』('04、ロイド・ニューソン/DV8フィジカル・シアター振付・監督)
The Cost of Living, choreography & film direction by Lloyd Newson.
下半身のない男と、下半身のある男が主人公で、ダンスとドラマが一体となったDV8らしい作品。人々の好奇の視線に対して提示される、下半身なしのダンスが、低いアングルからのショットによる健常男性の群舞(上半身だけのダンスに見える)へと移行したり、移動用の台車のようなものを使って二人が軽快に疾走するなど、映像作品としてよく出来ている。しかも単なる福祉・啓蒙ではない。男が自分の彼女のダンスがいかに凄くて面白いかということを、友人に自慢(?)するシーンが中盤にあり、そこでこの男の方はどうも調子に乗り過ぎて、まるで彼女を見世物ででもあるかのように、からかい半分に扱って彼女を怒らせてしまうのだ。ここで彼女が受ける不快感は、とてもリアルだが言葉では何とも説明しづらい感情で、やはりダンスに関わっている人たちならではの作品だなと思う。要約してしまえば、人を能力において評価するという点で、彼のやっていることは下半身のない彼の友人に向けられた人々の侮蔑と何ら変わらない、ということになる。だからこの作品は、弱い者を守ろうとすることで守る側の価値観を絶対化することなしに、身体を能力(既存の、相対的に「公共的」な価値)へと還元すること自体を拒否せよと主張しているように思う。このスタンスは例えば稲葉振一郎の「資本」論と微妙な関係にあるだろう(ダンスもまた能力や価値といった関数から決して無縁ではありえないのだ)。
▼『母/大地』('04、アクラム・カーン振付・監督)
ma, artistic direction by Akram Khan.
先月NYで見たのと同じ舞台の記録映像。2004年9月の台湾公演らしいが、どういうわけか精彩に欠けるパフォーマンス。先月見た時は、振付の面白さに興奮したし、カタックもできてコンテンポラリーもできるダンサーをどうやってこんなに集めたんだろうと思ったり、ダンサーとしてのカーンのズバ抜けた動きに目が釘付けになったりしたが、この映像ではあまり変わったことをしているようには見えず、カーンのソロが終わった辺りで見るのを止めてしまった。この公演から1年半でダンサーが成長したのか、あるいはカタックは動きの方向を幾何学的に使うため、カメラで切り取られることで舞台の空間性が死んでしまっていることも致命的かも知れない。
▼『招かれた者たち』('04、メグ・スチュアート振付、ジョナサン・インクセッター監督)
the invited, choreography by Meg Stuart, film direction by Jonathan Inksetter.
舞台作品を元に作られたイメージ映像的な作品。メグ・スチュアートは本当に注目されているようだが、ぼくの知る範囲では振付家というよりフィジカルシアター的な演出家ではないのかと思う。演劇的な設えなしで作った純粋な振付作品は、バリシニコフのホワイト・オーク・プロジェクトからの委嘱による『Remote』(97年)をヴィデオで見たことがあるけれども、ダンサーたちがバレエのアティチュードから崩れていく動きを延々と続けるだけだった。このヴィデオも、室内のような空間で様々な日常の衣装を着た人々がずっと叫んだり暴れたり倒れたりしている。大雑把にいって「器官なき身体」のようなものへ向かおうとするのは世界的な傾向なのだろうが、これならむしろ黒田育世などの方がまだ手が込んでいるのではないかと思ってしまう。「器官なき身体」へ向かうことは誰にでもでき、そして現実にそういう身体に到達することは原理的に不可能なのだし、むしろ不可能な理念とどういう関わり方をするかという戦術が「振付」や「方法」なのだといえる。ここをスキップして「器官なき身体」の様々な表象(イメージ)を作り出すことはいくらでも可能で、ドラマトゥルクなどを駆使してコンテクストを立てれば「批評的」な言説で際限なく戯れることができるだろう。ただそんなものを見にわざわざ劇場まで出かけて、一時間なり二時間なり自分の体をそこに置くことに何の意味があるのかがぼくには理解できない。ダンスを見る時は、ダンサーの身体から自分の身体へとアフェクトされたい。単なる騒がしい動きではなくて、思わずグッと来るようなレトリカルな動きが欲しい。
▼『悪いけど、その辺を一回りしてきてくれる』('01、マルコ・ベレティーニ振付、メルク・プロダクション監督)
Sorry, do the tour!, choreography by Marco Berrettini, film direction by Melk Prod.
記録映像。昨日も見たベレティーニの、もっと前の作品で、ディスコをパロディにしている。よくあるディスコ・ダンスの振りを崩してユニゾンにしたり、ダンサーが一人ずつ現われて、でも踊れなかったり、というようなことを、どうも劇場ではなさそうな空間(本物のディスコかも知れない)でやっている。音楽はかかりっ放しで、照明もおそらく観客席まで一様に。なのにダンスは生硬なパロディであって、観客はそれを踊らないで見ている。劇場とディスコの違いをもう少し真面目に考えるべきじゃないのかと思った。
▼『身体』('00、サシャ・ヴァルツ振付、ヨルグ・イェシェル監督)
Koerper, choreography by Sasha Waltz, film direction by Joerg Jeshel.
ヴァルツといえば『宇宙飛行士通り』しか知らなかった頃、ドイツ文化センターでこの映像の一部を見てビックリした記憶がある。今回ようやく全体を見ることができたが、映像作品として綿密に仕上げられているためにかえって実際の舞台がどんなものだったのかはよくつかめなかった。とりわけ人体の皮膚や、これといって名前の付いていないような任意の部分の肉に指を食い込ませながらつかんで引きずるなどといったシーンのインパクトは、ライヴでは、仮に間近で見ていたとしてもこれほど衝撃的ではないだろう。クロースアップのままカメラが対象を追い続けてくれるからこそ、握り締められた皮膚の表面に見たこともない形状の肉塊が生み出される様を十分に凝視できるが、舞台では、近ければすぐに通り過ぎて行ってしまうし、遠ければ想像力で補うことになり、いずれにしても「痛々しさ」の記号的な了解で終わるに違いない。またこの映像は、出来事と出来事の関係を編集で巧みに組み立ててもいるので、空間的な配置がどうなっているのか、作品内を流れる時間がどんなものなのかもよくわからない。おそらく舞台と映像との差異が比較的小さいのは視覚的なイメージ(表象)を駆使した部分で、後ろを向いた女性の両脇からたくさんの手が伸びて、彼女の背骨に沿って白い皿を重ねるように並べ、一定のリズムでそれを左右に動かす、というシーンは面白かった。カチャカチャと音を立てながら背骨が解体されては元に戻るという、マンガチックかつ不気味なイメージが、見ているこちらの身体を侵食して来て、体の奥を直接「やられる」ような迫力がある。このシーンからは、イメージ(表象)が、運動することによって静的な記号性を超え、エロティックな知覚の対象にまで高まってくることがあるのだということを教えられた。ただ背骨に沿って皿が並べられているだけでは、それを「背骨」として考えることすら難しいと思うが、しかし皿の列がバラバラになり、また一直線に並び、再びバラバラになる、という運動、つまり列とその解体の往復運動がリズミカルに構成されることで、「背骨」と「解体された背骨」のイメージとが同時に並行して立ち上がってくる。ここでは、運動は、皿の二様の配置の間をつないでいるのみならず、現実(皿)と非現実(背骨)の間を媒介する構想力にも関与しており、認識(表象、イメージ、記号など)がいかに運動によって変化を被るか、そして運動がいかに認識を形作るかということを示しているだろう。客席に向かって、何かを回想して語りながら自分の体の部位を指差していくシーンも、同じく観客の身体のイメージに揺さぶりをかける。太腿の内側を指差して「耳が」と言ったり、脳天を指差して「腹が」と言ったりするだけで、身体とそこに貼り付いた言語秩序が動揺する。ここでも効果的なのは、「指差す」という行為の運動性(手が動くというリテラルな意味ではなく、多くの中から一つを選び出すという身振り自体が、その「一」の選択を支える「多」との相関関係にあるという意味での運動性)だ。ダンスとはいつもこんな風に、身体のイメージを変容させ、多様な変容可能性の基底にある形なきものの姿を露呈させる運動なのではないかと思う。
▼『アバウト・ノーボディ[サシャ・ヴァルツ「ノーボディ」をめぐって]』('02、アナイス・スピロ、オリヴィエ・スピロ監督)
About noBody, film direction by Anais & Olivier Spiro.
『noBody』はドイツ文化センターで全編の映像を見たことがあるが、これはアヴィニョンでの上演を準備する過程を追ったドキュメンタリー。ヴァルツはいつまでも少女みたいな人で、この映像でも可愛いワンピースを着てダンサーたちに振付をしている場面があって可笑しかった。
▼『ウムヴェルト[環境]』('04、マギー・マラン振付、ジャン=フランソワ・グレレ、ジェラール・セルジャン監督)
Umwelt, choreography by Maguy Marin, film direction by Jean-Francois Grele, Gerard Sergent.
舞台の記録映像。縦長の黒い板と鏡とが交互にいくつも並べられ、その間にダンサーたちが見え隠れしながら、小さな動きを見せたり、衣装や道具が変化していたりするというもの。実際の舞台で見るのならまだしも、映像でこれを一時間も見るのはつらかった。わざわざドイツ語でタイトルをつけていることから、フォン・ユクスキュルを参照しているのだろうと思うが、何かそれらしい解釈を試みようにも細部に眼を凝らすことができず、ひたすら変化を待ちながら忍耐するだけで終わってしまった。
▼『タデウシュ・カントールの演劇』('88、ドゥニ・バプレ監督)
Le Theatre de Tadeusz Kantor, film direction by Denis Bablet.
概説的なドキュメンタリー。とてもよくできていると思う。しかしなぜかカントールにはどうしても興味がもてない。『死の教室』をヴィデオで見て、あと確か昔セゾン美術館でやった展示も見た記憶がある。舞台に演出家本人が出てきたり、メタファーやアレゴリーを駆使した舞台装置など、目につくポイントは多いのだが、何か根本のところで入っていけない。
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