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ダンスとか。

videodance2006 week 2 session 2

2006-05-20 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(映像ホール)。
▼『透明迷宮』('06、笠井叡、高橋悠治構成・演出、たきしまひろよし撮影)
今年1月に国分寺いづみホールで行われた公演の記録映像。笠井は白塗りに白いジャケット。かなり広い舞台の下手隅にピアノ、照明は素明かり。笠井の踊りは、全く非視覚的であると思う。つまり目に見える体が問題なのではなくて、体と相関する意識の方にフォーカスがある。見た目の形というものはあくまでも副次的な「現象」に過ぎず、たとえそれが不格好でも、不完全でも、形をそれとして整えたり洗練したりするより、体の物理的な操作を支える意識の操作や遊動、ドライヴにダンスの中心があるように思う。観客もまたそこに焦点を合わせることができる。目に見える形ではなく、そこへ向かう力を見る。こういうダンスを、他の様々なダンスとひと括りに「ダンス」と呼ぶのが妥当なのかどうかわからない。笠井の踊りを見ていて本当に引き込まれるということはごく稀にのみ起こるのだが、その原因の一つには、見ていて非常に疲れるということがある。とにかく視覚的な情報を押し退けて、その向こうで動いているものに焦点を合わせ続けなければならない。またほとんど常に、笠井の意識に対して体が否定的な役割を演じているように見えるところも、一般的な意味でのダンスの楽しさからは程遠い。意識は縦横無尽に動くが、体はそのごく僅かしか反映しない。動きのヴォキャブラリーは限られており、体は一定の範囲内でしか伸び縮みしないし、形も変化しない。だから、笠井の意識が踊れば踊るほど、しばしば体はその牢獄のように見える。「透明迷宮」というタイトルはこういう笠井の踊りの本質を的確に表現しているように思う。見えない壁が迷路をなしていて、手探りで進んだ果てが行き止まりだったり、突然壁が途切れて方向がわからなくなったりする、そんな空間を、それでも進もうとするのが笠井の踊りなのだろう。それに対してバッハやショパンを弾いたり即興で音を鳴らしたりする高橋のピアノは、徹底して音という「現象」であることによって、自由を確保している。踊りを楽しんでいるというよりむしろ苦しんでいるように見える笠井を、高橋はあたかも悠然と弄ぶ。
▼『奇妙な孤独』('05、山田せつ子振付・構成・演出、たきしまひろよし撮影)
去年12月にスパイラルで行われた公演の記録映像。こうして続けて見ると、山田せつ子の踊りは笠井のそれと、一見似ているようでいて全く違う。動きの語彙や、フレーズの長さ、リズムはかなり近いのに、山田の踊りは普通に肉でできており、目に見える。目に見える限りでの身体で踊っているので、伸縮や、粘りや、切断や、飛躍が、一つの連続体として動かしがたくある体を分節化したり彩色したりする。そしてそういう「現象」を次々に重ね、織り成していく技術、体でもって一瞬前の体を対象化していく技術としての即興が成立している。これに対して天野由起子はやはり振付けたソロを踊る人であって即興的なセッションはあまり得意でないのではないかと思った。
▼『メグ・スチュアートのアリバイ』('01、メグ・スチュアート振付、マルテン・ヴァンデン・アビール監督)
Meg Stuart's Alibi, choreography by Meg Stuart, film direction by Maarten Vanden Abeele.
最初から映像として作られたヴィデオダンス作品。非常に素早い動きで人の体がカメラの前を飛び交う、そういうショットを次から次へと目まぐるしく組み立てている。ほとんどMTV的な感覚だが、刺激がいたずらに追求されているというよりは、映像の運動が与える刺激そのものに注意を促すような、単調な激しさでもって作り上げられている。
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