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ダンスとか。

山田うん(ダンス)×平野公崇(サクソフォン)

2006-05-18 | ダンスとか
錦糸町・すみだトリフォニーホール(小ホール)。
前半はバッハの様々な曲その他の演奏と、それに振り付けられた小品。平野公崇、松井宏幸、貝沼拓実がサックスを吹き、ダンスは山田うんのソロに、田畑真希や伊藤知奈美が加わる。クラシック音楽用のホールなので客席も平たく、ダンサーの足などは全く見えなかったが、それ以上に、公演そのものがクラシック音楽寄りに(平野サイドから)デザインされていて、それでいてダンスとの共演については何のコンセプトもないように感じられた。狭く奥行きのない舞台にダンスが全く映えないし(背景の照明の色が変化するのなどもひたすら貧しい)、平野たちは舞台のあちこちに場所を変えながら三人並んで演奏に没頭しているだけで別にダンスを見ていない。山田うんの振付も、いつものヴォキャブラリーを使っていながら特に何をどう見せたいという方向性が弱く、何となく形だけ組み立ててみた、というような印象を受ける。いつもならば動きの節々にもっと鋭いエッジが立ち、見ているこちらの体にビクビクと刺激を与えてくれるのに、ここではサックスの音が空間をすっかりアーティキュレートしてしまうのに任せて、もはやダンスが出る幕はなかろうとでも言わんばかりに、萎縮していて主張がない。ダンサーたちも平坦に踊っている。とりわけ序盤の山田うんの踊りは、フォルムが空疎で、体操にしか見えなかった。後半は黒田京子のピアノが加わって全員での即興。ダンスはある程度用意された動きを使っているようだった。黒田は、できるだけダンスを見るようにしているのが特徴的で、他の出演者の気配を把握しながら音を出しているのが、客席からもよくわかった。舞台上の主体と主体との関係が活き活きしている時、観客はその関係を「ドラマ」として楽しむ。このように、ある関係の中で間主体的に生まれてくる「立場」において様々に動的に振る舞うことは、予め描写され細部まで決定された架空の存在を再現前させることとは別なのに、いわゆる「演劇」というカテゴリーの中ではこの二つがあまり区別されていないのではないか、ということを考えた。終盤はサックスとピアノとが加熱して盛り上がった。
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