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ダンスとか。

大駱駝艦・天賦典式 『魂戯れ』

2006-05-19 | ダンスとか
吉祥寺・前進座劇場。
2003年に京都の春秋座で初演された作品なので、この再演でも前進座の歌舞伎の機構が活用されている。そもそも大駱駝艦の舞台はバロック的な猥雑さという点において歌舞伎やレヴューを思わせる部分があるが、それが正面性の強いスペクタクル的な「画」の構成に収斂してしまいがちであるところが勿体ないといつも思っていた。今回も、金色の竹が立ち並ぶ空間の中で、二人の怪物じみたキャラクターをはじめ、左右対称の「画」が多く作られる。花道を麿赤児が走り抜けていったり、男女の集団がズラッと居並んだりしても、本質的にはいつもの大駱駝艦の舞台と大きく違うものではない。回り舞台を駆使した、同心円をなす何層かのダンサーの集団が互いに摩擦を起こしながら行き交う終盤のダイナミックな場面には、まるで巨費を投じて作り上げられたアメリカ映画のスクリーンの中に巻き込まれてしまうかのような迫力があったが、それでもやはり「画」であることには変わりないのだ。舞台が「画」のように硬直してしまうということ、それはすなわちダンサーが「動いていない」ということを意味している。プラクティカルに見れば、まず何といっても、キューが多過ぎるために振付が断片化してしまい、ダンサーにはキューとキューの間のわずかな隙間しか「踊る」余地が残されていない。ダンサーたちはほぼ全面的に振付家によって統制されていて、しかもそれでいて、統制を内面化することなく、表層の従順さで受け止める。これが世田谷パブリックシアターのような劇場だと、「画」はそれを見る者に様式美しか伝えてこないことになる。しかし今回、劇場のサイズはいつもより小さく、また特にタッパが短い。このおかげで「画」には特殊な厚みが、つまりダンサーの硬直した「身体」が「画」の背後に生々しく息づくものとして触知された。壁に塗り込められた若者の身体が、実は全然死んでいなくて、身動きをとれぬままぬらぬらと蠢いている。とりわけ巨大な男根をつけて揺らす三人の女のシーン、すなわち兼澤英子の腰の硬さと、またそれと好対照をなす小林裕子の過剰な腰の振りの無意味さ(律儀に巧くこなせばこなすほど、それは何のレトリカルな効果もなしに、ひたすら文字通り「卑猥」でしかないのだった)が、この舞台がいつの間にか「舞踏」のパロディになっているという印象を決定的なものにした。『肉体の叛乱』の38年前には有効であった悪意が、自らの空転によって、時代の空虚さを語る。どういう経緯を辿ってか大駱駝艦という集団自体が今や「画」であらざるを得なくなっているのではないか、そんな考えが脳裡に浮かんだ。ダンスはとっくに不可能なのであり舞踏すらもとっくに不可能、それでも踊りたい若者が大駱駝艦に集まってくる。そういうやるせない切実さがこの舞台には溢れている気がして、麿の作る「画」の不動の美学が今までとは全く違う色合いに見えた。
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