天王洲アイル・スフィアメックス。
去年枇杷系スタジオでやったやつのような演劇性は弱まり、スペクタクルに回帰。バニョレ予選に出た時のに似たテイストの、爆音+ストロボ+スモーク+絶叫+テクスト・リーディングだった(ダンサーが全裸じゃなく下着を着けていたのは思想上の変節?)。スタート前の、横に寝たダンサーたちのヘンな「待ち」状態とか、爆音がカットインして絶叫が続く冒頭とか、大橋の実に頼りない冷静さとか、自分で肛門に指をねじ込んでのた打ち回る人々のバカさ加減とかが独特の「間」を立ち上げているのだけど、ヨーロッパ風のハイアートからどんな感じで距離を取りたいのか、あるいは取りたくないのかがイマイチよくわからなかった。走り回る男と女にしたって、疲れるのが少し早すぎる気がしたし。興味深かったのは、上手に吊るされた檻の中の女が、パンと水を急いで口に突っ込んで、全部下に出しちゃうというシーン。「監禁された人間」というのは「食事を与えられない(あるいは空腹を満たされない)存在」として表象されるのが一般的だと思うが、この女は必ずしもそうではなく、むしろ過食症とか拒食症とかのイメージを喚起し、すると「檻」も字義通りの「檻」から比喩としての「檻」へと存在のレヴェルがズレていく。もしこういう強い意味作用を狙っているのなら、もっと前の方に持ってくるべきとも思う。檻の中の女のエネルギーが大橋の体内に転送され、大橋が徐々に走り出すというのが長いラストシーン。運動や身体レヴェルでの内容の密度は高くないのだが、音がイイから(ガスカンクおよび音響の仕事が素晴らしい)、ついボーッと受け身で流しつつ音に浸ってしまった。「あなたが」というより「バンドがここにいてほしい」感じだ。いやそれより本当に足りないのはダンスで、普通ならここで気を取り直して後半戦に突入、となるところなのだが、何とそのまま終了した。わずか30分強。そんなんで満足なのかなー。「無駄がない」といえばそうなのかも知れないが、それにしては緩急のメリハリと、マックス値が低すぎる。
去年枇杷系スタジオでやったやつのような演劇性は弱まり、スペクタクルに回帰。バニョレ予選に出た時のに似たテイストの、爆音+ストロボ+スモーク+絶叫+テクスト・リーディングだった(ダンサーが全裸じゃなく下着を着けていたのは思想上の変節?)。スタート前の、横に寝たダンサーたちのヘンな「待ち」状態とか、爆音がカットインして絶叫が続く冒頭とか、大橋の実に頼りない冷静さとか、自分で肛門に指をねじ込んでのた打ち回る人々のバカさ加減とかが独特の「間」を立ち上げているのだけど、ヨーロッパ風のハイアートからどんな感じで距離を取りたいのか、あるいは取りたくないのかがイマイチよくわからなかった。走り回る男と女にしたって、疲れるのが少し早すぎる気がしたし。興味深かったのは、上手に吊るされた檻の中の女が、パンと水を急いで口に突っ込んで、全部下に出しちゃうというシーン。「監禁された人間」というのは「食事を与えられない(あるいは空腹を満たされない)存在」として表象されるのが一般的だと思うが、この女は必ずしもそうではなく、むしろ過食症とか拒食症とかのイメージを喚起し、すると「檻」も字義通りの「檻」から比喩としての「檻」へと存在のレヴェルがズレていく。もしこういう強い意味作用を狙っているのなら、もっと前の方に持ってくるべきとも思う。檻の中の女のエネルギーが大橋の体内に転送され、大橋が徐々に走り出すというのが長いラストシーン。運動や身体レヴェルでの内容の密度は高くないのだが、音がイイから(ガスカンクおよび音響の仕事が素晴らしい)、ついボーッと受け身で流しつつ音に浸ってしまった。「あなたが」というより「バンドがここにいてほしい」感じだ。いやそれより本当に足りないのはダンスで、普通ならここで気を取り直して後半戦に突入、となるところなのだが、何とそのまま終了した。わずか30分強。そんなんで満足なのかなー。「無駄がない」といえばそうなのかも知れないが、それにしては緩急のメリハリと、マックス値が低すぎる。